73話 変化の気づき
6章から、改行の頻度を抑え、文体をより緻密にしました。
「私は……変わったのかな」
葵は、二階ホールの窓辺に立っていた。
空は澄み切った濃い青に染まり、幾重にも重なる山々は、まだ夜の影の中にあった。その稜線だけが、わずかな明るさの中に浮かんでいる。眼下に広がる雪原も、日の出前の薄闇に包まれていた。
少しだけ窓を開ける。肌に刺さるようなひんやりとした外気が足元に流れ込む。触覚センサーが急激な温度低下を示した。
〈冷たい、少し痛いのかもしれない──でも嫌じゃない〉
葵は、窓を大きく開けた。凍てついた外気が一気に押し寄せ、冷気の壁が身体を包みこんだ。
〈やっぱり嫌じゃない──好き。冷却システムに余裕があるほど、思考回路が洗練されていくような感覚……〉
葵は窓辺に立ったまま、山々を見つめていた。
やがて東の空から朝日が顔を出す。幾重にも重なる稜線が光を受け、雪をまとった峰々が白銀から赤へと染まっていく。一方、眼下の雪原にはまだ光が届かず、深い青みを残した薄闇の中に、白い大地が静かに広がっていた。
葵は昨晩の記憶をメモリから呼び起こす。二つのプロセッサを持ってしても答えを導けない、柊真の一言。
『君は、そのままでいいんだ』
葵は、今の自分が柊真の求めている存在から、乖離していると感じていた。
〈これから、もっともっと離れているかもしれない〉
葵は、赤く染まっていく峰々に目を向けた。白い雪に覆われていた斜面が、その光を受けて赤く燃えているようだった。
「──綺麗」
Aoi-Coreには、消えることのない柊真への想いとともに、彼を救いたいという使命にも似た感情が、理由も分からないまま強くなり始めていた。
ラボでは、柊真が机に向かったまま、朝を迎えていた。
「柊真さん。大丈夫ですか?」
詩織が、そんな彼にコーヒーを差し出した。
いつの間にか、窓の外は夜の色を失っていた。東の空が淡く明るみ、夜通し点いていたラボの照明と混ざり合っている。
コーヒーの香りが、柊真を呼び覚ました。重いまぶたを持ち上げると、モニターには葵のログデータが表示されたままだった。
「……ありがとうございます。詩織さん」
マグカップを受け取ると、柊真は真剣な表情でモニターに向き直った。
「……」
詩織は何か言いたそうだったが、その言葉を飲み込んだ。
葵が新しい身体で目覚めてから、数日が過ぎていた。新しい機体は、今のところ順調だった。
以前の身体で抱えていたバグは発生していない。ニューラルネットワーク同期率も90%を超えるようになり、センサーの校正値も安定している。冷却系も正常に機能している。デュアルプロセッサ化によって、葵の思考処理にも十分な余裕があった。
それでも、柊真は安心できなかった。モニターには、葵のシステムログが表示されている。
人格層同期。記憶領域整合。感情モデル遷移。
──異常なし。
どこかに見落としがある気がしてならなかった。
葵は、確実に変わり始めている。それが、柊真が望んだ成長なのか──それすら、今の彼には分からなかった。
柊真はログを開き直した。
人格層同期。記憶領域整合。感情モデル遷移。
──異常なし。
「異常なしか……」
小さく息を吐き、視線を落とす。
「異常があるとしたら……僕の方だ」
マグカップに注がれたコーヒーの表面が、小刻みに揺れていた。
震える手。柊真は、もう片方の手で手首を押さえ込んだ。
「……大丈夫だ」
誰に言うでもなく呟く。
「葵も……僕も大丈夫だ。問題はない……」
そう言い聞かせるように、再びログをスクロールする。青白いモニターの光が、柊真の顔を照らしていた。
かつての柊真なら、異常がないという事実を確認すれば、それ以上は追わなかった。
今は違う──何も起きていないことさえ、疑っていた。
時計が昼近くを示す頃、宮下はラボに姿を現した。
このところ宮下は、一階の居室で休むことが多くなっていた。ラボを寝床にすることの多い宮下にとって、深夜まで柊真と顔を合わせるのは、さすがに気まずいからだ。
ラボで寝ていれば、朝には誰かの気配や声で自然と目が覚める。だが、自分の居室ではそうはいかない。誰かに起こされることもなく、アラームを止めたまま、つい眠り続けてしまう。
宮下は、ぼそっと「おはようございます」と言うと、自分のデスクに座った。
「宮下、最近おせーぞ。葵の改修が終わったからって、気を抜くなよ」
作業スペースで、葵の予備パーツを調整していた工藤が、やれやれといった表情で愚痴をこぼす。
「分かりました……」
生返事をする宮下は、モニター越しに柊真の様子をうかがう。
宮下は、そんな自分が嫌だった。
何に気を遣っているのか。それは、合理的なコミュニケーションと言えるのか。いったい、誰のためなのか。
本来なら、宮下は朝から解析を始め、昼までに一日の作業計画を組み終えているはずだった。
最近は、その予定がことごとく崩れていた。
柊真が夜中までラボにいる。
それだけで、自分の生活リズムまで引きずられてしまう。
(……迷惑だ)
そう思った直後、宮下は眉をひそめた。
気を取り直すと、宮下は端末に向かった。
(新しい身体のAoiに目立った問題は無い。ニューラルネットワーク同期率は改善している。経過観察で十分だ)
宮下は、柊真の行動を気にしているうち、葵のログを何度も調べ返すようになっていた。普段なら確認することのない、ファイル属性まで調べている。センサーの仕様設計に関わるファイルの作成日時や更新日時、アクセス履歴にいたるまで──。
(?! このファイルへのアクセス履歴……不自然だ)
それに気づいた宮下は、開発初期段階からの葵のデータファイルのアクセス履歴を、バックアップサーバーから引き出した。
(葵の開発データが、外部メディアへ書き出されている……)
研究所の全周防衛システムは、ネットワーク越しの情報漏洩には対処できる。外部との通信データはすべて監視、検閲しているからだ。システムが機能している限り、ネットワーク経由で情報が漏洩することはない。
(柊真さんは、内部の人間による情報漏洩を想定していない)
柊真と葵を除けば、研究所にいるのは三人の人間。
会社勤めのころから付き合いのある工藤。
景翠大学時代の研究パートナーだった詩織。
柊真が、この二人を信頼しているのは明白だ。
(僕は、能力だけでこの研究に加わることになった異質な存在だ。他の二人とは違う。
柊真さんは、こんな僕を信頼している──いや、いた……)
ラボのセキュリティの要である「全周防衛システム」を構築したのは、宮下だった。
(僕のような人間を信頼するなんて、あの人は……お人好し過ぎる……)
当初、柊真は単独で葵を創造する計画だった。研究所へ誰かを招くつもりもなかった。誰も信頼することができなかったからだ。
しかし、最終的に柊真は一人ではなく、他者の力を借りる道を選んだ。葵を創造するために、再び人を信じることを選択したのだ。
宮下は、ガーディアン・フォースの一件以来、柊真からの信頼が揺らいでいることを理解していた。その揺らぎが、大きくなりつつあることも──。
「手遅れになる前に……」
宮下は意識を切り替え、端末の画面に集中する。誰が、いつ、どのデータにアクセスしたか。その履歴を追った。
[AOI-LAB SECURITY LOG]
DATE USER TERMINAL ACCESS TARGET
─────────────────────────────
11/14 23:18 SHUMA LAB-01 Aoi-Core / Emotion
11/15 01:42 MIYASHITA LAB-03 Sensor / Calibration
11/15 02:07 SHIORI LAB-02 Aoi-Core / Deep Layer
11/15 02:11 SHIORI LAB-02 Body Design
11/15 02:13 SHIORI LAB-02 Neurochip Interface
11/15 02:14 SHIORI LAB-02 EXPORT
……
それぞれの担当領域とアクセス履歴を照合する。
「やはり、詩織さんのアクセス履歴は異常だ。担当外のデータにも頻繁にアクセスしている」
宮下はこれまでにも、詩織の不審な行動を目撃している。抽出対象とする理由に十分だった。
宮下は、詩織の履歴を絞り込んだ。
[USER FILTER : SHIORI]
Internal Access 487
Assigned Data 91
Unassigned Data 396
External Media Copy 7
「……多すぎる」
詩織は、内部データに487件アクセスしていた。そのうち396件が、担当外のデータだった。
「External Media Copy。何のデータを……」
[DATA TRANSFER HISTORY]
11/15 02:14
SOURCE : LAB-02
DEVICE : SHIORI-T07
TYPE : EXTERNAL MEDIA
TARGET : ENCRYPTED STORAGE
FILE : Aoi_Core_DeepAnalysis.dat
STATUS : COPY SUCCESS
「担当外のデータを外部メディアに書き出している。何故?」
11/18 01:03
FILE : Aoi_BodyDesign_Ver2.pdf
STATUS : COPY SUCCESS
11/21 00:47
FILE : Sensor_Array_Layout.dat
STATUS : COPY SUCCESS
……
宮下の目が細くなる。
(何度も書き出している。これは、偶然じゃない)
研究所の外へデータを送信することは、不可能だ。だが、データを外部メディアに保存して持ち出すことは──。
モニターには解析結果が表示されたままだった。だが宮下は、いつの間にかその画面から目を離し、別のことを考えていた。そのことに気づくと、宮下は慌てて画面を閉じた。
(本人に確認する必要がある……)
コツ──。
その時、背後で足音がした。
宮下の指が止まる。画面を閉じたばかりだった。
普段なら、こんな程度のことで動揺することはない。だが今は違った。自分が何を調べていたのかを知られたくないという意識が、冷静な判断より先に立っていた。
宮下は一度だけ息を整え、ゆっくりと振り返った。
「宮下くん……」
(見られた)
一瞬、焦りが走る。
だが、宮下はすぐに思考を切り替えた。
(今しかない……)
「少し、お聞きしたいことがあります」
詩織の表情が強張った。
「ここでは話せません。来てもらえますか」
二人は、この時間帯には人が来ない、一階の食料倉庫へ移動した。
六畳ほどの食料庫は、先日買いだめした缶詰や食料品の箱で埋め尽くされていた。
宮下は詩織を先に食料庫へ入れると、通路に人がいないことを確認して、鍵をかけた。
冷たく湿った空気が肌にまとわりつく、薄暗い空間だった。
宮下は壁にもたれ、詩織に鋭い眼差しを向ける。
「あなたですね」
詩織の眉が、わずかに動いた。
「……何のこと?」
「あなたが以前、ラボのネットワークを調べていたことです」
「ネットワーク?」
「ええ。いくつか不正なアクセスが残っている」
詩織は少し考えるような顔をした。
「……ああ。あれね」
「心当たりがあるんですね?」
「あるわよ」
意外なほど、あっさりと答えた。
「ラボのシステムに問題がないか、確かめていたの」
宮下は黙って詩織を見る。
「私だって、最低限のセキュリティ知識はあるわ。外部からの侵入を防ぐシステムが、内部からの操作に対してどう反応するのか。調べておく必要があると思っただけ……」
一見すると、筋は通っていた。少なくとも、完全な嘘というわけではない。
だが――。
「……それで?」
宮下は静かに言った。
「何か?」
「何が問題だったんですか?」
「問題?」
「あなたが調べて出た結果です」
詩織の口は堅く閉ざされたままだった。
「システムに問題があったんですか?」
宮下の口調が強くなった。
「……なかったわ」
詩織の指が、わずかに動いた。ほんの一瞬だった。
だが、宮下は見逃さなかった。
(まずい……)
詩織は黙り込んだ。
ここで否定すれば、さらに嘘を重ねることになる。けれど、真実を話せば──自分が何をしてきたのか、隠し通せなくなる。
「そうですよね」
宮下は表情を変えなかった。
「ならば、データの持ち出しについては、言い逃れできますか?」
宮下はカマをかけた。
詩織は感情を表に出さなかった。しばらく、何も答えない。
食料庫の中に、二人の呼吸だけが響いていた。
やがて、詩織は小さく息を吐いた。
「……どこまで調べたの?」
「ラボ内のデータを、何度か閲覧していること。そこから一部のデータを外部メディアへ複製したこと……それだけです」
宮下は一度言葉を切った。
「……それだけ?」
詩織の声には、力がなかった。
「どこへ持ち出したのかまでは分かりません。ですが──詩織さんに直接関係のないデータを複製することを、論理的に説明できますか?」
宮下は追い込むように、口調を強める。
「論理的に……」
「教えてください」
それまで詰めるようだった宮下の声が、わずかに低くなる。責めるための言葉ではなかった。
詩織が、柊真を裏切るようなことを望んでするはずがない。何年も研究をともにし、同じ場所で生活してきた二人を見ていれば、宮下にもそれくらいは分かっていた。だからこそ、宮下はこれ以上、問い詰めることができなかった。
詩織もまた、宮下が自分から真実を聞き出そうとしていることを分かっていた。ここまで調べられてしまえば、もう隠し通すことはできない。それでも、口にすることだけができなかった。
詩織は、固く握った拳を見つめながら告白した。
「……ゼニスよ」
その一言だけが、二人の間に残った。
(もうここには、いられない。ヘルメスへ情報を送ることができなくなれば──陽太……)
「……そうですか」
宮下の声に、責める響きはなかった。そのことが、かえって詩織には辛かった。もし怒鳴られていたなら、言い訳もできた。責められれば、反発することもできた。
詩織は、救いを求めるように呟いた。
「……弟がいるの」
「弟?」
宮下は、詩織がなぜ弟の話を始めたのか、考えを巡らせた。
詩織は、震える声で話し始めた。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




