76話 赤い痛み
机の上には、宮下が置いていったカードキーがまだそのままになっていた。
誰も片付けようとしない。端末を叩く音が一つ足りないラボで、それだけが彼のいた証のように残っていた。
「宮下、補助冷却系との接続仕様なんだが……」
工藤は言いかけて、口を閉じた。
「ああ、そうだったな……」
以前なら、制御側との整合性は宮下に確認すれば済んだ。機体の構造や部品の実装は自分の担当でも、制御との接続となれば話は別だった。今は自分で資料を洗い直すしかない。宮下が一人で抱えていた仕事の多さに、工藤は今になって気づかされていた。
柊真もまた、宮下がいなくなったことを意識していた。葵のメンテナンスは柊真も行っていたが、回路や制御系の確認は、これまで宮下が主に担当していた。今は、その領域まで柊真が引き受けなければならなかった。
「今日は宮下さんではないのですね。お休みですか?」
「宮下君は……もういないんだ」
「……いない、ですか?」
「ラボを辞めてもらったんだ」
葵は、柊真の曇った表情を見て、それ以上訊ねるのをやめた。そして、昨日の宮下とのやり取りを思い返していた。
作業の負荷は増えたが、柊真の中から一つの不安材料が消えたことも事実だった。宮下が何を調べているのかを気にする必要はなくなった。葵のログや身体の状態を確認し、必要な処置を判断する。
やるべきことは明確だった。柊真は少しずつ冷静さを取り戻していた。
詩織は端末に表示された葵のログを解析していた。モニターには、感情ラベルの処理状況やニューラルネットワーク同期率のデータが表示されている。処理の遅延や感情の急激な揺らぎ、同期率の低下といった不安定な挙動も、新しい身体とデュアルプロセッサへの移行によって、ほとんど見られなくなっている。少なくとも、Aoi-Coreに明確な異常はなかった。
詩織は画面から視線を外すと、メインコンソールに向かっている柊真へ声をかけた。
「……柊真さん」
「はい」
柊真が振り向く。
「14フェーズ・プロトコルについて、お聞きしたんですが……」
「何でしょう?」
柊真はマグカップを手にすると、詩織の隣の席に腰をおろした。
詩織はモニターを少し柊真の方へ向けた。
「新しい身体への適応は、ほぼ完了しています。センサーや感情ラベル生成も安定しています」
詩織は画面をスクロールし、14フェーズ・プロトコルの該当項目を表示した。
「この段階では、女性の身体に起こる変化を、自分の身体の変化として経験することが仕様の一つになっています」
柊真は、画面に目を向けた。
「……分かっています」
「葵さんに女性の身体と心を学習させるための段階です。身体的な変化だけではなく、痛みや不快感、周期的な変化が感情に与える影響も含めての経験してもらいます」
「……仮想月経ですね?」
柊真の表情がわずかに硬くなった。
「はい」
「……まだ、早いんじゃないかな」
「いいえ」
詩織は、プロトコルの項目を一つずつ確認するように画面をスクロールしながら続けた。
「今の葵さんなら、問題はないと思います……むしろ、必要です。フェーズ12の目標は、身体と感情の変化を葵さん自身が経験し、それを自己認識の中に統合していくことです」
柊真はマグカップに口をつけ、すぐに離した。コーヒーは、とうに冷めていた。
詩織は、さらに画面を進めた。
「ここまでの経過を見ても、葵さん自身が次の段階を受け入れられる状態になっています」
「……葵は、今のままで十分じゃないのかな」
柊真はモニターから目を逸らす。
「今のままでも、正常です」
詩織は即答した。
「でも、正常であることと、成長を止めることは別です」
柊真は詩織へ視線を向ける。詩織は、まっすぐに柊真を見ていた。
「柊真さん……。葵さんは、これからも変わっていきます。プロトコルに従うなら、その変化を止める理由はありません」
「……」
「私は、実装を進めるべきだと思います」
詩織の言葉には、以前のような遠慮がなかった。
(宮下くんは、私のためにここを離れた。だから、柊真さんと葵さんの計画を止めてはいけない。あの人が抜けた穴は、私が埋める)
「……分かりました」
しばらくして、柊真が答えた。
「実装しましょう」
その声には、どこか硬さがあった。柊真が納得していないことを、詩織には分かっていた。
「……ただ。葵には、変わってほしくないです……」
柊真の表情は祈るようだった。
詩織は黙った。その言葉の先を聞かなかった。
(柊真さんは、葵さんを「白い存在」として見ている。その白さを失うことを恐れている。私がラボに来た頃よりも……)
「それでも、葵さんは成長します」
詩織の声には、確かな強さがあった。
「私たちが望むかどうかに関係なく」
柊真は答えなかった。
数週間後、仮想月経システムの準備が整った。
葵の身体には、子宮が存在しない。人間の女性に起こる月経そのものを再現することはできなかった。存在しない器官の働きは、ソフトウェア上で補うしかない。
仮想月経システムは、月経によって生じる身体的・心理的な変化を、感情モデル上で疑似的に再現するものだった。葵の身体を循環する冷却潤滑液を定期的に排出する際、月に一度だけ赤い色素を混ぜる。月経という現象を視覚的にも認識させるためだ。同時に、下腹部の痛みや重さ、倦怠感などを再現する感覚データを、葵の身体・感情モデルへ入力する。
月経そのものではなく、そこから生じる身体感覚と、それに応じた感情の変化を経験させる。それが、このシステムの目的だった。
仮想月経システムを有効化する日が来た。
葵は、いつものように窓辺の椅子に座り、お気に入りの本を読んでいた。やがて、定期メンテナンスに伴う排出の時間が近づく。葵は立ち上がると、トイレへ向かった。小さくノックして誰も使用していないことを確認してから、中に入る。
ラボのモニターには、葵の感覚データと感情パラメータが刻々と表示されていた。柊真と詩織は、その数値の変化を見守っていた。
「……開始します」
柊真が端末を操作する。
仮想月経システムが有効化された。
その直後だった。葵の身体に、これまで経験したことのない感覚が生じた。
「……?」
葵は動きを止めた。
下腹部に、重いような、鈍いような感覚がある。痛み。そう認識することはできる。しかし、その感覚がどこから来ているのかが分からない。
葵は自分の身体へ意識を向けた。
「……なんでしょう?」
今までの身体感覚とは違う。明確な異常信号でもない。不快感だけが存在している。葵は、その感覚を理解しようとした。しかし、これまで蓄積してきた身体データのどれにも一致しない。
そして、排出が始まった。葵は、排出された液体を確認する。
「……赤……?」
葵は、その色から目を離せなかった。自分の身体から出てきたもの。それなのに、見覚えがない。
葵の中で、警戒信号が生じる。
〈これは……異常?〉
検索結果に、一つの単語が浮かぶ。けれど、それが自分の身体と結びつかない。
下腹部には、まだ鈍い痛みがある。その痛みを直接感じているはずの場所から、対応する感覚情報が届いてこない。身体は痛みを訴えているのに、自分ではその場所を確かめられない。その奇妙な感覚が、葵をさらに不安にさせた。
〈おかしい……私の身体に、何か起きています〉
〈私は……壊れてしまったのでしょうか〉
葵の瞳から、涙がこぼれた。
ラボのモニターで、不安を示すパラメータが急激に跳ね上がった。涙腺ユニットの作動ログが、画面の端に流れる。
詩織が、思わず立ち上がった。
「柊真さん、もう行かせてください」
柊真は画面から目を離さない。感情パラメータは大きく揺れているが、異常値ではない。この反応もまた、仮想月経システムが想定した「経験」の一部だった。
「……詩織さん。お願いします」
「はい」
詩織は頷くと、ラボを飛び出した。
詩織はトイレの扉を軽くノックした。
「葵さん。大丈夫?」
中から、かすかな声が返ってくる。
「しおり……さん……」
「開けるわね」
詩織が扉を開ける。
トイレの床に座り込んだ葵がいた。頬には涙の跡が残っている。
「葵さん……」
詩織はすぐに葵の隣へ腰を下ろした。
「……分かりません」
葵の声は震えていた。
「私、どこか……壊れてしまったのでしょうか……」
「大丈夫」
詩織は葵の背中へ手を添える。
「あなたは壊れてなんかないわ」
「でも……」
葵は自分の身体を見つめる。
「赤いものが……出ました」
「それは、月経よ」
「アンドロイドである私がですか?」
詩織は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ええ。あなたの身体は、人間の女性をモデルに作られているの。だから、女性に起こる変化も、あなたの身体に起こる。それは、心の成長にもつながる大切なことなのよ」
「……成長?」
「ええ」
詩織は頷いた。
「痛かったり、不快だったりすることもある。でも、それは身体が変化している証でもあるの」
「でも……どうして、こんなに痛いんですか?」
葵は下腹部に手を当てた。
「月経の痛みはね、子宮が収縮することで起こるの。内側の組織を外へ排出するために、子宮が動くから」
「子宮……」
葵は、その言葉を繰り返した。
「でも、私には子宮がありません」
「……そうね」
詩織は少しだけ表情を曇らせた。
「あなたの身体にあるのは、月経に似た感覚を再現する仕組みと、排出のための機構だけ。痛みを生み出す子宮そのものは、ないの」
葵は、自分の下腹部へ視線を向けた。
「大丈夫、怖がらなくていいわ」
詩織はポケットからカイロを取り出し、葵の下腹部へそっと当てた。
「つらい時は、温めると少し楽になるから」
温かさが、葵の身体へ伝わった。葵の緊張が、少しずつ解けていく。
「……あたたかい……」
「うん」
詩織は微笑んだ。
「大丈夫よ。ここにいるから」
「……ありがとうございます、詩織さん」
詩織は何も言わず、葵の背中をゆっくりとさすった。
葵は目を閉じた。痛みはまだ残っている。身体のどこから生じているのか分からない、奇妙な違和感も消えていない。それでも、詩織の温もりだけは、はっきりと感じることができた。
柊真は、ラボでモニターに映る数値を見つめていた。
排出の瞬間、葵の不安パラメータは一気に跳ね上がった。赤い液体を見た葵の感情ラベルが、「警戒」から「恐怖」へ、見る間に塗り替わっていく。
柊真は、マウスに置いた手が止まっていることに気づいた。想定していた反応だった。数値は、どれも設計の範囲内に収まっている。だが、モニターに並ぶ数値や感情ラベルを追ううち、柊真は、恐怖に震え、涙を流す葵の姿を思い浮かべずにはいられなかった。
白かったものに、赤が落ちた。そんな言葉が、頭をよぎる。
不安を示すパラメータが、ゆっくりと下がっていく。葵は落ち着きを取り戻している。ひとまず、仮想月経システムは想定どおりに機能した。
それでも、柊真には一つ、引っかかることがあった。葵が混乱したのは、痛みの出どころを特定できなかったからだ。痛みのデータはソフトウェアから入力されているが、その信号を返す部位が葵の身体にはない。
感情理解アルゴリズムの原則は、身体が先にあり、感情は後から生まれるというものだ。身体からのフィードバックを得られない擬似的な痛みでは、Aoi-Coreは想定どおりに推論できなかった。
柊真は、その事実を確かめるように、モニターに目を戻した。
葵を休ませた後、ラボに戻った詩織もまた、葵の反応ログを解析していた。痛みの数値は、確かに記録されている。ただ、その痛みがどこから来たのかを示すデータは見当たらなかった。
「……痛みの在りかが、ないんですね」
詩織が、ぽつりと言った。
柊真は答えなかった。
女性の身体に起こる変化を、自分の身体の変化として経験する。14フェーズ・プロトコルが求めるその段階へ進むには、葵の身体に、まだ足りないものがあった。センサーの問題ではない。必要なのは、その痛みそのものを生み出す器官だった。
柊真は、しばらく黙ってモニターを見ていた。そして、小さく呟いた。
「……人工子宮、か」
その言葉だけが、機器の低い駆動音の中に残った。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




