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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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70話 変わる器

翌朝。

制作室の中央に設けられた作業台に、葵が静かに横たわっていた。

昨日まで動いていた身体は、今は完全に停止している。


工藤は工具を並べ、宮下は端末に作業手順を表示していた。

詩織は少し離れた場所に立ち、二人の作業を見つめている。

柊真は、葵の傍らに立っていた。


「……始めるぞ」


工藤の声に、宮下が頷く。


まず、外装を取り外していく。

葵の皮膚は一体成形ではない。メンテナンスや交換を考慮し、外装は分解可能な構造になっている。

工藤は固定部を解除し、胸部、腹部のシリコン皮膚を取り外していった。


カーボン樹脂や金属製の内部構造が露わになる。

外装を外していくと、内部にはフレームを走る太い配線や、バッテリー、冷却液などを収めたタンク、駆動機構などが姿を現した。

人間の少女にしか見えなかった葵の身体が、少しずつ機械としての姿を現していく。


「工藤さん、股関節周辺と肩の外装も取り外してください」


「腕や脚は、全とっかえじゃなかったか?」


「ええ。ですが、関節部には腕と脚を制御する回路と、一時的にではありますがセンサー情報を保存するメモリがあるんです」


身体各所には、センサーから送られてくる信号を処理する回路やメモリも分散して組み込まれていた。


「そうだったな。制御基板やメモリも移植するんだった……

 他にもあるか?」


「手首付近にもあります。掌が受け取る情報は膨大なので」


宮下は、脚部や腕部から必要な基板やメモリを取り出していく。

続いて、胴体部分からも、新しい身体へ移植する部品を取り出した。


経口摂取ユニット、自己完結型排出ユニット、発汗用リザーバータンクの制御回路など。


葵の身体から、一つ、また一つと、彼女を形づくっていたものが取り出されていく。


柊真は、それを虚ろな目で見つめていた。


小さな基板。

手のひらに収まるほどの部品。

ただの電子部品にしか見えない。


それが葵の身体の中で長い時間を過ごしてきたものだと思うと、胸の奥がざわついた。


宮下が別のユニットを取り外す。


葵の身体から、ひとつずつ何かが失われていく。

そう思えてしまう。


呼吸が浅くなっていた。

指先にも、わずかな震えを感じる。


「……柊真さん」


いつの間にか、隣に詩織が立っていた。

柊真は返事をしなかった。


詩織は、それ以上何も言わず、そっと彼の腕に触れた。


「大丈夫です」


小さな声だった。


「葵さんを失うわけじゃありません」


柊真は、目の前の葵を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


「……分かっています」


頭では、分かっている。

これは破壊ではない。

新しい身体へ繋ぎ直すための、必要な工程だ。


また一つ──目の前で葵の身体から部品が取り出された。

その光景を、柊真は理屈だけで受け止めることはできなかった。



それから数日が過ぎた。

葵の身体から取り外された部品は、新しい機体へ少しずつ組み込まれていった。


宮下の手元には、葵の中枢を担ってきたGE-X91と、今回追加する蒼菱産業製の軍事用プロセッサが並んでいる。

静電防止手袋をはめ、軍事用プロセッサを持ち上げた。

その裏面には、専用に設計されたインターポーザーが固定されている。


「少々不格好ですが……この変換基板を介して、必要な信号だけをソケット側へ引き出しています」


宮下が基板を裏返しながら配線を確認する。


「これで大丈夫なんだよな?」


工藤は、基板を確認しながら念を押した。


「認証回路は無効化してあります……」


宮下は、昨晩の柊真とのやり取りを思い出す。


開発段階の軍事用プロセッサが、なぜ自分たちに提供されたのか──それだけが気がかりだった。

その疑念だけが、まだ消えていない。

工藤に、そのことを伝えようと一瞬迷う。


すぐ隣には柊真がいる。

昨夜の反応を思えば、これ以上話を広げるべきではない。


「──問題はありません」


宮下は、喉まで出かけていた言葉を飲み込んだ。


「お前の一言で安心した」


工藤の表情は和らいた。


「作業を続けます」


宮下は胸骨部の外殻ハッチを専用工具で開け、葵の中枢とも言えるGE-X91をソケットへ。

その隣に設けられた二回りほど大きなソケットへ、新しいサブプロセッサを慎重に差し込んだ。

こうして、胸部には二つのプロセッサが並んだ。



実装を終えた宮下が、次の工程へ移る。


プロセッサに、厚みを持たせた銅製のヒートシンクを取り付ける。

熱はヒートパイプを通じて、放熱を担う背骨へ送られる。

胴体や頭部の処理ユニット周辺には、蜘蛛の巣のように細いマイクロ流路が張り巡らされている。

それらは背骨へ集められ、冷却系へ接続されていた。


「これ全部、冷却用ですか?」


詩織が尋ねる。


「そうだ。プロセッサや胸部の処理系から出た熱を、背骨へ逃がす」


柊真がサーモグラフィを起動する。

宮下がリザーバータンクへ冷却液を注入すると、ポンプが回り始めた。

青い液体が細い流路へ入り、胸部から背骨へ向かって流れていく。

やがて、サーモグラフィに映る胸部の熱が背骨へ広がり始めた。


「流量正常。熱勾配も問題ありません」


背骨そのものを、巨大な放熱・熱拡散構造として利用していた。

さらに頸椎上部には、細長い排熱スリットとファンが設けられている。


工藤は、銅とCFRTPを複雑に組み合わせた背骨を撫でた。

熱を運ぶ銅と、強度と軽さを担うCFRTP。その両脇には、身体を動かすためのロッドが規則正しく並んでいる。


「我ながらいい出来だ。

 ヒートパイプとマイクロ流路で運ばれた熱は、背骨に集まる。背骨から肋骨へ熱を伝える。これからは、背中全体が放熱面として機能する」


工藤がテストモードを起動する。

葵の身体を想定した負荷をかけ、プロセッサを連続稼働させる。


柊真はサーモグラフィと処理ログを同時に確認した。


「60度……安定しています」


宮下が負荷をさらに上げる。


以前の機体なら、60度を超えると、温度上昇に応じて処理能力を抑える必要があった。

70度に近づくと、さらに演算を制限する。

かつて葵が78度で強制停止したことを、柊真は覚えている。


だが、新しい冷却系では違った。


「63……65……」


温度は上昇するものの、背骨へ送られた熱が広い範囲へ分散されていく。


「67度で頭打ちです」


宮下がログを確認する。


工藤が頷いた。


「これなら、熱でシステム稼働率を絞る必要はねぇな」


柊真は処理ログを見つめた。


「Aoi-Coreの処理能力、まだ余裕があります」


従来の機体では、温度上昇を抑えるために発生していた処理制限が大きく減っている。

テストログの解析では、Aoi-Coreの実効的な処理能力は約25パーセント向上していた。


冷やせる。

だから、回せる。


柊真は、二つ並んだプロセッサへ視線を向けた。


「それに、今回は構成そのものが違う」


GE-X91は、これまで通りAoi-Coreの中核として感情理解や推論を担う。

その隣に追加されたサブプロセッサは、身体各所から送られてくる感覚情報や周囲の環境情報を整理し、必要な形に変換してGE-X91へ渡す。


一つのプロセッサに集中していた負荷を、二つに分散する。


──デュアルプロセッサ構成。


「これなら、14フェーズ・プロトコルを計画通り進められる可能性があります」


柊真の視線が、Aoi-Coreの処理ログへ移る。


葵が抱えている未解決の感情群。

感情処理の過程で発生していたバグ。

そして、機体の処理能力と冷却能力の限界によって生じていた認知バッファリング。


すべてが一度に解決するわけではない。

だが──。


「少なくとも、これまでより先へ進める」


柊真は静かにそう言った。


しばらくして、宮下が端末を閉じた。


「内部構造の作業は、これで一段落ですね」


「そうだな」


工藤も工具を置き、短く息を吐いた。



内部構造の組み立てと各種試験を終えるまでに、さらに数日を要した。

ここまでの工程では、工藤と宮下が中心になって作業を進めてきた。

骨格、駆動系、制御系、プロセッサ、冷却機構。機械としての身体を組み上げる作業だった。


だが、ここから先は少し違う。


葵の身体を覆い、触れたものを感じ取り、人の肌に近い感覚を生み出す──機械の身体を再び「葵の身体」に戻していく工程だった。


作業台には、まだ外皮をまとっていない葵が横たわっている。

少女の形はしているが、機械としての構造が剥き出しになっていた。


工藤が作業台の脇に置かれていたケースを開く。

中には、部位ごとに整然と収められた外装パネルが並んでいた。


「これが、葵の新しい皮膚ですか?」


詩織が覗き込む。


「正確には、装甲とセンサー、皮膚を含めた外装ユニットだ」


工藤が一枚を取り出した。


頬の曲線に沿うよう成形された外装パネル。

その内側には、すでにセンサーネットと流水ネットが組み込まれている。


「前の葵を三次元スキャンしたデータを基に、形状を起こしてある。

 自己修復シリコーンエラストマーも、もうこのパネルと一体化している」


工藤は外装の縁を指で示した。


「だから、身体に合わせて皮膚を作り直す必要はねぇ。取り付けて、位置を調整すればいい」


詩織は頷きながら、それを両手で受け取った。


「……葵さんの形、そのままなんですね」


「ああ。今までの葵を基準にしてる」


工藤は作業台に並ぶパネルを見渡した。


「ただし、メンテナンスは前より楽になる。傷んだ場所だけ外して交換できるようになってる」


詩織はもう一度、柔らかな外皮へ目を落とした。


ここからは、機械を組み上げるだけではない。

目の前にあるものを、一人の少女の身体として仕上げていく工程だった。


工藤は、胸部パネルを持ち上げた。


「詩織、手伝ってくれ」


「はい」


詩織が工藤の隣へ移動する。


「まずは、このパネルからだ」


パネルの裏側には、機体側の固定ポイントに噛み合う小さなロック機構が設けられている。

パネルを所定の位置へ合わせて押し込むと、内部のラッチが噛み合い、外装がフレームに固定される。

継ぎ目は柔軟なシリコーン同士が密着し、ほとんど目立たない。


「触覚センサーの密度は同じなんですか?」


「基本はな」


工藤は答えた。


「場所によって感度を変える場合もあるが、センサーそのものは均一に敷いてある。実際の感度はソフト側で調整する」


腹部のパネルに取りかかったところで、工藤が補足する。


「このパネルには、流水ネットを仕込んである。この流水用のパイプはパネル間での接続が必要だ」


センサーネットと同様に、細かな流路が網目状に形成されている。

発汗による補助冷却用の水を流すネットワークだ。


「全部に入れるんですか?」


「いや。熱を持つ場所だけだ」


工藤は腹部パネルを指で示した。


「背中、腹部、大腿部、首筋、頭部。それとアクチュエーターの近くだ」


センサーネットと流水ネットが重なる部分では、皮膚感覚への影響が出る。

そのままでは、皮膚感覚に影響してしまう。


「二重になる場所は、センサーの感度が少し落ちますね」


「だな。そこはソフトで補正する。

 冷却のために必要な場所と、触覚を優先する場所を分ける。全部を同じにする必要はねぇんだ」


流水ネットは発熱部位に沿って必要な範囲だけに配置され、触覚を優先する部分には極力重ならないよう設計されていた。


「パネル同士の位置合わせは慎重にな。センサーの初期値がズレる」


「はい」


詩織は慎重に調整する。


葵の身体を見つめていた詩織の手が、一瞬止まった。


葵は小さな身体をしている。

華奢で、細い。

それでも、胸や腰、臀部へ続く曲線には、明確な女性の身体としての形が与えられていた。

機械のために作られた構造なのに、そこには人間の身体を思わせる柔らかさがある。


詩織は、しばらく黙っていた。


「……詩織?」


工藤の声に、我に返る。


「すみません」


「どうした?」


「……いえ」


詩織は首を振り、再び作業へ戻った。


葵はアンドロイドだ。

人間ではない。

それなのに、こうして女性の身体を模した形を目の前にすると、どうしても考えてしまう。


皮膚。

温度。

触れた感覚。

誰かと手をつないだ時の感触。

抱きしめられた時に伝わる身体の柔らかさ。


そうしたものを感じるための身体は、葵にとって本当に必要なのだろうか。


胸部の作業を終え、下半身へ進む。


腰。

臀部。

太腿。

そして、内腿へ。


詩織の手が、そこで止まった。


内腿のパネルを合わせた先には、人間の女性なら当然備えている身体の形があった。

葵の新しい身体にも、それは形作られていた。


だが、詩織には、その意味が分からなかった。


必要なのだろうか。

葵が人間のように生きるために。

それとも、ただ人間に似せるために。


「……」


工藤は何も言わない。


詩織は一度だけ息を吐くと、作業へ戻った。


分からないことは、まだ多い。

それでも、今は葵の身体をきちんと仕上げる。

自分にできることをするだけだった。


鈍い黒色のフレームも、銀色の部材も、銅色の熱伝導部品も、柔らかなシリコーンの内側へ隠れていく。

機械の身体は、再び人間の少女の姿へ戻り始めていた。


ただ、以前とは違う。


新しい皮膚もまた、葵の触覚を支える感覚器官の一部になる。

そしてその内側では、冷却液が流れ続ける。

新しい身体は、完成へ近づいていた。



柊真は少し離れた机で、センサーの校正データを確認していた。


時折、視線が新しい皮膚をまとい始めた葵へ向かう。

まだすべての外装が取り付けられているわけではない。

葵は、少しずつ人間の少女に近づいていた。


柊真は、しばらくその姿を見つめていた。


(……綺麗だ)


そう思った。


それは、身体そのものへの欲望とは違っていた。

美しい彫刻や、雪に覆われた静かな景色を見つめるときに近い。


ただ、葵の場合は、それだけではなかった。


ドールだった頃から、ずっと大切にしてきた。

そしてアンドロイドになり、一緒に暮らすようになってから、その存在はさらに大きくなった。


笑い、悩み、誰かを心配し、ときには自分のことまで気遣ってくれる。

長い時間を共に過ごすうちに、葵はもう、ただのAIではなくなっていた。

かけがえのない存在だった。


愛している──。


その気持ちに、迷いはなかった。


けれど、変わってほしくない、と。

どこかで、そう願っている自分もいた。


傷つけたくない。

汚したくない。

失いたくない。


できることなら、このまま何も変わらずにいてほしい。

そんな願いが、一瞬だけ胸の奥をよぎる。


葵には、これからも変わっていく未来がある。

その変化まで、自分が奪ってはいけない。


だから柊真は、その願いを心の奥へ押し込めた。

ただ、幸せでいてほしい。


それだけだった。


「柊真さん」


詩織の声に、柊真は我に返った。


「外装、終わります」


「……ああ」


柊真は小さく頷き、もう一度だけ葵へ視線を向けた。


その胸部には、新しいニューロチップを保護するためのフレームが組み込まれていた。

それは、他の部品とは少しだけ違っていた。

前の機体の両脚に使われていた、スチール製の骨組み。


新しい身体には不要な部品だった。

軽量化だけを考えれば、新造したほうがはるかに合理的だった。

それでも、柊真は残すことを望んだ。


「……最初の身体だから」


柊真は、誰に聞かせるでもなく呟いた。


工藤はその言葉を聞いていた。


「まあな」


短く答えると、胸部フレームを確認する。


「これなら、意味はある。お前の『最初』が、ここに残る」


柊真は深く頷いた。


「……ありがとうございます」


工藤が最後の外装パネルを、固定した。

そして、頬へそっと手を添えた。


「よし」


工藤の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「これなら、もう身体が足を引っ張ることはねぇな」


その声は、娘の成長を見届ける父親のように、どこまでも穏やかだった。



それからまた数日が過ぎた。

作業台には、葵が薄い布をかけられ、横たわっていた。

眠っているような表情。

外見だけを見れば、以前の葵と大きな違いはないが、その内側はほとんど別の身体へ生まれ変わっている。


工藤が重量計のスイッチを入れた。

電子音とともに表示が立ち上がる。


「計るぞ」


表示が安定するまで、全員が黙って見守った。

やがて、数値が固定される。


42.5kg。


一瞬、制作室が静寂に包まれた。


「……40キロは切れなかったか」


工藤が腕を組む。


「冷却系で金属部品を増やしたからな」


宮下が表示を確認しながら苦笑した。


「安全性を削るわけにもいきませんでしたし」


詩織もタブレットの記録を確認する。


「十分だと思いますよ。身長145センチの女性と比べても、標準的な数値です」


「そうか」


工藤は表示をもう一度確認すると、ふっと笑った。


「まあ、悪くねぇな」


柊真も、眠る葵を見つめながら小さく頷いた。


「……ありがとう、皆」


誰に向けた言葉だったのか。

誰も聞かなかった。


制作室には、金属と樹脂の匂いだけが微かに漂っている。

ハードウェアの実装は、これで完了した。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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