71話 ヒトの身体、ドールの身体
葵が停止する、少し前の盛夏のことだった。
研究所の奥にある第二工作室──塗装やパーツ洗浄に使うその部屋は、揮発性の高い有機溶剤を扱うため空調が特殊で、人目も少ない。
工藤は、この部屋に柊真を呼び出した。
扉を開いた瞬間、ツンと鼻をつく溶剤の匂いと、むっとする熱気が柊真を襲った。
「……失礼します」
工藤は作業用の椅子に深く腰を下ろし、タオルで汗を拭きながら柊真を待っていた。
「わりいな、こんな所に呼び出しちまって。ちょっと臭ぇが……すぐ慣れる」
いつもとは違う重い雰囲気に、柊真も表情を引き締めて腰を下ろす。
長い沈黙の後、工藤が切り出した。
「柊真、おめぇ……葵をどうしたいんだ?」
突然の問いに、柊真は一瞬言葉が詰まったが、いつものように応える。
「僕は、葵を大切に思っています。
彼女は僕にとって……かけがえのない存在ですから」
「まぁな。それは分かってるよ。ラボの誰もがな……。
葵だってお前に大事にされているってことは、分かってるはずだ」
工藤は、不服そうに言葉を続けた。
「お前は葵と、この先どうなりたいんだ? このプロジェクトが終わった後の話だ」
「14フェーズ・プロトコル完遂後のことですか?」
「そうだ。葵はアンドロイド……だがよ、人間らしい心や表情、動作は、ちょっと見たくらいじゃ人間と区別がつかねぇ。
俺達は、とんでもねぇもんを作っちまったんだよ」
工藤は、何かを伝えようと言葉を探している。
「……ああ、まどろっこしい──」
工藤は、ドン、と机に葵の設計図を叩きつけた。
ページをめくり、ある一点を無言で指差す。
「……ここだよ。言わせんな、恥ずかしい」
そこは、葵の身体の中でも、最も繊細な領域だった。
柊真の胸がざわついた。
なぜ? 何がそんなに気になるのか。
理屈では分かっている。
葵は、もともとリアルドールだった。
その身体が、どういうものとして作られたのかも知っている。
けれど──
(嫌だ)
その思いが、すべてを覆い尽くす。
愛しているのか。
守りたいのか。
それとも──
(僕は、何を望んでいるのか)
喉の奥で、何かが引っかかる。
「……論理回路や感情モデルの構築において……優先順位は、低いはずです」
ようやく絞り出した言葉は、自分でもどこか他人事のように聞こえた。
「僕は……」
言葉が出ない。
「葵は、白い存在……綺麗なんです」
工藤は、何も言わずに柊真の言葉を受け止めていた。
「彼女の成長だけを願っている。だから……傷付けたくない」
「違う」
「汚したくないんです」
「そうじゃねぇだろ!」
工藤の声が締め切った室内に低く響いた。
「この部分……ドールの葵からそのまま移植した。
俺も正直、どうすりゃいいか困ったさ。だから、構造そのものには手を加えずに残してる」
葵の原型となったリアルドールには、もともと人間の身体を模した構造が備わっていた。
アンドロイドとして葵の身体を組み上げる際、工藤はその構造をそのまま残した。
特に深い意味があったわけではない。ただ、元の構造を変更する必要性を感じなかったのだ。
だが、今回は違う。
新しい身体を作るにあたり、その構造まで引き継ぐべきなのか。
少女のように成長してきた葵を、我が子のように思う工藤にとって、それは単なる設計上の判断ではなかった。
柊真は、自分の手を見た。
荒れた指先。消毒液に焼かれた皮膚。
「……すみません」
小さく、言葉が落ちる。
「……考えたことが、ない……」
否定とも、肯定ともつかない。
ただ、そこに空白があった。
「馬鹿野郎……」
工藤は深くため息をついた。
「AIのことなんざろくに知らねぇ俺でも分かる。葵の心は、純粋で優しい、そんじょそこらの人間よりも、よっぽど繊細で立派な『女性』だ」
工藤は設計図を指でなぞる。
「手も替えた。脚も替えた。皮膚も、骨も、全部新しくした。
デュアルプロセッサ化で、思考はより人間らしくなるはずだ」
少しだけ間を置く。
「だったら、心が人間に近づいた分だけ、身体も女性として完全にしてやるべきだろ」
工藤の顔は真剣で、その瞳は父親のような優しさを湛えていた。
柊真は、しばらく何も言えなかった。
視線は図面に落ちたまま、動かない。
白い線で描かれた輪郭、整えられた形。
そこに現実の感触が重ならない。
(……これ以上知ってはいけない気がする──)
思考が、同じ場所で空転する。
「……僕は」
言葉を探すように、息が揺れる。
「……葵を……どう、したいんでしょうね」
それは答えではなく、初めて言葉にした疑問だった。
その翌朝。
ラボの会議室に集まった宮下と詩織へ、柊真は工藤との対話を包み隠さず伝えた。
柊真が語った内容の重さに、二人は言葉を失った。
「……本気で言ってるんですか」
最初に口を開いたのは宮下だった。
低い声のまま、視線だけが図面へ落ちている。
詩織は無言のまま、その設計図を見つめていた。
細い指が図面に描かれた葵の下腹部で止まる。
「……私には分かりません」
自嘲気味に笑った。
「私は女性だから。女性として生きる身体は、大事だと思います。でも、それが何なのか説明しろって言われても……説明できない。
葵さんには幸せになってほしい」
表情がわずかに険しくなる。
「だけど──今の葵さんに、それを与えることが幸せなのかは……私には分からない」
柊真の考えも、変わっていない。
「僕も……分からないんです。どこまでを、僕たちが決めていいのか」
短い沈黙が落ちる。
工藤が腕を組んだまま低く息を吐いた。
「俺はな、葵に人間の女性としての身体を与えてやりてぇんだ。
心だけ人間へ近づいて、身体が追いついてねぇってのは……あまりにも歪だろ」
その声には、不器用な優しさが滲んでいた。
「それをどうするかは、葵が決めりゃいい」
詩織はゆっくりと顔を上げる。
「……私は、葵さんが女性としての感情を持ち始めていることを、痛いほど理解しています。
同じ女性ですから──」
指先が図面の端へそっと触れた。
「誰かを好きになって、触れたいと思って、嫉妬して、苦しくなることも……
葵さんが自分の身体の問題で苦しむような姿は想像したくありません」
詩織の瞳から、静かに涙がこぼれた。
ラボは再び静まり返った。
セミのせわしなく鳴く声が、研究所の厚い壁を突き抜けてかすかに聞こえてきた。
「議論を整理しましょう」
宮下が膠着した議論を再開させる。
「問題は女性器そのものではありません。そこにセンサーを搭載するか、です」
宮下は三人の反応を一瞬確認し、すぐに続けた。
「現在のAoiはバグを抱えている。精神が不安定──論理的思考が困難な状態です」
柊真は反論したかったが、黙って聞いていた。
「新しい身体は、これまで以上に多くの感覚情報をAoi-Coreへ送ることになる。
しかし、それを安定的に処理できる保証はありません」
葵の外装パネルの取り付けを手伝った詩織には、その言葉の意味が理解できた。
宮下が続ける。
「感情構造と身体フィードバックの乖離問題、ニューラルネットワーク同期率の低下問題……
それらが、新しい身体で本当に解決するのかも分からない」
宮下は結論を述べた。
「このような状況下で、重要な機能拡張は行うべきではない」
会議室に、重い沈黙が落ちる。
詩織は小さく息を吐いた。
「……今は、まだ早いと思います。葵さんに万一のことがあったら……」
その言葉には、否定だけではない迷いが滲んでいた。
「必要かどうかではなく……
今の葵さんが、それを受け止めきれる状態なのかを、ちゃんと見極めるべきです」
柊真は、設計図を見る。
そこには新しい身体が描かれている。
けれど、描かれていない部分がある。
柊真は、その白い余白を見つめた。
(僕は……葵を、人間にしたいのか)
それとも──
(白いままでいてほしいのか)
【更新予定:毎週金曜日の20時】




