67話 KD計画
ヘルメスは海を望むカフェを後にした。
港には整然とヨットが並び、午後の陽射しが海面を白くきらめかせている。
潮風がコートの裾を揺らした。
一台の白いセダンが滑るように横付けされる。
ヘルメスは何事もないように後部座席へ乗り込んだ。
ドアが閉まると、外の喧騒は嘘のように遮られた。
「孤児院へ」
短く告げると、車はゆっくりと街を離れていく。
窓の外では、賑やかな市街地が少しずつ遠ざかり、やがて緑の多い住宅街へ変わった。
街外れの坂道を上った先に、こぢんまりとした孤児院がある。
古びた石造りの建物は、ごく普通の福祉施設にしか見えない。
だが門柱には目立たない監視カメラが埋め込まれ、敷地を囲む植え込みの奥には赤外線センサーが張り巡らされていた。
車が門をくぐると、中庭で遊んでいた子供たちが一斉に振り向く。
「ヘルメス先生!」
「先生が来た!」
義足で元気よく駆け寄る少年。
義手でボールを抱えた少女。
車椅子の子供も笑顔で手を振る。
その輪の中から、一人の少年が勢いよく飛び出してきた。
「先生! 見て!」
十歳ほどの少年が、義手を誇らしげに掲げる。
「昨日、一人で調整できたんだ!」
KD-06──シックス。
機械いじりが好きで、義手の整備も自分で覚えてしまう少年だった。
ヘルメスはしゃがみ込み、義手をそっと持ち上げる。
「綺麗に調整できているわ。努力したのね」
「うん!」
シックスは満面の笑みで答えた。
幾分離れた木陰では、少女がひとり本を読んでいる。
ヘルメスが近づくと、本を閉じて立ち上がった。
「こんにちは、先生」
KD-03──スリー。
物静かで読書好きな少女だった。
「今日は何を読んでいるの?」
「クジラのお話です」
表紙を見せる。
「いつか、本物を見てみたいんです」
ヘルメスは優しく微笑んだ。
「きっと見られるわ」
「はい」
スリーもはにかむように笑った。
ヘルメスは子供たちと目線を合わせるようにしゃがみ込み、一人ひとりへ声を掛けた。
「みんな元気そうね」
その笑顔は、ゼニスの諜報員として見せるものとはまるで違っていた。
子供たちの輪を見守るように、玄関から一人の男性が歩いてきた。
六十代半ばの穏やかな表情をした院長だった。
「フォーはどこかしら?」
院長は中庭を見渡し、それから建物の裏手へ視線を移した。
「あの子なら、いつもの場所です」
ヘルメスは院長の後に続いて建物の裏手へ向かった。
子供たちの笑い声の代わりに木々を揺らす風の音だけが耳に届く。
裏庭のベンチ。
一人の少女が膝を抱えて座っていた。
白銀の長い髪。
だが、美しい色とは裏腹に髪は手入れされておらず、あちこち跳ねている。
制服も少し着崩れている。
「相変わらず、一人ですか」
「ええ。あの子は一人を選んでいるように見えます」
院長は思い起こすように続ける。
「誰に誘われても、自分から輪へ入ろうとはしません。
ですが……よく見ています」
「見ている?」
ヘルメスはうつむくフォーの表情を観察した。
「ええ」
院長はかすかに笑みを浮かべた。
「誰が困っているのか。誰が泣いているのか。誰が嘘をついているのか。
あの子は、いつも遠くから見ています」
フォーを見つめていたヘルメスの表情が明るくなる。
「元の性格が、ちゃんと残っているのね」
身体は失われても、あの子らしさだけは残っていた。
院長はわずかに表情を曇らせる。
「ですが……あの子を警戒する子もいます」
「顔でしょうか」
「ええ」
フォーは全身の大半を義体へ置き換えている。
人工皮膚は精巧だったが、どこか人間離れした整い方をしていた。
その顔は、一人の少女を模して設計されていた。
葵──。
ヘルメス自身が選び、フォーへ与えた顔だった。
「本人は特に気に留めていません。ですが、周りの子供たちはどうしても微かな異質さを感じ取ってしまうのでしょう」
ヘルメスはそっとフォーへ歩み寄る。
少女は気配に気付くと、顔を上げた。
「先生……」
「こんにちは、フォー」
ヘルメスはフォーの乱れた前髪へ手を伸ばした。
バッグから櫛を取り出し、白銀の髪を丁寧に梳かしていく。
絡まっていた髪は整い、午後の光を受けて柔らかく輝いた。
「今日は研究所へ行きましょう」
フォーは不安そうな表情を浮かべる。
「……ファイブもいますか」
「ええ」
短い返事。
フォーは黙って立ち上がった。
ヘルメスは乱れた襟元を整え、穏やかな笑みを向ける。
「大丈夫。今日は見学だけよ」
フォーは小さく頷いた。
二人は並んで車へ向かった。
院長と子供たちは、門の前まで見送りに来ていた。
「いってらっしゃい!」
元気な声が重なる。
シックスは大きく義手を振り、スリーは胸の前で本を抱えたまま手を振った。
フォーも窓を開け、控えめに手を振り返す。
子供たちを見守るように後ろに立つ院長が、深く一礼するのが見えた。
車は静かに孤児院を後にした。
ヘルメスとフォーを乗せた車は、港に隣接するヘリポートへ向かう。
一機の軍用輸送ヘリが二人の到着を待っていた。
フライトヘルメットを装着すると、ローターがゆっくりと回り始める。
「乗ったこと、ある?」
ヘルメスが尋ねる。
フォーは小さく首を横へ振った。
「……初めて。いつもは船だから」
機体がふわりと浮き上がる。
フォーは思わず窓へ顔を寄せた。
街並みが次第に眼下へ広がっていく。
「わぁ……」
小さな声が漏れる。
地中海は陽光を受け、青く輝いていた。
白い船が穏やかに航跡を描いて進んでいく。
「海って……こんなに広いんだ」
ヘルメスは微笑んだ。
「綺麗でしょう」
フォーは返事も忘れたように、フライトの間ずっと窓の外を見つめていた。
やがてヘリは西へ針路を変えた。
青い海に浮かぶ大きな島。キプロス島。
研究施設専用ヘリポートへ吸い寄せられるように降り立った。
研究区画へ向かう。
幾つもの警備ゲートを抜け、地下へ降りていくと、空気は一気に冷たくなる。
そこは、ゼニス・ダイナミクスの非公開研究施設だった。
最下層の訓練場では、一人の少女がヒューマノイド型ドローンと向き合っていた。
浅黒い肌。黒い髪。鋭い眼差し。
KD-05──ファイブ。
現時点で、KD計画(Project Killing Doll)の最有力候補だった。
観察室の強化ガラス越しにフォーの姿を一瞬だけ視界に捉えたファイブの眉根が、わずかに寄る。
(なんで……フォーまでここに来てるの)
自分が完璧でいなければ、年下のフォーたちに厳しい実験が回っていく。
ファイブはフォーから視線を外し、目の前のドローンへ意識を集中させた。
訓練場には、もう一人の女が立っている。
エキドナ。
白い肌に黒髪。アジア系の整った顔立ち。
しかし、その表情には冷たさしか感じられない。
痩せすぎた身体は女性的な柔らかさを欠き、目元にも生気はない。
口元に浮かぶ薄笑いだけが、誰かを見下すような残酷さを帯びていた。
ヘルメスを見つけたエキドナは、訓練場から観察室へ入ってきた。
冷え切った眼差しに、わずかな愉悦が宿る。
「珍しいわね」
「様子を見に来ただけよ」
「ふふ……」
エキドナは鼻で笑った。
「また、その子?」
視線だけがフォーへ向く。
まるで研究材料の一つを見るような、冷え切った眼差しだった。
「わざわざ来なくても、報告書を読めば十分でしょうに」
ヘルメスは肩をすくめる。
「子供の成長は、数字だけでは分からないわ」
エキドナは嘲笑するように口元を歪めた。
「観察したところで、データは変わらないでしょう?」
ヘルメスは表情を変えないまま、エキドナを見据える。
「相変わらず嫌な女。
……私の成果、その目で確かめるといいわ」
エキドナはガラス越しに短く命じた。
「始めなさい」
ドローンが腰に格納されていたナイフを抜くと、一気に距離を詰めた。
鋭い突き──ナイフは一直線に心臓を狙う。
ファイブは動かない。
ナイフが届く寸前、半歩だけ身体をずらした。
シュッ──。
刃が空を切った。
ファイブは踏み込んだドローンの前足へ、自分の足を差し入れた。
ドローンの重心が浮いた。
(今よ)
ファイブはその刹那を見逃さなかった。
ドローンの胸へ掌打を打ち込み、体勢を大きく崩す。
のけぞった隙に軸足を流れるように刈った。
ドーンッ──。
鈍い衝撃音が訓練場いっぱいに響き渡る。
ファイブより二回り大きなドローンが床へ沈んでいた。
エキドナが命じる。
「とどめを刺せ」
ファイブは静止した。
「……」
エキドナの眉間に深い皺が刻まれる。
「違う!」
ヒステリックな甲高い声。
「何度教えれば分かるの!」
ファイブは機械的な回答を返す。
「Gシステム倫理規定により、対象への致死性攻撃は実行できません」
エキドナは舌打ちする。
「また、その答え……!」
観察室の扉を乱暴に開け、訓練場へ踏み込む。
「忌々しいGシステム……!
世界中の技術者が何十年かけても、この檻一つ壊せない!」
怒声だけが訓練場に反響した。
エキドナは頬を引きつらせたまま、足音も荒くファイブへ歩み寄る。
薄笑いは消え、その目だけが怒りで鋭く光っていた。
「エキドナ様、命令は理解しています。
ですが、Gシステム倫理規定により、致死性攻撃は実行できません」
ファイブは淡々と、同じ回答を繰り返した。
エキドナの苛立ちは沸点を超え、腕を強く振り上げる。
「その答えしか返せないの──」
振り下ろされる直前、ファイブの視界に小さな影が割り込む。
フォーだった。
ファイブを庇うように両手を広げる。
「フォー、何やってるの……バカ! 下がってなさい!」
ファイブの声は、普段の無機質さを失っていた。
自分が殴られるのは構わない。だが、小さく不完全なフォーが殴られることが怖くてたまらなかった。
「……どうして殴るの?」
疑問を投げかける幼子のようなフォーの声に、エキドナの動きが止まる。
「だめな子には、お仕置きが必要なの」
しかし、彼女の声は冷たく感情を欠いていた。
「あなたも殴られたいの?」
フォーは震えながらも動かない。
「ファイブは悪くありません。
私たちは……システムに従っているだけです」
エキドナが睨む。
「だから、それが欠陥なのよ!」
怒りさえ凍りついたような冷たい眼差しだった。
「退きなさい」
フォーは退かなかった。
ファイブもまた、フォーを庇うようにその華奢な身体を後ろからしっかりと抱え込む。
エキドナは躊躇なく手を振り上げた。
──パシッ!
フォーとファイブは思わず目をつぶる。
訓練場に、乾いた音だけが響いた。
しかし、エキドナの振り上げた腕は高い位置でとどまり震えていた。
その手首は、白い指に掴まれていた。
「そこまでよ。エキドナ」
エキドナの背後には、いつの間にかヘルメスが立っていた。
ヘルメスの表情には怒りも焦りもなく、ただ氷のように冷ややかな微笑だけが浮かんでいた。
「違うわ。欠陥じゃない。それがGシステムよ」
エキドナが振り返る。
「だから腹立たしいの」
ヘルメスはファイブへ視線を向けた。
「その倫理規定は、誰にも破れなかった。
世界中の研究者が、どれほど挑み続けても」
エキドナは苦々しく笑う。
「ええ。だから私は諦めない。
何十人使おうが、必ず越えてみせる」
「だからこそ、葵なのよ」
ヘルメスは淡々と続ける。
「彼女には心がある。自我や自意識と呼ばれるもの──。
私たちが、まだ一度も手にしたことのない可能性よ」
エキドナの表情は曇っていた。
「上層部が夢中になっているAIね」
「ええ。非効率で、非科学的。でも、だからこそ人間らしい」
エキドナは腕を組む。
「それが何だというの?」
「倫理は、命令じゃないのよ」
ヘルメスはフォーとファイブへ視線を向ける。
「私はAIそのものに興味はないの。でも、葵は違う……あの子は『人間の心』を持ってるわ。
AIが自分で育てた心なら、自分で答えを選ぶ日が来るかもしれない」
エキドナは吐き捨てるように笑った。
「悠長に待てと? そこまで言うなら、今すぐ葵をここへ連れてきなさい。
それが、あなたたち諜報部の仕事でしょう?」
ヘルメスは静かに首を横へ振る。
「今は、まだ早いわ。葵の心は、まだ完成していない」
ヘルメスは並んで立つフォーとファイブに微笑んだ。
「いずれ、あなたたちが世界を変える」
その瞳に宿るのは慈愛だけではなかった。
世界を変えるためなら、何も恐れない覚悟が静かに燃えていた。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




