66話 見えない回路
翌朝。
工藤は大きなジュラルミンケースを抱え、研究所へ戻ってきた。
ラボでは、詩織が新たな葵の機体に向けて、感情ラベルの洗い出しを行っていた。
解錠の電子音とともにラボのセキュリティ扉が開いた。
「……今、戻ったぜ」
螺旋階段を駆け上がってきた工藤は、息を切らしていた。
「おかえりなさい、工藤さん」
詩織が熱い緑茶を差し出す。
「わりいな、詩織」
制作室で作業していた柊真と宮下も、工藤の慌ただしい足音に気づき、ラボへ姿を現した。
工藤はケースをテーブルへ置く。
鈍い金属音が部屋へ静かに響いた。
「……持ってきたぞ」
皆の視線はジュラルミンケースに集まった。
「見せる前に、ひとつ確認だ」
工藤の声は重い。
「このプロセッサを利用する条件のことですね?」
柊真が言った。
詩織と宮下も、黙って工藤に視線を注いだ。
「ああ、察しが良くて助かるぜ」
工藤は大きく息を一つつく。
「このプロセッサの設計者──ラヴィが求めているのは、実機での評価だ」
「実機評価、ですか?」
柊真が不審そうな声を上げる。
「ああ。性能だけじゃねぇ。安定性も癖も、不具合も含めた実機評価だ。
評価結果には機体の構成や動作条件も添える。
それが技術者同士の約束だ」
宮下は、鋭い眼光で工藤を見据えた。
「蒼菱産業……ゼニス・ダイナミクスと共同研究や資本提携も含め、強いつながりがある。
信用できるんですか?」
「蒼菱もゼニスも信用しちゃいねぇよ」
工藤は黙って宮下を見つめる。
「だが、ラヴィとは長い付き合いだ。
奴は信用に値する男だ」
工藤は三人を見渡した。
「報告する内容は、全部俺が責任を持つ」
柊真は数秒、考えを巡らせる。
「……分かりました。
工藤さんがそこまで信頼するラヴィさんを……僕も信じます」
工藤に安堵の表情が浮かんだ。
宮下はなお何か言いたげだったが、柊真が承諾した以上、反論はしなかった。
二つ目のプロセッサが調達できない限り、葵の改修は進まない。
「プロセッサ……見せていただけますか」
柊真の言葉のあと、工藤はラッチへ手を掛けた。
カチリ。
反対側のラッチも外す。
カチリ──ゆっくりと蓋が開いた。
皆が思わず息を呑む。
工藤だけが、満足そうに口元を緩めた。
「どうだ」
ケースの中央には、厳重な緩衝材に守られた一枚のプロセッサ。
それは従来の二倍以上の大きさを持ち、電子部品というより、一つの精密機器を思わせる風格があった。
基板表面をうっすらと覆う、微細な金色の再配線層が幾何学模様を描き、まるで精密な工芸品のような美しさを放っている。
「ラヴィの話じゃ、市販品の四倍近い性能だそうだ」
工藤はケースを見つめたまま言った。
「しかも消費電力は抑えられていて、発熱も現行機とほぼ同じらしい」
宮下はすぐにケースへ歩み寄る。
白手袋を着けると、慎重にプロセッサを持ち上げた。
「解析します」
その声だけが、わずかに早口だった。
興奮を抑えているのが分かった。
宮下は各種アダプタを交換し、解析装置へ慎重に固定する。
数本の計測ケーブルを接続すると、解析を開始した。
モニターへ次々と数値が流れ始めた。
皆が息を潜める中、モニターだけが淡々と数値を書き換えていく。
やがて──
宮下が一瞬、言葉を失う。
表示されたベンチマークは、想定をはるかに超えていた。
「……これは」
詩織が思わず立ち上がる。
「すごい!
これなら、これなら、葵さんのサブプロセッサとして十分です。
柊真さん、すぐにでも実装しましょう」
工藤も腕を組みながら満足そうに頷いた。
「このサイズなら胸郭ユニットを少し設計し直せば収まる。
なんとかなりそうだな」
葵の完成へ向け、再び道筋が見え始めていた。
しかし、柊真だけは画面から目を離さなかった。
その横顔は、まだ笑っていない。
宮下も同じだった。
工藤が気付く。
「どうした?」
柊真は宮下を見る。
「宮下君」
短い言葉だった。
宮下は深く相槌を打つ。
「……分かりました」
解析ソフトを切り替える。
「回路解析AIを起動します」
今度は性能ではなく、回路そのものを調べ始めた。
解析AIは、過去数千万件に及ぶプロセッサ設計データと照合しながら、内部構造を自動解析していく。
=== Circuit Analyzer AI v4.2 ===
Logical Blocks : 5,842
Mapped : 5,841
Unknown : 1
Warning: Protected Region Suspected
Launching Deep Analysis...
ラボにはキーボードを叩く音だけが響いていた。
数時間後。
宮下は、問題の1ブロックだけを対象にした深層解析へ切り替えた。
Analysis Rate 94%
……
97%
……
99%
解析率はそこで止まった。
数秒間、画面は変化しない。
Signal Trace Lost
Protected Region Detected
AI Function Estimation Complete
Estimated Function
Authentication Circuit : 96.8%
「チッ……」
珍しく宮下が舌打ちした。
皆が振り向く。
「柊真さん、このブロック見てください」
画面から目を離さずに言う。
複雑な回路図が映し出され、その一角だけが黒く塗りつぶされている。
「このブラックボックス化された解析不能ブロックですが、周辺回路と信号経路は追えます」
モニターへ回路図を映す。
「演算ユニットには接続されていません。キャッシュ制御にも関与していません。
動作するのは起動シーケンス中だけです」
柊真が眉をひそめる。
「つまり?」
「つまり、この回路は演算処理には関わっていない。
起動時に何らかの確認だけを行っていると考えられます」
宮下は黒く塗りつぶされたブロックを指した。
「解析AIも同じ結論を出しています。
認証回路(Authentication Circuit)である可能性は96.8パーセントです」
詩織は画面を見つめたまま、わずかに首を傾げた。
「まさか……Gシステム用の認証ですか?」
宮下はきっぱりと否定した。
「このプロセッサは、汎用型の演算装置です。
ニューロプロセッサであれば、Gシステムの認証が必要ですがそうではない」
ブラックボックス化された保護領域。
工藤は思わず声を荒らげた。
「ラヴィが仕込んだのか?」
宮下は首を横へ振った。
「いえ」
即答だった。
「リバースエンジニアリング対策でしょう。
軍事用プロセッサでは珍しくありません。
設計担当者であっても、保護領域の中身を知らされないことがあります」
柊真が低く言う。
「ですが──
中身の分からないものを、葵へ使うわけにはいかない」
宮下も無言で肯定した。
二人の意見は一致していた。
先ほどまで満ちていた期待は、一瞬で静まり返る。
宮下は画面から視線を外さない。
柊真は腕を組み、深く考え込む。
重苦しい空気がラボに流れる。
やがて柊真が口を開いた。
「宮下君」
「はい」
「この認証回路だけを物理的に切り離すことは可能ですか」
宮下は数秒間、目を閉じた。
回路図を頭の中でなぞるように考え込む。
「……古いやり方ですが、不可能ではありません」
モニターへ簡単な構造図を映し出す。
「このプロセッサは試作版です。
認証回路はチップレット間の制御線としてインターポーザー上へ引き出されています」
回路図の一部を拡大する。
「量産品なら内部配線へ統合されますが、試作段階では評価やデバッグのため、外部からアクセスできる設計になっています」
さらに赤い線で認証回路だけを示す。
「ここへ専用インターポーザーを挟み込み、認証回路だけを物理的に切り離します」
工藤が眉を上げる。
「下駄を履かせるってやつか」
「はい」
宮下は頷く。
「その影響で一部の内部バスを迂回させるため、多少の性能低下はあります。
ですが、プロセッサ自体の性能には十分な余裕があります。
Aoiの演算処理への影響は、無視できるレベルでしょう」
柊真は噛みしめるように首を縦に振った。
「分かりました」
ようやく表情が少しだけ柔らかくなる。
「まずは下駄を履かせた状態で、ベンチマークをお願いします」
「了解しました」
宮下はすぐに新しい設計図を描き始めた。
その姿を見ながら工藤は腕を組み、薄く笑みを浮かべる。
「……やっぱり、お前らは面白ぇ」
──同じ刻。
地中海を望むカフェのテラス席。
午後の日差しが波を銀色に染めていた。
一人の女性が、笑みを浮かべながらコーヒーカップを傾けていた。
年齢は三十代半ばほどの落ち着いた大人の女性。
ラヴィは向かいの席へ腰を下ろした。
「予定どおり渡した」
女性は穏やかに目を伏せ、受諾の意を示した。
「ありがとう」
再びコーヒーへ口をつける。
テラスには、波音だけが響いていた。
ラヴィはしばらく海を眺めていたが、やがて口を開いた。
「本当に良かったのか?」
女性は視線を水平線へ向けたまま答える。
「彼らなら、私の期待を裏切らないでしょう」
「随分と信用しているんだな」
「ええ」
その返事に迷いはなかった。
「彼は、娘のためにしか使いませんから」
ラヴィは思わず苦笑する。
「娘、か」
女性は答えない。
そっとカップをソーサーへ戻す。
カシャ──っと可憐な音が響いた 。
ラヴィもそれ以上は何も聞かない。
立ち上がると、小さく手を挙げる。
「じゃあな」
「ええ」
短い別れだった。
ラヴィの背中が人混みへ消えていく。
女性は一人残される。
残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
潮風が長い髪を揺らす。
午後の陽射しを受け、胸元に留められたた銀色の意匠が一瞬だけ淡く輝いた。
──ヘルメスは水平線を見つめ、小さく呟く。
「さて……あの子たちが待っていますね」
波は寄せては返す。
その穏やかな海は、誰かの未来を見守っているようだった。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




