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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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66話 見えない回路

翌朝。

工藤は大きなジュラルミンケースを抱え、研究所へ戻ってきた。

ラボでは、詩織が新たな葵の機体に向けて、感情ラベルの洗い出しを行っていた。


解錠の電子音とともにラボのセキュリティ扉が開いた。


「……今、戻ったぜ」


螺旋階段を駆け上がってきた工藤は、息を切らしていた。


「おかえりなさい、工藤さん」


詩織が熱い緑茶を差し出す。


「わりいな、詩織」


制作室で作業していた柊真と宮下も、工藤の慌ただしい足音に気づき、ラボへ姿を現した。


工藤はケースをテーブルへ置く。

鈍い金属音が部屋へ静かに響いた。


「……持ってきたぞ」


皆の視線はジュラルミンケースに集まった。


「見せる前に、ひとつ確認だ」


工藤の声は重い。


「このプロセッサを利用する条件のことですね?」


柊真が言った。

詩織と宮下も、黙って工藤に視線を注いだ。


「ああ、察しが良くて助かるぜ」


工藤は大きく息を一つつく。


「このプロセッサの設計者──ラヴィが求めているのは、実機での評価だ」


「実機評価、ですか?」


柊真が不審そうな声を上げる。


「ああ。性能だけじゃねぇ。安定性も癖も、不具合も含めた実機評価だ。

 評価結果には機体の構成や動作条件も添える。

 それが技術者同士の約束だ」


宮下は、鋭い眼光で工藤を見据えた。


「蒼菱産業……ゼニス・ダイナミクスと共同研究や資本提携も含め、強いつながりがある。

 信用できるんですか?」


「蒼菱もゼニスも信用しちゃいねぇよ」


工藤は黙って宮下を見つめる。


「だが、ラヴィとは長い付き合いだ。

 奴は信用に値する男だ」


工藤は三人を見渡した。


「報告する内容は、全部俺が責任を持つ」


柊真は数秒、考えを巡らせる。


「……分かりました。

 工藤さんがそこまで信頼するラヴィさんを……僕も信じます」


工藤に安堵の表情が浮かんだ。

宮下はなお何か言いたげだったが、柊真が承諾した以上、反論はしなかった。

二つ目のプロセッサが調達できない限り、葵の改修は進まない。


「プロセッサ……見せていただけますか」


柊真の言葉のあと、工藤はラッチへ手を掛けた。


カチリ。

反対側のラッチも外す。

カチリ──ゆっくりと蓋が開いた。


皆が思わず息を呑む。


工藤だけが、満足そうに口元を緩めた。


「どうだ」


ケースの中央には、厳重な緩衝材に守られた一枚のプロセッサ。

それは従来の二倍以上の大きさを持ち、電子部品というより、一つの精密機器を思わせる風格があった。

基板表面をうっすらと覆う、微細な金色の再配線層が幾何学模様を描き、まるで精密な工芸品のような美しさを放っている。


「ラヴィの話じゃ、市販品の四倍近い性能だそうだ」


工藤はケースを見つめたまま言った。


「しかも消費電力は抑えられていて、発熱も現行機とほぼ同じらしい」


宮下はすぐにケースへ歩み寄る。

白手袋を着けると、慎重にプロセッサを持ち上げた。


「解析します」


その声だけが、わずかに早口だった。

興奮を抑えているのが分かった。


宮下は各種アダプタを交換し、解析装置へ慎重に固定する。

数本の計測ケーブルを接続すると、解析を開始した。

モニターへ次々と数値が流れ始めた。


皆が息を潜める中、モニターだけが淡々と数値を書き換えていく。

やがて──


宮下が一瞬、言葉を失う。

表示されたベンチマークは、想定をはるかに超えていた。


「……これは」


詩織が思わず立ち上がる。


「すごい!

 これなら、これなら、葵さんのサブプロセッサとして十分です。

 柊真さん、すぐにでも実装しましょう」


工藤も腕を組みながら満足そうに頷いた。


「このサイズなら胸郭ユニットを少し設計し直せば収まる。

 なんとかなりそうだな」


葵の完成へ向け、再び道筋が見え始めていた。


しかし、柊真だけは画面から目を離さなかった。

その横顔は、まだ笑っていない。

宮下も同じだった。


工藤が気付く。


「どうした?」


柊真は宮下を見る。


「宮下君」


短い言葉だった。


宮下は深く相槌を打つ。


「……分かりました」


解析ソフトを切り替える。


「回路解析AIを起動します」


今度は性能ではなく、回路そのものを調べ始めた。

解析AIは、過去数千万件に及ぶプロセッサ設計データと照合しながら、内部構造を自動解析していく。


=== Circuit Analyzer AI v4.2 ===

Logical Blocks : 5,842

Mapped : 5,841

Unknown : 1


Warning: Protected Region Suspected

Launching Deep Analysis...


ラボにはキーボードを叩く音だけが響いていた。

数時間後。

宮下は、問題の1ブロックだけを対象にした深層解析へ切り替えた。


Analysis Rate 94%

……

97%

……

99%


解析率はそこで止まった。

数秒間、画面は変化しない。


Signal Trace Lost

Protected Region Detected


AI Function Estimation Complete


Estimated Function

Authentication Circuit : 96.8%


「チッ……」


珍しく宮下が舌打ちした。

皆が振り向く。


「柊真さん、このブロック見てください」


画面から目を離さずに言う。

複雑な回路図が映し出され、その一角だけが黒く塗りつぶされている。


「このブラックボックス化された解析不能ブロックですが、周辺回路と信号経路は追えます」


モニターへ回路図を映す。


「演算ユニットには接続されていません。キャッシュ制御にも関与していません。

 動作するのは起動シーケンス中だけです」


柊真が眉をひそめる。


「つまり?」


「つまり、この回路は演算処理には関わっていない。

 起動時に何らかの確認だけを行っていると考えられます」


宮下は黒く塗りつぶされたブロックを指した。


「解析AIも同じ結論を出しています。

 認証回路(Authentication Circuit)である可能性は96.8パーセントです」


詩織は画面を見つめたまま、わずかに首を傾げた。


「まさか……Gシステム用の認証ですか?」


宮下はきっぱりと否定した。


「このプロセッサは、汎用型の演算装置です。

 ニューロプロセッサであれば、Gシステムの認証が必要ですがそうではない」


ブラックボックス化された保護領域。

工藤は思わず声を荒らげた。


「ラヴィが仕込んだのか?」


宮下は首を横へ振った。


「いえ」


即答だった。


「リバースエンジニアリング対策でしょう。

 軍事用プロセッサでは珍しくありません。

 設計担当者であっても、保護領域の中身を知らされないことがあります」


柊真が低く言う。


「ですが──

 中身の分からないものを、葵へ使うわけにはいかない」


宮下も無言で肯定した。

二人の意見は一致していた。

先ほどまで満ちていた期待は、一瞬で静まり返る。


宮下は画面から視線を外さない。

柊真は腕を組み、深く考え込む。


重苦しい空気がラボに流れる。


やがて柊真が口を開いた。


「宮下君」


「はい」


「この認証回路だけを物理的に切り離すことは可能ですか」


宮下は数秒間、目を閉じた。

回路図を頭の中でなぞるように考え込む。


「……古いやり方ですが、不可能ではありません」


モニターへ簡単な構造図を映し出す。


「このプロセッサは試作版です。

 認証回路はチップレット間の制御線としてインターポーザー上へ引き出されています」


回路図の一部を拡大する。


「量産品なら内部配線へ統合されますが、試作段階では評価やデバッグのため、外部からアクセスできる設計になっています」


さらに赤い線で認証回路だけを示す。


「ここへ専用インターポーザーを挟み込み、認証回路だけを物理的に切り離します」


工藤が眉を上げる。


「下駄を履かせるってやつか」


「はい」


宮下は頷く。


「その影響で一部の内部バスを迂回させるため、多少の性能低下はあります。

 ですが、プロセッサ自体の性能には十分な余裕があります。

 Aoiの演算処理への影響は、無視できるレベルでしょう」


柊真は噛みしめるように首を縦に振った。


「分かりました」


ようやく表情が少しだけ柔らかくなる。


「まずは下駄を履かせた状態で、ベンチマークをお願いします」


「了解しました」


宮下はすぐに新しい設計図を描き始めた。


その姿を見ながら工藤は腕を組み、薄く笑みを浮かべる。


「……やっぱり、お前らは面白ぇ」



──同じ刻。

地中海を望むカフェのテラス席。

午後の日差しが波を銀色に染めていた。


一人の女性が、笑みを浮かべながらコーヒーカップを傾けていた。

年齢は三十代半ばほどの落ち着いた大人の女性。


ラヴィは向かいの席へ腰を下ろした。


「予定どおり渡した」


女性は穏やかに目を伏せ、受諾の意を示した。


「ありがとう」


再びコーヒーへ口をつける。


テラスには、波音だけが響いていた。

ラヴィはしばらく海を眺めていたが、やがて口を開いた。


「本当に良かったのか?」


女性は視線を水平線へ向けたまま答える。


「彼らなら、私の期待を裏切らないでしょう」


「随分と信用しているんだな」


「ええ」


その返事に迷いはなかった。


「彼は、娘のためにしか使いませんから」


ラヴィは思わず苦笑する。


「娘、か」


女性は答えない。

そっとカップをソーサーへ戻す。

カシャ──っと可憐な音が響いた 。


ラヴィもそれ以上は何も聞かない。

立ち上がると、小さく手を挙げる。


「じゃあな」


「ええ」


短い別れだった。

ラヴィの背中が人混みへ消えていく。


女性は一人残される。

残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。

潮風が長い髪を揺らす。

午後の陽射しを受け、胸元に留められたた銀色の意匠が一瞬だけ淡く輝いた。


──ヘルメスは水平線を見つめ、小さく呟く。


「さて……あの子たちが待っていますね」


波は寄せては返す。

その穏やかな海は、誰かの未来を見守っているようだった。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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