62話 欠けてはならないもの
研究所へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
柊真は談話室のキッチンへ鍋の材料を運び込み、その他の食料品を食料庫へと片付けていく。
「僕は少しやることがあるので、詩織さんに任せてもいいですか?」
ショッピングセンターではいつも通りに振る舞っていた詩織だったが、研究所へ着いてからは口数が少ない。
どこか考え事をしているような横顔には、普段の柔らかな笑みがなかった。
「……ええ。葵さんにも手伝ってもらいますので」
葵は買い物袋を静かに置き、詩織へ駆け寄った。
「はい、もちろんです」
「詩織さん、何かあったら呼んでください」
柊真のその言葉に、詩織は軽く頷いた。
「葵も頼んだよ」
柊真は葵の肩をぽんとたたいた。
詩織の様子が気にはなったが、談話室を後にすることにした。
詩織は、丁寧に畳まれたエプロンをキッチンの戸棚から取り出し、身につけた。
白衣を脱ぎ、一人の女性として台所に立つのは久しぶりだった。
隣で不思議そうに見つめる葵には、バスタオルを即席のエプロン代わりにした。
「ちょっと不格好ですけど、服が汚れないようにしましょうね」
「ありがとうございます。詩織さん」
葵は嬉しそうに微笑む。
その笑顔から目を逸らしながら、詩織は心の中でだけ呟いた。
(ごめんなさい)
胸の奥に痛みが走った。
これから教える料理も、この穏やかな時間も、やがて終わりを迎える。
(私はあなた達とは、一緒にいられない……)
その未来を胸にしまったまま、詩織は包丁を動かした。
「まずは出汁からとりましょう。鶏ガラを大きな鍋に入れて、沸騰するまで強火です。
アクが浮いてくるので、この網杓子で取ってください」
「はい」
葵は鍋を覗き込みながら、浮いてくる灰色の泡だけを慎重にすくっていく。
一度に欲張らず、丁寧に。詩織の教えを、そのままなぞるように。
一方の詩織は米を研ぎ炊飯器をセットすると、手際よく野菜を切り揃えていった。
「丁寧に……」
葵の一つひとつ真剣に取り組む姿があまりにも愛らしく、詩織の頬は自然と緩んだ。
やがて鍋の表面が澄み始める。
「もうアクも出なくなりましたね。火を止めてください。次はだまこを作りましょう」
ちょうどその頃、ご飯も炊き上がった。
詩織は炊き立てのご飯を大きなボウルへ移す。
「うちでは少し片栗粉を入れるんです。母のやり方なんですよ」
めん棒でご飯を潰しながら説明する詩織の動きには無駄がない。
葵はその様子をじっと観察していた。
「詩織さんの動きには迷いがありません」
「何度も作っていますから。体が覚えているんです」
詩織は少しだけ懐かしそうに笑う。
「次は、このご飯を丸めます。大きさはピンポン玉くらいですね」
詩織はスプーンでご飯をすくい、手慣れた動きで丸いだまこを作った。
葵も真似をする。慎重に指先へ力を込める。
しかし、ご飯は思うようにまとまらない。強く握れば潰れ、力を抜けばほろりと崩れてしまう。
(難しい……)
何度か失敗する葵を見て、詩織が声をかけた。
「最初から丸くしようとしなくて大丈夫ですよ。少し強めに握って、まずはまとまりを作ってみてください」
「こうでしょうか?」
葵は小さな掌と指先を使い、ご飯を一つの塊へまとめていく。
「上手ですよ。
次は掌に乗せて、優しく、一定のリズムで丸めてみてください。掌に少し窪みを作るようなイメージです」
そう言うと、詩織は葵の手を取った。
冷たく滑らかな葵の掌を包み込むように、その手を導く。
その動きは、本当の娘へ教える母親のように優しかった。
葵はゆっくりと手を動かした。
ころころと転がるご飯。
少しずつ形が整っていく。
「もう大丈夫そうですね。見せてください」
葵は両手を差し出した。
そこには綺麗な丸いだまこが乗っている。
「できました! 詩織さん!」
喜びを隠しきれない、曇りのない笑顔だった。
「ええ。とても上手です」
その後も二人でだまこを作り続けた。
葵が三つ目を作る頃には、形も大きさも詩織のものとほとんど変わらなくなっていた。
「次は、このだまこを少し焼きます」
詩織は金属のトレイに並べながら説明する。
「表面に軽く焦げ目を付けると香ばしくなりますし、煮崩れもしにくくなります」
「なるほどです。理由も記録しました」
「焼かない作り方もありますけど、母は必ず焼いていました」
そう言う詩織の声は少しだけ柔らかかった。
予熱しておいたオーブンへトレイを入れる。
「五分くらいですね」
しばらくすると、だまこが焼ける香ばしい匂いがキッチンに広がった。
詩織は再び鍋へ向き直った。
「最後にスープを仕上げましょう。先ほどの鶏ガラ出汁に酒とみりんを加えてひと煮立ちさせます」
透明なスープに調味料が溶けていく。
「アルコールが飛んだら火を弱めて、お醤油で味を整えます」
詩織は味見をしながら慎重に調整した。
「素材を楽しむなら薄味がいいんですけど……
今日はお酒を飲む人もいますから、少しだけ濃いめにしましょう」
小皿へスープを取り分ける。
「葵さんも味見してください」
葵は受け取った小皿へ視線を落とした。
味覚センサーが成分を分析する。
:: Aoi-Core|成分解析処理
PRC: 味覚センサ→だまこ鍋スープ(グルタミン酸, イノシン酸), 塩分濃度 1.3%
STA: 成分組成=検知完了/味覚評価モデル=評価基準なし
EMO: 注視 + [困惑] ⇒ [未定義] 0.35
〈これが、だまこ鍋のスープ。詩織さんの味……でも、私にはこれが美味しいかどうか分からない〉
葵は小皿をそっと両手で包み込み、もう一度スープを見つめた。
その時だった。
廊下から足音が近づき、談話室の扉が静かに開いた。
「いい香りですね」
柊真だった。
彼は買ってきた飲料をテーブルへ並べると、散らかっていた資料を端へ寄せ、椅子を五脚並べていく。
詩織は小さな椀にスープを取り分け、葵へ渡した。
「柊真さんに味を見てもらいましょう」
「はい」
葵はお椀を持って歩み寄る。
「おじさま、味を見てもらっていいでしょうか」
柊真はお椀を受け取り、まず香りを確かめた。
そして一口──鶏の繊細な旨味、醤油の香り。
雑味のない優しい味が口の中へ広がる。
「丁寧な味だね。とても美味しいよ」
もう一口飲む。
葵は真剣な表情で結果を待っていた。
「この味は、美味しい味なんですね」
「そうだね」
柊真は頷く。
「丁寧にアクが取られているからだと思う。雑味がなくて、とても繊細な味だよ」
「よかったわね、葵さん」
詩織が微笑む。
「アクを取ってくれたのは葵さんなんです」
「なるほど。それでこんなに澄んだ味なんだね」
柊真は葵の頭を優しく撫でた。
:: Aoi-Core|内的報酬反応
PRC: 触覚センサ→ #柊真(頭部への接触:荷重 1.2N, 体温 36.5℃)
STA: 評価モデル更新=「丁寧なアク取り」を[美味]へ紐付け / 内部報酬系=最大活性化
EMO: 歓喜 + 親愛 + [充足] ⇒ 敬愛 0.88
〈温かい手……おじさまに褒められるのは嬉しい……〉
「葵。あらためて、とても美味しかったよ」
葵の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
「でも、まだ満足してもらっては困りますよ」
詩織が少し得意げに言った。
「鍋になったら、この十倍は美味しくなりますから」
「それは楽しみです」
柊真は笑った。
詩織は味を整えたスープへ、鶏肉や野菜、焼き上がっただまこを加え火を通していく。
やがて具材の旨味が溶け合い、談話室いっぱいに温かな香りが広がった。
「いい匂いですね! 皆さんを呼んできてもいいですか?」
「はい。準備はできました」
柊真が談話室を出ていく。
葵は完成した鍋を覗き込み、はにかむように微笑んだ。
その姿を見つめながら、詩織は胸の奥に広がる痛みを静かに押し隠す。
今だけは──この穏やかな時間が続いてほしかった。
しばらくすると、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。
やがて談話室の扉が開き、柊真に続いて工藤と宮下が姿を見せる。
「おっ、いい匂いだな」
工藤は鼻を鳴らしながら、鍋の湯気へ真っ先に顔を向けた。
その大柄な体つきに似合わず、こういう場では妙に足取りが軽い。
宮下は相変わらず無言だったが、視線だけは最初から最後まで土鍋に釘付けになっていた。
煮立つ鍋からは、醤油の香りとともに、せりと舞茸特有の香りが部屋いっぱいに広がっている。
食欲を静かに刺激する、あたたかい匂いだった。
「準備はできていますよ。
今、葵さんに、お箸を用意してもらっています」
取り皿や飲み物も揃い、箸休めには研究所の菜園で採れたトマトとイチゴまで並べられている。
葵の席には、いつもの水筒がちょこんと置かれていた。
柊真はその隣に腰を下ろし、工藤は反対側へどかりと座る。
宮下と詩織も、いつもの席へ着いた。
皆で食卓を囲むことは多くない。
それでも、不思議と席順だけは自然に決まっていく。
長く同じ場所で過ごした者たちの、呼吸のようなものだった。
「お待たせしました。皆さんのお箸です」
葵は一本ずつ丁寧に箸を配ると、自分の水筒が置かれた席へ静かに腰掛けた。
「俺はビールだな。柊真は?」
「僕も最初はビールで」
「私もいただきます」
「僕は……」
宮下が言いかけたところで、葵がすっと炭酸水を差し出す。
「宮下さんはこちらですね」
「ありがとうございます。Aoi」
少し照れたように受け取る宮下。
そのやり取りに、場の空気がふっと和らいだ。
しばしの静寂。
だが、それは気まずい沈黙ではない。
湯気の立つ鍋を前にした、胸の奥が少しだけ温まるような間だった。
工藤が柊真へ目配せする。
柊真は小さく頷き、グラスを持って立ち上がった。
「えっと……では」
一度、深く息を吸った。
言葉を選ぶように、少しだけ躊躇うように、しかしまっすぐ前を見た。
「皆さん、お疲れさまです。
僕は正直、とても嬉しいんです。
また研究者としてAIの開発ができること──。
そして、葵や皆さんと、こうして鍋を囲めることが……」
途中で、声が少し詰まった。
柊真は目元を伏せるようにして、小さく笑った。
「大変な日々は続きます。
でも今日は、今日だけは、そういうことを少し忘れて楽しみましょう」
グラスを掲げた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
静かに、しかし確かに、乾杯の音が重なった。
詩織は大きめの器へだまこ鍋をよそい、葵がそれを順番に配っていく。
湯気の向こうで、誰もが少しずつ表情をほどいていった。
その様子を見ながら、工藤が低く呟く。
「よかったな、柊真」
「はい。一時はぎくしゃくしていましたから」
「それを、ここまで戻したのはでけぇよ」
工藤はそう言って、鍋の向こうにいる柊真を見た。
不器用なりに場を整え、皆をここへ集めた男を、きちんと認める声だった。
葵が器を配り終え、席へ戻ってくる。
「それじゃ、いただこうか」
「いただきます」
柊真は箸でだまこを持ち上げ、ひと口運んだ。
出汁をたっぷり吸っただまこが、口の中でほどける。
鶏の旨味。
せりの爽やかな香り。
舞茸とごぼうの豊かな味わい。
それぞれが主張しながらも、互いを邪魔せず、ひとつの味にまとまっていた。
「こいつはうめぇ!」
工藤が豪快に笑う。
その声が、鍋の湯気まで揺らすようだった。
「詩織、自慢するだけあるじゃねぇか」
「このせり……初めて食べました」
宮下も珍しく感情を表に出していた。
箸先で摘んだせりを見つめ、少し驚いたように言う。
「とても美味しいです」
柊真も頷いた。
「だまこももちろん美味しいんですが、この鍋は材料のどれか一つが欠けても、この味にはならない気がします」
詩織が表情をほころばせる。
「さすがですね。
そうなんです。どれ一つ欠けても物足りなくなるんです。
全部が互いを引き立て合って、ようやくこの味になるんですよ」
その会話を聞いていた葵が、ぽつりと呟いた。
「だまこ鍋、このラボみたいですね」
皆の視線が、自然と葵へ向く。
「私という存在は、皆さんがいなければ成り立ちません。
生まれてくることもできませんでした。
私の心はおじさまが。
感情は詩織さんが。
身体は工藤さんが。
そして、心と身体を繋いでくれるのが宮下さんです」
談話室が静まり返る。
葵の言葉には、作られたような返答の冷たさがなかった。
この一年、皆を見つめ、共に過ごしてきた彼女だからこそ、たどり着けた答えだった。
工藤は箸を置いた。
「葵……」
声が、わずかに震えていた。
「そんなこと……言ってくれるな……」
荒っぽい男の目尻から、堪えていたものがぽろぽろと零れ落ちる。
一つ、二つ。
隠す気もない、むき出しの涙だった。
「お前、そんなふうに言ったら……こっちが参るだろうが」
そう言って、工藤は大きく息を吐いた。
だがすぐに、泣き笑いのような顔で鼻をすすり、乱暴に目元を拭う。
何十年も機械だけを相手にしてきた男だった。
人の身体を作り続けても、その意味を理解してもらえる日など来ないと思っていた。
だが今、そのすべてが報われた気がした。
「身体なんて、ただの器だと思ってたんだがな……」
工藤は照れ隠しのように笑う。
「こんなふうに言われちまったら、悪くねぇ仕事だったって思っちまうじゃねぇか」
誰も慰める者はいなかった。
その必要がなかったからだ。
工藤の涙は、このラボ全員の想いそのものだった。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




