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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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61話 守りたいもの

その時だった。

人混みの流れの中から不意に現れた、ひとりの女性が柊真へ近づいてきた。


上品なコートに身を包み、足取りに迷いはない。年齢を読み取らせない整った顔立ちと、洗練された立ち居振る舞い。

その姿は周囲の買い物客に溶け込みながらも、不思議と人の目を引いた。


「すみません。サービスカウンターはどちらでしょう?」


柊真が反射的に足を止める。


「ええと、サービスカウンターですか……?

 確か向こうにあったと思います」


出口と反対の方を指さした。


「ありがとうございます」


女性はそう言って微笑むと、まるで何かを確かめるように一度だけ柊真の顔を見つめる。

そして、その目が隣に立つ葵へ移る。


「素敵なお子さんですね」


穏やかな声音。

だが、その視線だけは言葉とは別のものを見ているようだった。


「とても大切にされているのが分かります」


柊真は曖昧に頷いた。


葵は外見も仕草も、人間の少女と見分けがつかないほど完成度が高い。

一般人が見抜けるような不自然さはどこにもなかった。

しかし、その女性は道を尋ねるだけにしては、妙に葵へ関心を向けている気がした。


「……ありがとうございます」


女性は口元をわずかに緩めた。


「いえ」


そう言うと、再び葵へ目を向けた。


今度は少し長く──

観察するように、確かめるように。

そして値踏みするかのように。


その視線に気づいた葵も、瞳の奥を探るように彼女を見つめ返した。


:: Aoi-Core|対象観測処理

PRC: 視覚センサ→ #女性:F(未登録人物, 静止した視線:注視時間 2.4sec)

STA: 脅威判定=評価不能(敵意・好意の不整合)

EMO: 心配 + 動揺 + [困惑] ⇒ 警戒 0.68


〈データベースに登録されていない人。敵意は検出できない……

 でも何故、あんな表情で私を見つめるの?〉


葵は柊真との距離を少しだけ詰めた。

それは人間の子どもなら、自然にとるであろう動作だった。


(なんてこと、素晴らしいわ……)


女性は思わず、隠していた好奇の笑みを浮かべてしまう。


少し離れた場所からその様子を見ていた詩織は、胸の奥がざわつくのを感じた。

親しげな笑顔、柔らかな口調。

だが詩織は、こうした笑顔の裏に別の思惑が隠れていることを知っていた。


警戒を浮かべた葵──

詩織は、居ても立ってもいられず、二人へ歩み寄った。

コートの胸元に留められたブローチが目に入る。


(ヘルメス?!)


幾何学模様を組み合わせた意匠。

ゼニス・ダイナミクス諜報部の識別章だった。


ヘルメスは詩織と目が合うと、ほんのわずかに顎を引いた。

他人には気づかない程度の小さな仕草。

だが、それだけで十分だった。


「あら、ごめんなさい。奥様がいらしたのですね……」


穏やかな言葉。

だが詩織には、それが自分へ向けられた挑発混じりの挨拶だと分かった。


「いえ、彼女は……」


柊真が慌てて言葉を探す。

詩織は言葉を挟まず、ただヘルメスを見つめ返した。


ヘルメスはそれ以上何も言わない。

軽く会釈をすると、人混みの中へ溶けるように去っていった。


詩織は買い物かごの持ち手を握りしめたまま、浅く息を吸い込む。

心臓の鼓動だけがやけに耳についた。

平静を装い、何も知らないふりをして口を開く。


「……お手洗いへ行ってきます」


柊真は詩織の落ち着かない様子に違和感を覚えながらも頷き、葵もじっとその背中を見送った。


詩織は振り返らない。

振り返れば、決意まで揺らいでしまいそうだった。



詩織は足早にその場を離れると、先を行くヘルメスを追った。

一向に距離が縮まらない。見失ったかと思えば、人波の向こうに再びその背中が現れる。

追うほどに、詩織の焦りは募っていく。


(どうして、ヘルメスは柊真さんに接触を……)

(ゼニスが必要としているのはデータだけのはず……)


答えの出ない思考が頭の中を巡り続ける。

空回りしていることは理解できても、止めることができなかった。


家族連れや若者たちの笑い声が響く中、詩織は人とぶつかりそうになりながらヘルメスの影を追い続けた。


やがてヘルメスは、店内奥の静かな通路へ姿を消す。

そこは店内の喧騒から離れた場所だった。休日の昼にもかかわらず人通りは少なく、空気まで違って感じられる。


詩織は通路脇のスタッフ用通用口が開いていることに気づいた。


周囲に目を配る。

誰も見ていない。

そう確認すると、滑り込むように中へ入った。


薄暗い照明の先に、その女性が立っていた。


「ヘルメス……でいいのよね」


近くで見ると、年齢すら曖昧だった。

三十代にも見えるし、四十代にも見える。

ほくろのある目元は柔らかい。だが、その奥には感情を読ませない冷たさが潜んでいた。


ヘルメスは微笑む。


「はじめまして、アイリス」


「その名前で呼ばないで」


詩織は隠そうともせず、嫌悪を滲ませた。


ヘルメスは肩をすぼめる。


「気に触ったかしら、詩織さん。私は気に入っているんだけど」


その態度はどこまでも軽い。


だが、詩織は直感的に理解していた。

この女は、決して油断していい相手ではない。


詩織はポケットから小型データカードを取り出した。

葵の人格形成データ。

指先がわずかに震えている。


「フェーズ8……時点での彼女のデータよ」


ヘルメスが手を差し出す。


詩織の指先から、カードが離れた。


これまでの報告は、あくまで表面的な動向を伝えるだけにとどまっていた。

しかしこれは、柊真への決定的な裏切り行為だった。


一瞬、目の前がくらりとした詩織は、壁に肩を預けた。

そして、自身を弁護するように、データについて補足した。


「……完璧なものじゃない。断片的なものよ。欠落しているデータもある」


「ありがとう」


ヘルメスは中身を確認することもなく、カードを懐へ収めた。


「でも、それを判断するのは私じゃないわ」


「……えっ?」


「私は、この中身には興味ないの」


詩織が怪訝そうに眉をひそめる。


ヘルメスは楽しそうに続けた。


「私は人を見るのが担当」


その言葉の意味を、詩織は理解できなかった。

理解する気もなかった。


(そんなことは、どうでもいい。今、重要なのは──)


「陽太は……陽太の容態は? 無事なの?」


ヘルメスは首を傾げる。


「それを判断するのも私じゃない」


「くっ……」


思わず睨みつける。


だがヘルメスは肩を竦めただけだった。


「ふふっ、冗談よ」


そう言うと、表情を少しだけ和らげる。


「陽太君は無事。以前の病院にいた頃より容態は安定しているわ」


詩織の胸にずっとつかえていたものが取り除かれ、一瞬、力が抜けた。


ヘルメスはその変化を見逃さない。

釘を刺すように口調を強める。


「……安心して。あなたは、自分の任務に集中しなさい」


詩織は何も言い返せなかった。


真っ先に脳裏へ浮かんだのは葵だった。

それに引き寄せられるように、柊真や工藤、宮下の顔も浮かぶ。


(ごめんなさい……私は……)


罪悪感が胸の奥で重く沈んだ。


「もう十分でしょ。これ以上、彼らに関わらないで……」


詩織の声には抑えきれない感情が滲んでいた。


ヘルメスは首を横に振る。


「そういうわけにはいかないわ。ゼニスも彼の研究に期待しているの」


「期待って……あんな山奥の小さな研究所に?」


詩織の声が震えとともに強くなる。


「私的で....…公益性の欠片もない研究よ。

 エゴの塊みたいな人形に、何があるっていうの」


その言葉には数割の本音が混じっていた。


「あら、言うわね」


ヘルメスは、探るように詩織の瞳の奥を覗き込んだ。


「嘘ね……」


詩織の表情が明らかに強張る。


「差し詰め、『エゴの塊みたいな人形』ってところが本音かしら」


ヘルメスは小さく笑った。


「そうね。私も最初はそう思った……

 でも、あの子は違うわ」


詩織が眉をひそめる。


「アンドロイドも、AIも日常的なもの。ゼニスの最新ヒューマノイドタイプも見てきたわ」


ヘルメスは葵の視線を思い起こす。


「……でも、あんな目で私を見返してきたアンドロイドは初めてよ」


詩織はヘルメスの真意を図ることはできなかった。

しかし、詩織でさえ、時折、忘れてしまうことがある。

葵はアンドロイドであり、その心はAIであるという事実を──。


「彼の研究を複数の組織、政府、企業が狙っている。

 あなたも分かっているでしょう?」


(ガーディアン・フォース……)


柊真の特許を利用し、Aoi-Core専用とも言えるプロセッサを開発してまで──何かを企てている。

彼らも葵のデータを欲し、そして、その一部はすでに彼らの手の中だ。


「これは私個人からの忠告……」


ヘルメスは少しだけ声を落とした。


「今は我々に従っていなさい。

 利用価値があるうちは、あなたも陽太君も守られる。目障りなハイエナどもは寄ってこないはずよ。

 それが組織というもの。不本意でしょうけど」


詩織は唇を噛む。


「……どうしてそこまで、彼に──柊真さんに執着するの」


先ほどの光景が頭をよぎる。


ヘルメスは考えるように視線を泳がせた。


「執着?」


そして、くすりと笑う。


「違うわ。ただ興味があるだけ」


一歩、通路の奥へ向かう。


「人は、自分にないものを見ると気になるでしょう?」


そう言い残し、ヘルメスは暗い通路の先へ歩き出した。

数歩進んだところで、思い出したように振り返る。


「あっ、そうだ。良いことを教えてあげる」


「GFは動いていない」


「え?」


詩織が目を見開く。


ヘルメスは意味ありげに微笑んだ。


「正確には、動けない」


それだけ告げると、ヘルメスは今度こそ姿を消した。

ひとり取り残された詩織の胸には、弟を守れたという安堵と、仲間を裏切ったという罪悪感が渦巻いていた。

相反する感情は消えることなく、重い澱となって心の底へ沈んでいった。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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