60話 それぞれの待機
街のショッピングセンター、立体駐車場。
薄暗い照明の下に、ガソリン車時代を思わせる真っ白な高級セダンが浮かび上がっている。
窓ガラスにはスモークフィルムが貼られ、中は確認できない。
「アイリスから、連絡があったわ」
ゆったりとした後部座席に座るヘルメスは、運転席の部下にそう告げた。
端末を上着の内ポケットにしまうと、ゆっくりとカップを手に取った。
その動作は淀みがなく、まるで絵画のような計算され尽くした美しさがあった。
ヘルメスの顔立ちは、落ち着いた大人の女性のそれだが、その印象は一つに定まらない。
見る者によって優しげにも厳しげにも、あるいはまったく別人のようにも映る。
彼女は意図して、その見せ方を使い分けていた。
部下が、ルームミラー越しに様子をうかがう。
「ヘルメス様。今日は私だけで十分ではありませんか。
ご自分で出られる必要はないかと……」
ヘルメスはカップを傾け、コーヒーをひと口含んだ。
「必要かどうかで言えば、たしかにそうかもしれない」
彼女はひとつ息を吐くと、カップの縁を指先でなぞる。
「けれど、重要な場面は自分の目で見たいの。気になる相手なら、なおさらね」
穏やかな口調だったが、その声音に迷いはなかった。
部下はそれ以上何も言わず、前方へ視線を戻した。
ヘルメスはコーヒーの香りを一度だけ吸い込み、静かに目を細めた。
(AIなんて面白くないわ。興味があるのは人間。
自分の人生を犠牲にしてまで、一体何を求めるのかしら)
そのとき、上着にしまった端末が短く震えた。
カラス型生体ドローン──レイブンからの通信だった。
画面には、簡潔な文字だけが浮かんでいる。
《15:35 JST。対象、到着》
ヘルメスは端末を閉じた。
「来たようね」
「すぐに降りますか」
部下の問いに、ヘルメスは首を横に振る。
「いいえ。もう少し待つわ。
慌てて出ると、こちらの思惑が見えてしまうもの」
この人は、どんな状況でも決して自分の間合いを崩さない。だからこそ厄介で、強い。
部下にはそう見えていた。
ヘルメスは窓の外へ目を向けた。
立体駐車場の向こうでは、買い物客たちが行き交っている。その中に、詩織たちもいる。
彼女は人々の気配に耳を澄ませながら、静かにその時を待った。
同じ頃、ショッピングセンターの青果売り場では、詩織が葵と並んで食材を選んでいた。
休日の店内は買い物客で賑わい、子供たちの声が響いていた。
流れるBGMと総菜の香りが混ざり合い、どこか温かな空気を作り出している。
柊真は少し後ろからカートを押してついていく。
三人で歩いているはずなのに、詩織と柊真の間には妙な距離があった。
その空白を埋めるように、葵が詩織の隣を歩いている。
詩織が足を止めたのは、山積みにされたせりの前だった。
葵は棚を見つめ、真剣な表情を浮かべた。
「せりは、多めに買いましょう。
鶏の旨味が出たスープに、せりの爽やかな香りがよく合うんです」
葵は山のように陳列されている中から三束を選び、かごへ入れた。
「三束で良いでしょうか?」
「そうね……たくさん食べる人もいるから、もう一束、入れてください」
葵は新鮮そうな一束をかごへ追加した。
「舞茸も、いい香りが出ます。あと、ごぼうも忘れずに」
「おじさまが好きそうですね」
葵の言葉に、詩織の手が一瞬だけ止まった。
それから何でもないふうを装い、「ですね」と柔らかく頷いた。
精肉コーナーで、詩織は地鶏のもも肉と鶏ガラをかごに入れると、思い出したように柊真に言った。
「そういえば、お醤油も切らしそうです」
「……食料庫にストックはなかったと思います」
三人は調味料コーナーへ向かった。
様々な銘柄の醤油を、詩織は真剣な表情で見つめていた。
気になったものを手に取っては裏面表示を確認し、元の場所へ戻す。それを何度か繰り返していた。
葵は詩織を真似るように、棚から醤油のボトルを取り出し裏面表示をスキャンした。
〈こいくち、うすくち、たまり……同じ醤油なのに何が違うの?〉
「詩織さん、抽出の条件は何でしょうか?」
「葵さんも手伝ってくれますか。
こいくちしょうゆ、有機表記、丸大豆のものを選んでください。
お鍋にたくさんは使わないので、小瓶のものを。普段使いのものとは別にしましょう」
そう言うと、二人は再び醤油の棚に向き直った。
数分後。
「詩織さん、これはどうでしょう?
全ての条件を満たしています」
葵は小瓶をひとつ手に取り、詩織へ差し出した。
詩織は裏面を確認する。
「ありがとうございます。葵さん。
これにしましょう」
葵の表情が明るくなった。
〈よかった〉
そう認識すると、安心と小さな満足感が胸に広がった。
詩織に対して、嫉妬の感情がある。一時は嫌悪の感情さえ生まれた。
それでも、その感情が詩織への親愛を消したわけではなかった。
褒められれば嬉しいし、一緒にいる時間は心地よい。
葵にとって詩織は、今も大切な存在だった。
その様子を見ていた柊真から、思わず笑みがこぼれた。
最近は、葵と詩織が顔を合わせるたびに気を揉んでいた。
あの出来事以降、葵の中に生まれた感情は決して軽いものではなかったからだ。
だが今の二人は自然に会話をしている。
詩織も無理をしているようには見えない。
葵も落ち着いている。
それが少しだけ嬉しかった。
鍋の材料が次々とかごへ入っていく中で、柊真はふと気になったことを思い出した。
「詩織さん、ところで、だまこって何ですか?」
「ご飯を粒が残るくらいに潰して、丸めたものです。
きりたんぽのルーツらしいですよ」
「僕はきりたんぽ鍋、食べたことないです」
「ふふっ、実は私もありません。
家では、だまこ鍋が定番でした」
詩織は少し遠くを見た。
「子供の頃は、母と一緒に作ったものでした」
「家庭の味なんですね」
「ええ。みんなで鍋を囲むと、自然と話も弾みますから」
葵は二人の話の内容をそっとメモリに保存した。
:: Aoi-Core|対象観測処理
PRC: 視覚/聴覚センサ→ #詩織(視線の揺れ, 穏やかな声調)
STA: 新規記録=だまこ鍋(タグ:家族, 郷愁)/感情推定=不確定
EMO: [親愛] + 注視 + 感傷 ⇒ [当惑] 0.42/[好奇] 0.35
〈だまこ鍋。家族、郷愁、母の味。タグ付け完了……〉
詩織の横顔には、優しさと懐かしさ、悲しみが入り混じっていた。
葵にはその表情が、何を意味するのか分からなかった。
「葵さん。今日は、私が作り方を教えるので、しっかりと手伝ってくださいね」
詩織は葵の方を見て微笑んだ。
「はい。もちろんです」
葵も笑みを浮かべ、元気に応える。
二人の間には、いつの間にか柔らかな空気が流れていた。
その後も売り場を回り、酒類コーナーでは地酒、工藤の好きなビール、そして下戸の宮下のための炭酸水をかごへ入れた。
予定していた買い物が終わり、柊真はカートの中を見渡した。
「詩織さん、こんなところでしょうか?」
詩織は買い物リストと照らし合わせながら頷いた。
鍋の材料、生活物資もひと通り揃っている。
「ですね……」
そう答えながらも、詩織の意識は別の場所にあった。
ヘルメスからの接触は、まだなかった。
購入した品を手に取る素振りをしながら、人混みの向こうへ何度も視線を走らせる。
(まだ、ここを離れるわけにはいかない)
胸の奥に小さな焦りが積もっていく。
その間にも、柊真は葵を連れて出口へ向かっていた。
「そう言えば、足りないものが──」
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