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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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59話 第二のプロセッサ

それから、ラボにはどこか張り詰めた空気が漂っていた。

雲の切れ間から覗いた冬の日差しが、小さな窓を通して室内へ淡く差し込んでいる。

だが、誰一人その温もりに目を向ける余裕はなく、何かに急かされるように作業へ没頭していた。


葵は隅の椅子にそっと腰掛け、その様子をじっと眺めていた。


:: Aoi-Core|対象観測処理

PRC: 視覚/聴覚センサ → #柊真 #詩織 #工藤 #宮下(疲労因子の蓄積を観測)

STA: 平均作業効率 = 18.4%低下(処理限界の波及)

EMO: 心配 + 悲哀 + [自責] ⇒ [哀惜] 0.76


〈みなさんの表情……いつもよりずっと、暗い色をしている。わたしのために……〉


「ッツ!」


突然、宮下が小さく声をあげた。


宮下が張力のかかった配線ごと部品を外そうと、はんだごてを当てた瞬間だった。

溶融したはんだが弾け、銀色の粒となって顔へ飛んだのだ。

飛散したはんだは眼鏡に当たり、その一部が目元へ達していた。

本来の彼なら、まず起こさない類の単純な作業ミスだった。


宮下は給湯スペースへ急ぎ、水道水で目元を洗った。


「お騒がせしました……問題ありません」


彼は何事もなかったように作業へ戻った。


その様子を見ていた工藤が、小さく眉をひそめる。


「……らしくねぇな」


完璧な身体を作り上げたいというエンジニアの矜持と、未踏の領域を解き明かしたいという執念。

そして、目の前で限界を迎えつつある葵を放っておけないという焦燥。

それぞれ異なる思いを抱えながらも、ラボ全体が完全にオーバードライブ状態に陥っていた。


終わりの見えない葵の改修という長距離走を、誰もが限界を顧みず走り続けていた。

器の限界を迎えているのは、葵のプロセッサだけではなかったのだ。


その時、柊真の静かだが重みのある声が、ラボに響き渡った。


「皆さん、一度手を止めてください。少し、ペースを落としましょう」


一同を見渡すと、意を決したように画面を切り替えた。


「……実は、あまり良くないお知らせがあります。

 ガーディアン・フォースへ打診していた、次世代プロセッサ提供の件ですが、一週間が経過した今も返信はありません」


GFへの連絡はつかない。メールを送っても返信はなく、事実上黙殺されていた。

だが、柊真の画面には、皮肉な現実が映し出されていた。


「しかし、あの一件の後も、GFからの特許使用料は変わらず振り込まれています。

 つまり、彼らの側では今も僕の感情理解アルゴリズムが使われている。

 何らかのプロジェクトは動き続けているはずです」


柊真は表示された入金記録へ視線を向けた。


「フェーズ6の最終報告書を提出した直後の、あの巨額の支払いも含めて考えると……

 僕は、GFがすでに目的を達したのだと考えています」


ラボが静まり返った。


「フェーズ6だけで、ですか?」


詩織が問い返す。

その問いに応じたのは柊真ではなく、宮下だった。


「可能性は高いと思います。

 ただ……」


宮下は一瞬言葉に迷うように眼鏡に触れた。


「フェーズ6だけではない──」


ラボの空気がわずかに張り詰めた。


宮下はゆっくりと姿勢を正し、柊真へ向き直った。


「Aoiの感情モデルに現れた『揺らぎ』。

 発達過程で生じる未解決の干渉波形です」


柊真はしばらく黙ったまま画面を見つめていた。

やがて、わずかに頷いた。


「ああ……」


柊真は遠い記憶を見つめるように言った。


「僕はフェーズ6の一部データだけを危険視していました」


感情を押し殺した声。


「あのとき、報告書から意図的に除外したデータもあった」


誰も口を挟まない。


「でもGFは見抜いていた」


──磔にされたアンドロイド。

あの異様な警告を思い出したのは、柊真だけではなかった。


「結局、僕は提出したんです。

 除外していた感情ログも、規範判断の詳細データも──すべて」


重い沈黙がラボを包んだ。


「そして今になって思います。

 GFが本当に欲しかったものは、僕が危険だと思っていたデータだけじゃなかった……」


宮下は視線を伏せた。


柊真は小さく息を吐いた。


「感情が生まれる過程……

 迷い。葛藤。揺らぎ。

 ――人間らしさ、そのものです」


しばらく誰も口を開かなかった。


やがて柊真が苦く笑う。


「もっとも、最初から危険性に気づいていなかったわけではありません」


柊真の脳裏に、GFとの取引の記憶が蘇る。

秋葉原の喫茶店、黒いスーツの男、黒いアタッシュケース。

そして、『感情の揺らぎに関するデータを提供してほしい』という条件。


「普通のAI開発なら、そんなデータは必要ありません。

 だから警戒もしていました……」


感情を抑えた声だった。


「それでも、あの時の僕たちには必要だったんです。

 GE-X91でなければ、膨大な量のフィードバック情報を処理し、葵に感情を与えることができなかった」


ゆっくりと首を振る。


「GFを信用していたわけではありません……」


そして、小さく笑う。


「葵の未来を優先したんです」


その言葉には、今も消えない苦さが滲んでいた。


「……結果として、僕は彼らに多くを渡しすぎたのかもしれません」


柊真は努めて明るい声で言った。


「次の定期報告はフェーズ10を予定しています。

 ですが、このまま返信がなければ提出するつもりはありません」


それは、ガーディアン・フォースとの決別宣言に等しかった。



「……でも、柊真さん。

 それじゃあ、葵さんの新しいプロセッサはどうするんですか?」


詩織が慌てるように問いただす。


「ひとつ、考えている構想があります」


柊真は画面を切り替えた。

表示されたのは、Aoi-Coreのシステム構成図だった。


「今の葵は、一つのプロセッサで心と身体の両方を処理しています」


図面中央のGE-X91を指差した。


「ですが、今の葵にはそれが重すぎる。

 感情は複雑化し、処理すべき入力情報も増え続けている」


「だから限界が来た……」


宮下が呟く。


「ええ。

 そこで、身体側の処理を別のプロセッサへ分離します」


柊真が操作すると、画面にもう一つのブロックが追加される。


「GE-X91は感情理解アルゴリズム専用にする。

 もう一つのプロセッサが、感覚情報や環境情報を整理し、必要な形にしてGE-X91へ渡す。

 ──デュアルプロセッサ構成です」


宮下の目が鋭く光った。


「なるほど……」


しばらく図面を見つめる。


「僕はデータ量を減らすこと、帯域幅の拡張ばかり考えていました。

 処理そのものを分けてしまえばいい」


「そうです」


柊真は力強く頷いた。


「ただし、勘違いしないでください」


一同を見渡す。


「──葵の心はひとつです」


その言葉に、葵は思わず顔を上げた。


「GE-X91は今まで通り……。

 感情理解アルゴリズムも、葵の心も変わらない。

 もう一つのプロセッサは、葵を支えるための土台です。

 成長し続ける葵を、今のまま成り立たせるためのプロセッサを、もうひとつ用意するだけです」



詩織と宮下の表情が、わずかに緩む。

出口の見えなかった問題に、ようやく現実的な道筋が見えたからだ。


だが、工藤だけは腕を組んだまま図面を睨み続けていた。

熟練のエンジニアの目には、理論より先に、実現しなければならない課題が並んでいる。


「言うのは簡単なんだがな」


画面を睨みながら鼻を鳴らした。


「今だって電力もスペースもギリギリだ。

 プロセッサをもう一個積むってことは、その分だけ難しくなる。

 それに軽量化の方も、まだ設計段階だ。できる保証なんざねぇぞ」


「分かっています」


柊真は素直に認めた。


「これまでは、葵の成長に合わせて、その都度ハードウェアや感覚機能を追加してきました。

 それが結果として、今の状態を招いてしまった……。

 だから今度は、最初から全体を見渡した設計にするんです」


工藤は深呼吸するように、ゆっくりと息を吐いた。


「今だって排熱処理は綱渡りだ。

 これまで葵の大きなトラブルは、ほとんど熱絡みだったろうが」


柊真は静かに頷いた。


「理解しています。

 しかし、感情を処理するGE-X91の負荷は大幅に減るでしょう」


画面を操作しながら続ける。


「Aoi-Coreに余裕ができれば、冷却システムをより細かく制御できるようになるはずです。

 とは言っても、二つ目のプロセッサの仕様次第ですが──」


工藤は肩をすくめた。


「まあ、そうなんだろうけどな」


そして頭を掻く。


「二つ目のプロセッサをどこへ積むか。排熱をどうするか。

 考えただけで頭が痛ぇ」


だが、その口元にはわずかな笑みがあった。


「分かったよ──葵のためだ。やってやるよ」


工藤のその言葉を待っていたかのように宮下も薄く笑う。


「二つ目のプロセッサは、GF製である必要はありません。

 必要なのは、身体の情報を整理してGE-X91へ渡すことです。

 そこはソフトウェア側の処理、僕たちの腕の見せ所ですね」


柊真と詩織も顔を見合わせた。


出口の見えなかった暗闇の中に、確かな道筋が見え始めていた。

ラボには、久しぶりに前へ進むための熱が戻りつつあった。

だが、その代償のように、誰の顔にも疲労の色が残っていた。


葵は順番に皆の顔を見た。


工藤。

宮下。

詩織。

そして柊真。


〈みなさんの表情、明るくなりました。でも……〉


Aoi-Coreの分析結果は明白だった。


「……おじさま」


葵がためらいながら口を開く。


「皆さん、とてもお疲れです」


柊真は苦笑した。


「そうだね」


「私に何かできることはありませんか?」


その言葉に、詩織がふっと表情を緩めた。


「それなら、今日は美味しいものを食べましょうよ」


全員の視線が詩織へ向く。


「たまには研究を忘れて、ちゃんと休むんです」


そう言って、小さく笑った。


「私、得意な鍋があるんです」


「鍋ぇ?」


工藤が眉を上げる。


「はい。実家でよく食べていたんです」


詩織は少しだけ懐かしそうに笑った。


「だまこ鍋っていうんですけど」


「だまこ?」


「ご飯を潰して丸めたものを入れる鍋です。

 新米の季節になると、よく家族で食べていました」


「美味そうじゃねぇか」


工藤は即答した。


「今日くらい、ゆっくりしたって罰は当たらねぇだろ」


宮下も薄く笑った。


「賛成です」


柊真は少し考え、それから肩の力を抜くように微笑んだ。


「分かりました」


「今日は作業を早めに切り上げましょう」


詩織は胸の奥に生まれた安堵を隠しながら言った。


「それじゃあ、材料を買いに行かないとですね」


「おじさま、私も行きたいです」


「もちろん」


柊真は微笑んだ。


「じゃあ今から、三人で街まで行こうか」


その言葉に、詩織は胸の奥で小さく息を呑んだ。


誰にも気づかれないように、誰も傷つけないままヘルメスへ接触するための──

ようやく訪れた機会だった。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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