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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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58話 静かな焦燥

ガーディアン・フォースへ新しいプロセッサの提供を打診してから、一週間が過ぎていた。


厳しい冬は、まだ終わる気配を見せていない。

鉛色の雲が空を覆っているが、その隙間からは淡い朝の光が滲み、雪に覆われた森をぼんやりと照らしていた。

夜と朝の境界だけが、静かに色を変え始めている。


詩織は、研究所の一階にある自室で目を覚ました。

眠った、というより、意識を浅いところで何度も浮き沈みさせながら夜をやり過ごした、という方が近い。


薄いレースのカーテン越しに差し込む朝光が、冷え切った部屋の輪郭を淡く浮かび上がらせている。

窓の外はまだ薄明に沈んでおり、空気の色までが青白かった。


詩織は枕元に手をつき、ゆっくりと身を起こした。

胸の奥には、昨夜からどうしても抜けきらない重さが澱のように残っている。それは単なる肉体的な疲労ではなかった。

見られている、という逃げ場のない感覚が、肌の内側に薄い膜となって貼りついたまま剥がれないのだ。


カーテンに手をかける。

ためらいは、ほんの一瞬だけだった。


布を引いた先、その黒い影は視界に入った。

カラスが一羽、研究所を厳重に囲むコンクリート塀の上に止まっている。


朝の光を吸い込んだような、艶のない黒。

その羽の隙間では、銀色の金属光沢がかすかに揺れていた。


あの鳥が何者なのかを、詩織は知っていた。

レンズのような瞳が、じっとこちらを見ている。

そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと細くなるような錯覚に襲われた。


終わることのない監視。

研究所の敷地の外にも、この白き要塞の境界の向こうにも、常にあの冷徹な視線はある。

その残酷な事実を、詩織は毎朝のように確認させられ、自らの罪の重さを突きつけられていた。


カラスが、小さく首を傾げた。

次の瞬間にはもう、見えない圧力だけを残し、寒々しい風景の一部のように静止していた。


そのとき、手元でスマートフォンが短く震えた。


表示された通知は、灰色の冷淡な帯だった。医療システムからの自動送信。

詩織の視線が、その文字列の上で凍りついた。


《ALERT|Hinata Kisaki Respiratory Failure》


(呼吸不全?! ひ、陽太(ひなた)……)


全身から体温が半分ほど抜け落ちたような感覚に襲われた。

今すぐ駆けつけたい。

──だが、それは叶わない。


陽太が、どこにいるのかさえも分からなかった……


年の離れた弟の陽太。心臓の弱さを抱えたまま、向こうの手の中にある。

その事実を、詩織は何度も頭では理解していた。

けれど、こうして悪化の文字を突きつけられると、理解ではなく恐怖として胸の底に沈んでくる。


このまま黙っていたら。

このまま報告をためらえば。

彼が、必要な治療を受けられなくなるかもしれない。


詩織は画面を見つめたまま、指先を固く握りしめた。

窓の外のカラスは、まだいた。

監視も、圧力も、逃げ道のなさも、何一つ消えていない。

ただ、今朝の彼女はもう、それに耐えるだけの余裕を持っていなかった。


短く息を吸い、詩織は暗号化されたメッセージ画面を開いた。

宛先は、ヘルメス。

だが、彼女はすぐに指を止めた。

まだ、確実に外へ出る口実がない。

今この状況で不自然な外出を申し出れば、鋭い宮下に勘繰られる恐れがある。


確実に外へ出られる機会を待つしかない。


鏡の中には、酷く強張った自分の横顔が映っていた。

その鼻梁には、ダークレッドの眼鏡が掛かっている。

自分自身の意志で生きるための、小さな決意の証。


それなのに今は、その決意さえ揺らぎそうになっている。

鏡の向こうの自分を見つめながら、詩織は唇を固く結んだ。



詩織がラボへ入ると、室内にはすでに濃厚な疲弊の気配が立ち込めていた。


メインコンソールの前では、柊真がコーヒーを片手に感情理解アルゴリズムのコードと格闘している。

モニターに映る無数の文字列を追うその横顔には、隠しきれない消耗が滲んでいた。


工藤は、事務用の椅子を三つ並べ、その上に無理やり身体を預けている。

地鳴りのような重いいびきが、ときおりラボの静寂を震わせていた。


一方の宮下は、衝立で仕切られたラボの隅にいた。

簡易ベッドに広げた寝袋へ潜り込み、完全に包まったままピクリとも動かない。

辛うじて規則正しい寝息だけが聞こえていた。


三者三様ではあるが、その姿は全員等しく限界に近かった。


午前八時を告げる電子音が響いた。


と同時に、作業台に置かれていた工藤の携帯端末のアラームが、けたたましく鳴り響く。

それでも全く起きる気配のない工藤。

詩織が工藤を起こそうと手を伸ばした瞬間、ぬっと無骨な手が伸びてきた。


驚いて一歩退く詩織。


「わりぃーな、うるさくって……」


工藤は上半身を起こすと、大きな背伸びをしながら、全身の関節をバキバキと鳴らした。

その目の奥には、徹夜続きのエンジニア特有の、鈍い切迫感が宿っている。


「工藤さん、熱いお茶でも淹れますか?」


「死ぬほど熱くて濃いやつを頼むわ。ちっと、水で顔でも洗ってくらー」


工藤は獣のようなあくびを一つ残すと、重い足取りでラボを出ていった。


「宮下くんは、何か飲む?」


詩織が声をかけると、衝立の向こうで寝袋がもぞりと動いた。

しばらくして、青白い顔をした宮下が顔を覗かせる。


「僕は、コーヒーを……

 砂糖を多めに入れてください。極限まで……」


宮下の細い声には生気がなかった。


「分かったわ。

 美味しいのを淹れてあげるから、その髪、どうにかしなさいよ」


酷い寝癖のついた黒髪。

宮下はそれを無造作に手ぐしで整えると、デスクにあった輪ゴムで後ろへ括った。

艶やかでコシのあるその黒髪は、詩織が羨むほどに美しかったが、彼はその身だしなみを気遣おうとはしない。


詩織はラボの隅にある小さな給湯スペースへ向かう。

棚からコーヒーの粉が入った保存瓶を取り出し、スプーンで掬い上げたところで、手が止まった。


「あら……これで最後ね」


ドリッパーに湯を注ぎ始めると、ラボの無機質な空気に香ばしい豊かな香りが立ち込めた。


「詩織さん、僕の分もお願いできますか」


柊真が、すっかり空になったマグカップを手に、ふらりと給湯スペースへやってきた。

その白衣の襟元がわずかに乱れ、葵によって刻まれた赤黒い手の痕が、詩織の視界を掠める。


詩織は胸を締め付けられるような罪悪感を覚えながら、申し訳なさそうに瓶を傾けて見せた。


「すみません、柊真さん。

 今、ちょうど宮下くんと私の分で、粉が底をついてしまって……」


「あ、大丈夫です。まだ予備があったはずですから」


柊真は苦笑し、棚の奥をごそごそとあさり始めた。

コーヒーケースを取り出し、蓋を開けた瞬間、その動きを止めた。


「……こっちも、空でした」


スプーンの先が、無情にプラスチックの底を引っ掻く音だけが響いた。


「最近、夜遅くまでの作業が続いていましたから、消費が激しかったんですね」


「ええ。……買い出しが必要ですね。生活資材も色々と切らしていますし」


二人は視線を交わした。

その瞬間、詩織の脳裏にヘルメスの名がよぎった。


「それなら、今日の午後、私が街のショッピングセンターまで──」


詩織がすべてを言い切る前に──

ピッ、という解錠音がラボに響いた。

扉が静かに開き、葵が室内へと入ってきた。


葵の澄んだ瞳が、給湯スペースの中で並ぶ二人を捉えた。

柊真と詩織は、肩が触れそうなほど近い距離にいた。


:: Aoi-Core|対象観測処理

PRC: 視覚センサ → #柊真 #詩織(近接状態:距離0.4m)

STA: 情動温度上昇 = [熱] を検知 / 冷却機構出力増大

EMO: [嫉妬] + 悲哀 + 不安 ⇒ 推論中…


〈おじさまと、詩織さんが、また……わたしの知らない温度で……〉


葵の胸の奥で、ノイズが走った。

ラボの扉の前で、目に見えて俯き、その場に立ち尽くしてしまった葵の様子を察して、柊真と詩織は弾かれたように距離を取った。


「葵、どうしたんだい?」


柊真は、駆けるように歩み寄ると極めて優しい口調で声をかけた。


「……いいえ、おじさま。

 私の……睡眠プロトコルを、見ていただきたいと思いまして……

 お邪魔では、なかったでしょうか……」


葵の平坦な声の裏には、明らかな遠慮と、処理しきれない淋しさが湛えられていた。

彼女は表情を隠すように視線を落とした。


「そんなことは絶対にないよ……

 こっちへおいで、一緒にチェックしよう」


柊真は葵の手を取ると、制作室へと促した。


葵の睡眠プロトコルの不全は、単なるプログラムのバグではなかった。

未解決の感情群や、機体限界から来る「認知バッファリング」といった、Aoi-Coreの根本的な過負荷が原因。その深部を解決しない限り修復は不可能であることは柊真も分かっていた。


いつもの柊真であれば、葵にその工学的な理由を説明し、安易なパッチ当ては後回しにしていただろう。だが、今の彼には、葵に対して強烈な負い目があった。

その罪悪感ゆえに、彼は葵の健気な要求を拒絶することがどうしてもできなかった。


そんな柊真の、設計者らしからぬ不合理な行動を見て、デスクの宮下が鋭く口を挟んだ。


「柊真さん、現在のシステム状況で、そんなその場しのぎの処置を──」


その言葉を遮るように、詩織が宮下の肘を強く小突いた。


「宮下くん、黙って……」


宮下も、その意味を理解したようだった。


柊真と葵が制作室へと入っていくのと入れ替わるように、洗面所から工藤がラボに戻ってきた。


「ん? どうした、お前ら」


ラボに残された、妙に張り詰めた空気に、工藤は眉をひそめた。


「いえ、何でもありません」


詩織は慌てた様子で自らの動揺を隠すと、工藤のデスクに、淹れたての熱い緑茶が入った湯呑を置いた。


「すまねーな、詩織。生き返るぜ」


工藤は親指を立てると、熱い茶をズズッと音を立てて啜った。


しばらくの沈黙の後、制作室の扉が開き、柊真と葵が出てきた。


「おっ、葵、来てたんだな」


工藤が声をかけると、葵は小さくお辞儀をした。


「はい、工藤さん。おじさまに、睡眠プロトコルのチェックをしてもらっていました」


「……そうか。で、どうだったよ」


「プログラム自体にはエラーはないそうです。

 一時的な不整合を抑えるパッチを当ててもらいました」


葵はそう言って、感情の起伏を隠すように平坦に微笑んだ。


工藤はそれ以上追及せず、「なら良かった」とだけ応じた。

彼の視線は、葵の白い華奢な腕へ向けられていた。


(早く、新しい身体を作ってやらねぇとな)


職人の胸の内で、焦りの火がじりじりと燻っていた。

【更新予定:毎週金曜日の20時】

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