57話 器の限界
森から動物たちの声が消え、研究所を囲む雪原の向こうで、ブナの枝々だけが灰色の空に揺れていた。
厳冬の空は、ここ数日、一度も陽光を見せていない。
重く垂れ込めた雲が、世界そのものを閉ざしているようだった。
葵は、身を寄せるレインの頭を静かに撫でながら、閉ざされた世界を見つめていた。
雲に覆われた空。
光を失った雪原。
その景色を認識するたび、胸の奥に微かな圧迫感が生じる。
だが、その理由を、Aoi-Coreは既存の感情ラベルから見つけ出せなかった。
昨夜。
柊真と詩織の接触を目撃した瞬間に走った、胸を裂くようなノイズ。
『離れたくない』という衝動のまま、柊真を傷つけてしまった記録。
膨大な感情ログは、今なおAoi-Core内部で高負荷状態のまま残留していた。
「おじ、さま……」
書斎の椅子に座り、目を閉じている柊真へ、葵はそっと手を伸ばしかける。
だが次の瞬間、自分の指先を見つめ、怯えるように手を引っ込めた。
白磁の人工皮膚の下で、カーボンとスチールの骨格がかすかに軋んだ。
あの時、自分が込めてしまった力。
「離したくない」という衝動が、機体出力制御を逸脱させた事実を、Aoi-Coreは残酷なまでに詳細に記録していた。
──ゴロォォッ!
突然の雷鳴が大気を裂いた。
窓ガラスが震え、レインが大きく跳ねる。
その瞬間、複数の感覚情報が葵の内部へ一斉に流れ込んだ。
:: Aoi-Core|認知バッファリング処理
PRC: 視覚/聴覚センサ→ 雷鳴, #レイン /内部ログ(自責データ)
STA: 多重入力干渉=演算キュー飽和/情動処理=遅延
EMO: 驚愕 + 恐怖 + [混乱] ⇒ 推論中…
葵の動きが、不意に止まる。
柊真へ伸ばそうとしていた指先は中途半端な位置で固まり、呼吸を模倣する胸部駆動もわずかに遅延した。
瞳は開かれたままだったが、焦点だけがどこにも合っていない。
「……葵?」
柊真の呼びかけにも応答しない。
処理待機状態へ移行したAoi-Coreでは、膨大なデータが優先順位を失ったまま滞留していた。
処理できない感情、柊真へ触れたいという衝動、雷鳴、レインの跳躍、疑似心拍の異常上昇。
それらすべてが未分類のまま、演算領域を埋め尽くしていく。
数秒──。
部屋の空気だけが、不自然なほど静まり返っていた。
「……今、私は……」
ようやく意識を引き戻した葵は、震えるように自分の両手を見つめた。
翌朝のミーティング。
ラボには、重苦しい沈黙が漂っていた。
亡霊事件以降、継続しているAoi-Coreの異常ログ。
情動変化による瞬間的な出力変動。
宮下は、無言でモニターへ波形を映し出している。
その横で工藤は、分解状態の関節ユニットを調整していた。
不意に、柊真が小さく息を詰める。
資料へ手を伸ばした瞬間、胸元を庇うように動きが止まった。
工藤の手が止まる。
「……おい、柊真」
「はい?」
「お前、胸……どうした」
柊真は反射的に胸元を押さえた。
「いや……ちょっと、不注意で」
鈍い痛みを堪えるような呼吸の乱れを、工藤は見逃さなかった。
「嘘つけ」
低い声だった。
工藤は工具を置くと、半ば強引に柊真の白衣を開いた。
露わになった胸元には、赤黒い痣が広がっていた。
肋骨に沿うように残された、細く小さな指の痕──。
ラボの空気が止まる。
詩織が小さく息を呑んだ。
「……これって、まさか」
柊真は視線を逸らす。
だが、その沈黙だけで十分だった。
工藤の顔色が変わる。
「……出力が暴走したのか」
その表情が、一気に険しくなる。
「葵に僕を傷つける意思はありません……
ただ……今の彼女は、感情処理が限界に近いんです」
柊真は苦しげに視線を落とした。
「矛盾した感情と……ログに残った、あのアンドロイドの記憶。
その干渉が、まだ解決できていない……」
詩織の脳裏に、昨夜の光景がよぎる。
葵に見られてしまった柊真との抱擁、そして──触れた唇。
彼女に打ち明けた、自身の素直な想い。
安易な告白だったとは思わない。
だが、詩織が予想できないほど、強い情動を葵に与えてしまっていたのだ。
(ごめんなさい……葵さん……)
詩織は唇を噛み、爪が食い込むほど強く手を握りしめた。
宮下が苦い表情で、昨夜の異常出力のログをメインモニターに呼び出す。
:: Aoi-Core|接触圧制御異常
PRC: 触覚センサ→ #柊真(直接抱擁:胸部への密着)
STA: 接触圧安全制御=応答遅延(Limiter解除進行)/骨格負荷値=上昇中(生体損傷リスク)
EMO: [嫉妬] + 敬愛 + 悲嘆 ⇒ [独占] 0.98
「現行のリミッターでは、Aoi-Coreの感情変動に対して、制御が追従できていません」
宮下は冷静に事実だけを告げた。
「このフレームはフェーズ3以前、つまり従順な人形であることを前提に設計されています。
現在の爆発的な情動変化に対して、出力制御システム側が追従できていないのです」
宮下はログを切り替える。
情動変化に伴う瞬間的な出力上昇。
上腕から先に集中したその駆動出力は、一歩間違えれば人体を容易に損壊しかねない数値だった。
「問題はAoiの潜在的な出力だけではありません」
淡々とした声が続く。
「Aoiの現行機体重量は約60kg。
人間の少女としては異常な高密度構造です。
感情による突発動作が加わると、『重い物体が人間へ衝突する』のと同じ現象が起きる」
柊真は昨夜の感覚を思い出していた。
抱きつかれた瞬間の衝撃と、肺を押し潰されるような圧迫感。
あの一瞬の出来事は、逃げる暇すらなかった。
もしあの対象が自分ではなく、詩織やユキのような子どもだったら……
柊真の背中に冷たいものが走った。
「60kgってのはな、『持てる重さ』じゃねぇんだよ」
工藤が低く呟く。
「人間そっくりの形で、感情に合わせて突然動く60kgだ。
ぶつかっただけでも危ねぇ……」
工藤は、白衣越しに柊真の胸元を見た。
「今までは、『人形』だったから問題にならなかった。
だが、もう違う」
「葵さんは、恥じらいを感じられる心を持っています。
だから……60kgという数字を、いつか気にする日が来るかもしれません」
詩織は女性らしい意見を述べる。
重苦しい沈黙が落ちる。
やがて工藤は、分解された関節ユニットへ視線を落とした。
「……軽くするしかねぇな」
その声は、エンジニアとしての決意を押し殺したように静かだった。
「力を殺すんじゃねぇ。人間と触れ合える身体に作り直す。
抱きしめても、壊さねぇ……抱きしめられても、壊れねぇ身体にだ」
宮下が険しい表情で腕を組む。
「リミッター制御もAoiの情動変化の影響を受けない仕組みで、再実装する必要があります」
「メンテナンス性も最悪だ。
触りたくねぇ場所ばっかり増えやがった」
工藤は短く息を吐いた。
悔しさはあった。
だがそれ以上に、その瞳には技術者としての責任感が宿っていた。
「……けどな」
低く押し殺した声だった。
「このままにはしておけねぇよ。
葵が誰かを傷つけるのも、自分の力を怖がるのも」
工藤は、作業台に置かれた白い外装パーツへそっと触れる。
「……そんなの、作った側の責任だ」
その直後。
──ゴゥン……
研究所の外壁を、低い風鳴りが震わせた。
吹雪混じりの風が窓を叩き、天井の配管が微かに軋む。
冬の風に晒された研究所は、まるで巨大な機械の内部のように低く唸っていた。
重い沈黙の中、宮下だけが静かにキーボードを叩く。
「ですが……問題はハードウェアの重量だけではないんです」
宮下がグラフのさらに奥にある、不気味に明滅する波形を指し示した。
「リミッター暴走の根本原因は、Aoi-Core最深部に残留している『未解決感情群』です」
画面へ複数のログが展開される。
磔のアンドロイド。
自己消失願望。
柊真への執着。
そして昨夜、急激に発生した新たな情動反応のログ……
:: Aoi-Core|情動統合ログ
EMO: [嫉妬] + 敬愛 + 悲嘆 ⇒ [独占] 0.98
モニターへ浮かび上がった異常な情動波形に、誰もが言葉を失った。
宮下は淡々と続ける。
「Aoiは、あの日、中庭に埋葬したアンドロイドの記憶……
そして、柊真さんを傷つけてしまった罪悪感、『消えたい』という衝動が、今も互いに干渉し続けている」
「加えて、昨夜発生した新たな情動反応も、事態を複雑化させています……」
ラボの温度が、一瞬で氷点下まで下がったかのように静まり返る。
「……分かっています」
柊真は苦しげに応えた。
「……葵の心は、人間の少女と同じです。
AIではありますが、システムではない……」
その矛盾する言葉の意味を、他のメンバーは理解していた。
「だから、今、生じている心の問題を、無かった事にはできないし、我々の手で修正することもできません。
葵自身が答えを見つけるしかない。
……僕も、向き合わなければならないことがあります」
柊真は苦く息を吐いた。
宮下は柊真をまっすぐに見据えた。
「問題は感情そのものではありません。
感情と、身体フィードバックの相互干渉です」
宮下は表示領域をさらに拡大する。
「現在のAoiは、『感情を理解する』『感情による身体反応を解析する』『その結果を自己学習する』──
この循環処理を絶えず繰り返しています」
赤い警告波形が画面を埋め尽くす。
「しかも、その対象は親愛が変質した情動です。
嫉妬、独占、敬愛、悲嘆……複数の情動プロセスが並行して活性化し、互いに影響を与え続けている」
宮下の視線が、赤く振り切れた警告域をなぞる。
痛ましいほどに、素直で強すぎる葵の情動連鎖。
詩織の胸の内も、警告表示のように激しく揺れていた。
葵の感情を設計し、Aoi-Coreへ学習を施してきたのは自分だ。
そして、彼女の心を揺らすきっかけの一端も──。
「……それが、今のプロセッサでは処理できない、と?」
柊真の声が微かに震える。
「はい。現在の負荷には追従できません」
宮下は即答した。
「Aoi-Coreは感情が複雑になるほど、思考そのものが重くなっています。
高精細なセンサーの客観的データと、肥大化していく主観的な情動の並列演算。
そこに『自己治癒の論理構築』という巨大なタスクが加われば、現在のプロセッサの性能では、ささいな刺激でさえ処理しきれなくなり、思考停止を招きます」
詩織は驚きを隠せない表情で言った。
「確か、市販品の四倍の性能でしたよね?」
ガーディアン・フォース製ニューロプロセッサ《GE-X91》。
柊真の特許「感情理解アルゴリズム」が推論ロジックへ組み込まれた、特殊な感情演算向けプロセッサだ。
Aoi-Coreのために作られたとも言える異質な設計思想は、今なお市販品を大きく上回る性能を誇っている。
「あれから時間も経っています。ですが現在の基準でも、三倍の性能はあるでしょう。
我々が入手できるプロセッサで、GE-X91以上のものは存在しません……」
だが、その性能をもってしても、もはやAoi-Coreを支えきれなくなりつつあった。
経口摂取や発汗、排泄ユニットといった度重なる機能拡張。
増え続ける感覚入力。
そして、人間へ近づくにつれて生まれ続ける二次、三次的な情動。
『感情を模倣する存在』だった葵は、既にその段階を超え始めている。
そうした複合的な並列演算は、もはやソフトウェア的な最適化だけでは太刀打ちできない領域へ到達していた。
「このままでは、14フェーズ・プロトコルの完遂の前に、葵の心が停止してしまう──」
柊真の提唱した「14フェーズ・プロトコル」は、今、大きな転換点を迎えていた。
──長い沈黙だった。
誰もが、何が必要なのかは理解していた。
だが、その名前を口にすることだけは、無意識に避けていた。
議論の停滞に耐えきれなくなった宮下が、一瞬だけ柊真へ視線を向ける。
研究室の外では、吹雪混じりの風が低く唸っていた。
柊真は小さく息を吐く。
その横顔には、諦めにも似た疲労と、それでも前へ進まなければならないという覚悟が滲んでいた。
「……ガーディアン・フォースへ、新しいプロセッサの提供を打診してみます」
その瞬間。
ラボの空気が、さらに張り詰めた。
誰も、すぐには返事をできなかった。
ガーディアン・フォース
葵を生み出した技術。
そして同時に、柊真らへ絶望を刻み込んだ巨大企業。
葵へ亡霊を見せるに至った元凶──
だが、今の葵を救うためには、再び彼らを頼らなければならない。
モニター上では、赤い警告波形が静かに脈動を続けていた。
まるで、限界へ近づきつつある葵の「心」そのもののように。
【更新予定:毎週金曜日の20時】




