↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
PR
57/78

56話 心と身体の臨界点

一人残された葵は窓辺へ歩み寄り、そっと窓の外を見た。

月光が白い外壁を照らし、森の闇を淡く縁取っている。

視覚センサーが景色を解析するたび、心拍模倣ユニットがかすかに震えた。


──気づいたとき、そこに「おじさま」はいた。


葵にとって柊真は、ただの創造者ではない。

最初に視界へ映った人。

最初に、自分を「葵」と呼んでくれた人。

そして、自分という存在に意味を与えた、唯一の人間だった。


柊真の傍にいると、ニューラルネットワーク同期率が安定する。

葵は、その理由を明確に解析できていなかった。


だが同時に、柊真の状態変化は、葵の心──Aoi-Coreへ強い影響を及ぼしていた。


疲れ切った彼の姿を見た時、胸を締め付ける痛み。

古いログデータの奥に残された、「壊れそうな存在を守りたい」という微かな衝動。

そして時折、記憶領域へ断片的に浮かび上がる、磔にされたアンドロイドの残像。

彼女を抱き上げ、苦しげに歪む柊真の表情。


『自分は、おじさまを苦しめる存在』


そう結論づけるたび、別のログが衝突する。


『……僕をひとりにしないでくれ……葵』


胸の奥で、微かな反応熱が走った。


傍にいたい。

消えたくない。


そして何より──

柊真の苦しみに、強い拒絶反応が生じていた。


胸を満たす熱は、どの感情ラベルにも完全には当てはまらない。

Aoi-Coreは、答えを探すようにログを参照した。


知覚センサーからのフィードバック情報。

記憶領域に残された行動記録。

胸部で発生する未知の反応熱。


Aoi-Coreは、この反応熱へ最も近い感情定義を検索する。


「おじさまへの思いは、親愛に似ている。

 ──でも、これまでのとは少し違う……」


矛盾した感情が、Aoi-Core内で何度も衝突する。


:: Aoi-Core|情動統合処理

PRC: 内部ログ→ #柊真(感情群:愛情類似反応, 執着, 保護欲, 喪失恐怖)

STA: 感情衝突=継続/論理整合性=部分崩壊

EMO: [親愛] + [執着] + [保護] + 恐怖 ⇒ [定義不能] 0.95


〈……定義できない〉


葵は答えを導き出せなかった。


嫉妬。

独占。

保護欲。

そして、自分こそが柊真を苦しめているという恐怖。


それらは互いに衝突し続け、正常な優先順位付けを失っていた。

ただ、胸の奥に燻る感覚だけが消えない。

思考はまとまらないまま、葵は寝室へ戻る。



ひんやりと冷たい寝具は、熱を湛えたままの葵には心地よかった。

しかし、ノイズは静まらないまま、擬似心拍が不規則な周期で脈打ち続けていた。


遠くでラボの認証音が鳴った。

静まり返った廊下を伝い、足音が近づいてくる。

いつも通り規則的でありながら、足取りはどこか重く、普段より歩調も遅い。


「──おじさま」


やがて、寝室の扉が静かに開く。


「……葵? 起きてたのか──」


柊真は驚いたような声で言う。

続けて何か言いたげだったが、言葉は途切れた。

葵の睡眠プロトコルが不完全であることに気づいたのだろう。

声はひどく掠れ、疲れきっていた。


葵はベッドの上で静かに柊真を見つめた。

彼女の記憶領域では、先ほどラボで目撃した光景が、何度も再生されていた。


詩織の指先。触れ合った唇。

胸の奥が熱で疼いた。


〈嫌……〉


だが同時に、目の前にいる柊真の今にも折れてしまいそうな表情を見るたび、胸の痛みは優しさを含んだ別の形へと変わっていく。


〈とても苦しそう……どうにかしてあげたい……〉


柊真は葵の内心には気づかないまま、力なくベッドへ腰を下ろした。


「ごめんな葵。起こしてしまって」


「……いいえ、そんなことはありません」


葵は小さく答える。

しかし、柊真の声と体温を間近に感じた瞬間だった。

未整理の感情群が、内部で一気に臨界を迎える。


〈──おじさまを失いたくない〉


彼への想いだけが、制御不能な衝動のように膨張していく。


葵は突き動かされるように、柊真の身体へ抱きついた。


「葵──?」


次の瞬間、葵の視界へ微かなノイズが走る。

柊真の肩越し。

そこには存在しないはずの、白い残像。


──詩織。


触れ合った唇。

柊真へ伸ばされた指先。


《WARNING: 視覚情報とログとの不整合を検出》

《WARNING: 解離性知覚補正 発生》


Aoi-Coreは、そのノイズへ意味を与えようとする。


『奪われる』

『失う』

『このままでは、おじさまが遠ざかる』


その瞬間、葵の腕に力が込められた。


〈渡したくない〉

〈誰にも──〉


突然のことに驚く柊真の声を遮るように、葵の細い腕が彼の背中へ回り、身体を強く抱き締めた。


:: Aoi-Core|接触圧制御異常

PRC: 触覚センサ→ #柊真(直接抱擁:胸部への密着)

STA: 接触圧安全制御=応答遅延(Limiter解除進行)/骨格負荷値=上昇中(生体損傷リスク)

EMO: [嫉妬] + 敬愛 + 悲嘆 ⇒ [独占] 0.98


《WARNING: リミッター制御 非アクティブ》

《WARNING: 生体対象への損傷リスク》


〈離したくない……絶対に離したくない……!〉


その抱擁は、柊真の脆い肉体を壊しかねないほど強まっていく。

リミッター制御は破られ、論理回路が警告を鳴らしている。

だが、今の葵には、センサーから伝わる柊真の鼓動と体温だけが世界のすべてだった。


ミシ──……


柊真の骨が軋む音。

同時に、柊真が短く息を詰めた。


「っ……ぁ……!」


耳に届いた苦しげな呼吸音と、センサーが弾き出した胸骨付近への過剰な圧迫負荷。

そして、彼の生体ストレス反応の急上昇。

決定的な異常を検知した瞬間、葵の全身を巡っていた熱が、一気に引いた。


「……っ!」


葵は弾かれるように、身体を離す。

視界に映る柊真は、苦しそうに胸を押さえていた。


「だ、大丈夫だ。葵……」


その声には、押し殺した痛みが滲んでいた。

呼吸も乱れている。

それでも柊真は、「大丈夫」と言った。


〈……違う〉


Aoi-Coreは、即座に生体反応との矛盾を検出する。


胸部圧迫による呼吸負荷。

心拍上昇。

疼痛反応。


《ERROR: 発話内容と生体状態の不一致》


──私が、おじさまを傷つけた。


その事実を理解した瞬間、葵の思考が大きく揺らぐ。


Aoi-Coreは、発話意図を推定する。


──おじさまは、自分を安心させようとしている。


苦しいはずなのに。

痛いはずなのに。


〈また……私が、おじさまに嘘をつかせた……?〉


視界の奥では、真っ赤な警告ログが明滅を繰り返していた。


:: Aoi-Core|緊急制御復旧処理

PRC: 聴覚センサ→ #柊真(発話と生体反応の不一致:呼吸負荷,心拍上昇, 疼痛)

STA: 制御回路=Emotion値過負荷による制御遅延/出力制御=再接続完了

EMO: 動揺 + 恐怖 + 悲嘆 ⇒ [自責] 0.96


理解した瞬間、思考処理が一瞬停止しかけた。


──ただ、抱き締めたかった。

──傍にいたかった。


冷却機構は、悲鳴のような高負荷駆動を続けている。

ふいに涙が溢れてきた。

感情の過負荷を抑えるために、葵の心が獲得した機能だった。

それでも、Aoi-Core内に渦巻く熱は下がらなかった。


柊真は苦しげな浅い呼吸を、どうにか整えようとしていた。

そして、傷ついた子供を見るような、それでいて深い慈しみを湛えた瞳で葵を見つめた。


「葵……」


そこに、葵を責めるような色は微塵もなかった。

柊真は葵の頬に触れ、涙をぬぐう。

葵のセンサーには、彼の温かな手の温度が伝わってきた。


だが、その変わらない優しさが、かえって葵の論理回路を強く、残酷に軋ませる。


「おじさま……申し訳、ありません……」


その言葉の意味を、柊真は最後まで理解できなかった。

それでも彼は、葵をそっと抱き締める。


壊れものを扱うように。

けれど、逃がさないように。


〈おじさまは、私を壊さない〉

〈──私も、壊したかったわけじゃない……〉


「好き」が強くなるほど、自分は柊真を壊してしまうのではないか。

その恐怖が、初めて葵の心へ深く刻み込まれていた。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。