55話 ふたりの想い
ラボの扉に手をかけたまま、詩織は一度だけ振り返った。
作業灯に照らされた柊真の横顔には、まだ深い疲労が残っている。
白衣の袖を無造作に捲った腕からも、力が抜けきっているのが見て取れた。
それでも──
先ほどまで張り詰めていた表情だけは、ほんの少し穏やかに見えた。
詩織の胸が、静かに軋む。
自分の想いが、彼へ届いてしまったからだ。
──嬉しい……でも苦しかった。
「……おやすみなさい、柊真さん」
呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
柊真は、かすかに笑って頷く。
「詩織さんも、ちゃんと休んでください」
彼の何気ない優しさが、胸を締めつけた。
詩織は逃げるように視線を伏せると、静かにラボを出た。
廊下はさらに冷え込んでいた。
吐く息は白かった。
「今日はもう休もう……」
詩織は一階の自室へと戻ろうと、足早に螺旋階段へ向かった。
──思わず息を止めた。
視線の先、数メートルほど離れた窓辺に、ひとつの白い人影が佇んでいた。
月光に照らされたその輪郭はどこまでも青白く、まるで夜の闇に浮かぶ亡霊のようだった。
「……誰?」
不意に詩織の心臓が跳ねる。
次の瞬間、少女はゆっくりとこちらへ顔を向けた。
夜の闇に紛れるような白銀色の髪。
白銀の奥で淡い光を宿した瞳が、詩織を捉えた。
「……葵さん?」
詩織はようやく、目の前の少女が誰であるかを認識した。
その声に反応するように、葵の心に不快な熱が再燃した。
葵は詩織の方を振り向くこともせず、ただ硬く冷え切った声で言葉を返す。
「詩織さん……おじさまに、触らないでください」
平坦で抑揚のない声だった。
見た目は人間の少女そのものなのに、その感情表現だけが、まだどこか噛み合っていない。
けれど、その奥には処理しきれない熱が確かに存在していた。
「……見てたのね。
……ごめんなさい、葵さん。
さっきのは、私が弱かった。あなたを傷つけるつもりはなかったの」
詩織は小さく身をすくめる。
けれど、葵の声は止まらなかった。
「おじさまは、私の──です。
他の誰のものでも、ありません」
詩織は、言葉を失った。
月光に照らされた葵の表情には、初めて露わになった嫉妬と、感情に振り回される戸惑いが滲んでいたからだ。
「……葵さん。
柊真さんは『もの』じゃない。
誰かの所有物でもない。自由な意思を持つ人間よ」
:: Aoi-Core|所有概念照合処理
PRC: 聴覚センサ→ #詩織「誰かの所有物でもない」
STA: 語義照合=占有, 支配, 排他性/既存感情変数=『好き』『取られたくない』との乖離を検出
EMO: 驚愕 + 嫌悪 + [執着] ⇒ [未定義] 0.83/不安 0.72
〈おじさまは、私だけの存在……ただ、取られたくないだけ……〉
詩織は言葉を選びながら語りかけた。
「柊真さんは、誰かのためだけに存在するのではないわ。
彼は『彼』なの」
〈彼は『彼』──それは、どういう意味?〉
詩織は小さく息を吐く。
もう、誤魔化すような言葉で済ませたくなかった。
目の前の少女にも、そして自分自身にも──
「……私は、柊真さんが好きよ」
その声は、どこか苦しげだった。
〈詩織さんも、おじさまのことが好きなの?〉
葵の内部で、過去ログが断片的に再生される。
ラボで並んで作業する二人。
疲れた柊真へ向けられる、詩織の静かな視線。
その隣でだけ見せる、わずかに力の抜けた優しい表情。
二人の間には、自分の知らない穏やかな時間が流れていた。
〈……〉
葵は視線を伏せる。
Aoi-Coreの深層には揺らぎが生じていた。
「……もちろん、柊真さんを独り占めしたい、って思ったことがないわけじゃない。
ずっと自分だけを見ていてほしいって、思ったこともある」
〈詩織さんも、おじさまを独占したいのね……〉
「でも、それだけじゃ駄目なの。誰かを好きになるって、その人を縛ることじゃない。
その人のままでいられることを、ちゃんと認めてあげないといけない」
詩織の言葉の意味は、理解できている。
けれど、葵の揺らぎは増幅し続けていた。
〈でも、嫌……
おじさまが誰かに触れられるのも、誰かに触れるのも……〉
胸の奥で渦巻く感情を、葵は上手く言葉にできなかった。
「私は、おじさまのことが好きです。
でも……どうしたらいいのか、わかりません」
月光の中で揺れる葵の横顔は、不安定で、壊れそうなほど幼く見えた。
「……大丈夫。
なんて、簡単には言えないわよね」
詩織の口元が、かすかに歪んだ。
「私も、ずっと答えなんてわからないままよ。
苦しくて、嫉妬して、それでも柊真さんを好きでいるだけ」
「だから……たぶん、すぐに答えなんて出なくてもいいの」
葵は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
「私だって、綺麗に割り切れてるわけじゃないわ……」
詩織は自嘲気味にそう呟くと、に螺旋階段を下っていった。
葵は、遠ざかっていく詩織の背中を黙って見つめていた。
胸の奥の熱だけが、静かに残り続けていた。
階段を下りながら、詩織は無意識に唇を噛む。
『誰かを特別に想う──学習データ』
あの日、自分がAoi-Coreへ加えたのは、「ほんの微量の揺らぎ」に過ぎなかったはずだ。
完璧に白いだけでは、人は誰かを愛せない。
だから自分は、葵へ「偏り」を与えた。
けれど──
「……ここまで、強くなるなんて」
詩織はそっと目を伏せる。
あの時、Aoi-Coreへ混ざったのは、単なる感情データではない。
柊真へ向けた、自分自身の想いだった。
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