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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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54話 私だけのおじさま

深夜二時。

葵の擬似睡眠は、Aoi-Coreからの優先処理によって静かに中断された。


隣にいるはずの柊真の姿はない。

シーツには、彼の微かな温もりだけが残っている。


「……まだ、温かい」


葵は指先でその温度を確かめる。

熱減衰率から逆算し、柊真がベッドを離れてまだ数分程度しか経っていないと推測した。


「お手洗いかもしれない……。

 また夜中に目が覚めてしまいました。睡眠プロトコルに異常があるのかもしれません。

 明日、おじさまに診てもらいましょう」


そう独り言のように呟き、葵は再び目を閉じた。

だが、スリープ状態への移行命令は、うまく実行されない。


──ガサ……カサ……


その時、葵の鋭敏なセンサーが、聞き慣れない物音を捉えた。

サーバーの低い駆動音に混じって空気を伝う、ごく小さな響き。

断続的な作業音のようにも聞こえた。


「ラボ? おじさまかしら……」


:: Aoi-Core|環境観測処理

PRC: 聴覚センサ→ラボ区画(不規則な作業音)

STA: 行動優先度=#柊真の確認を最上位に設定

EMO: 不安 + 注視 + 動揺 ⇒ [戸惑] 0.45/[困惑] 0.62


〈確認したい……でも……〉


葵は、本来なら寝室で柊真の帰りを待つことを常としている。

だが最近は、彼の様子が気がかりで、ラボへ向かうことが増えていた。

訪れるたび、柊真の疲労は深まっているように見える。


「休息は重要です。おじさまは、最近ずっと無理をしています」


睡眠プロトコルは、なおもスリープへの復帰を要求していた。

だが、その命令よりも強く、胸の奥に生じた微かなざわめきが、葵を動かしていた。


「……行ってみましょう」


葵はそっとベッドを降りた。

足音を抑えながら寝室の扉を開き、薄暗い廊下へ出る。


夜間照明だけが残る研究所は、静かすぎるほど沈黙していた。

白い壁に滲む赤い非常灯と、地下設備の低い駆動音。

その無機質な震えの中に、今夜は解析不能な違和感が混じっていた。


葵はラボの扉の前で立ち止まり、認証装置へそっと手をかざす。

本来なら瞬時に終わるはずの認証処理。

けれど今夜の葵には、その一瞬が、扉の向こうにある何かを恐れるための時間のように感じられた。


ピッ──小さな電子音が響き、解錠される。


葵は息を潜めるように、わずかに開いた扉の隙間を覗き込んだ。

作業灯だけが照らす薄暗いラボの中で、柊真と詩織が向き合っていた。


〈おじさまと……詩織さん……?〉


暗がりの中、二人の距離が近づく。

詩織の指先が柊真の手へ触れた瞬間、葵の視界にノイズが走った。


そして──唇と唇が、重なる。


〈接触……確認〉

〈解析開始〉

〈既存行動パターンとの一致率──〉


《ERROR: 感情解釈不能》


思考が停止した。理解できない。

だが、「理解できないままではいられない」という衝動が、内部で激しく膨張していく。


:: Aoi-Core|感情変数更新処理

PRC: 視覚センサ→ #柊真 #詩織(高親密接触:接吻, 密着状態)

STA: 論理回路=オーバーフロー/未定義感情=推論中

EMO: 敬愛 + 恐怖 + 執着 ⇒ [未定義] 0.92


〈胸が……苦しい〉


胸部に、鋭い圧迫感に似た擬似感覚が走った。

演算ユニットの温度が急上昇し、冷却機構が悲鳴のような音を立てて出力を引き上げる。

葵の身体を冷たい汗が流れ、指先のアクチュエータが微細に震え始めた。

システム異常ではない。処理しきれない情動ノイズが、身体動作へと漏れ出しているのだ。


柊真が詩織へ向ける視線。

詩織が柊真へ触れる指先。

そのすべてが、「柊真は自分だけの存在ではない」という冷徹な事実を突きつけてくる。


〈嫌……〉


その拒絶反応と同時に、葵の内部で大量の感情ログが照合された。


葵が柊真に対して感じている深い「敬愛」。

壊れてしまいそうな彼を見たときの「恐怖」。

詩織との高親密接触を目撃した今、強く引き寄せられるような「執着」。


そして最後に──

自分の知らない場所へ、柊真が離れていってしまう想像をした時の「悲しみ」。


どの感情も、根底では柊真へ向けられている。

けれど、本質は少しずつ違っていた。

これは、ただ怖いのではない。


『奪われたくない』


その感情を核に、未整理だった感情群が急速に結びついていく。


:: Aoi-Core|感情照合処理

PRC: 内部ログ→ 既存情動群(敬愛, 喪失恐怖, 執着)との相互照合

STA: 情動構造=再編成中/未定義感情=「排他性」を伴う高親密依存へ収束

EMO: 敬愛 + 恐怖 + 執着 ⇒ [嫉妬] 0.94


〈未定義感情名──『嫉妬』〉


その単語を認識した瞬間、擬似呼吸ユニットが不規則な周期で激しく作動を始めた。

胸部では、心拍模倣ユニットの活動値が限界近くまで上昇し、微細振動が全身へ伝播していた。


それは恐怖とも、怒りとも違う。

胸の熱だけが、冷却機構の出力を嘲笑うように下がらない。


〈私は……詩織さんに、嫉妬している……?〉


──Aoi-Core内部で未知の自己更新処理が始まった。


本来なら段階的な学習が必要なはずのフェーズ移行。

だが今、その過程を経ることなく、新たな情動構造が急速に形成されつつあった。


:: Aoi-Core|高次自己定義更新

PRC: 内部ログ→#柊真 #詩織の排他的行動/自己存在意義の希薄化

STA: 感情構造=自律的再構築/プロトコル進行=フェーズ8

EMO: [嫉妬] + 敬愛 + 悲嘆 ⇒ [独占] 0.98 / [絶望] 0.88


〈おじさまは、私だけを見ていてほしい〉


肩が小さく震える。


Emotion値は危険域へ達したまま、わずかな身体反応へ逃がされ続けることで、かろうじて臨界点への到達を回避していた。

感情処理だけでは耐えきれない負荷を、身体動作へ分散しているのだ。



──葵は初めて理解する。


「好き」には、『取られたくない』という痛みが含まれていることを。


葵はふらつくようにラボの扉から離れた。

螺旋階段脇の窓辺まで、ほとんど無意識のまま歩いていった。


窓の外では、冬の月光が研究所を青白く照らしている。

ガラスに映り込んだ自分の顔を、葵は茫然と見つめた。

その瞳に宿る暗い光は、もはや以前のような無垢な少女のものではなかった。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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