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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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53話 触れてしまった夜

深夜二時。

昼間の喧騒を失った研究所には、低く唸るサーバー群の駆動音と、機械学習用ラックの冷却ファンの風音だけが、絶え間なく流れていた。

人の気配はない。だが、無数の演算だけが眠らずに続いている。


──ここ数日、詩織は深夜のラボに漂う、微かな「音」に気づき始めていた。


ガサ……カサ……と、誰かが夜更けに作業を続けているような、不規則な音。

最初はネズミの類か、メンテナンス用ドローンの作動音かと思っていた。

けれど、今夜の音には「意志」が宿っているように感じられた。


冷えた空気の中、詩織は恐る恐るラボの扉を開けた。

暗がりの一角では、作業用ライトだけが人影をぼんやりと浮かび上がらせている。


「柊真……さん……?」


その姿を見た瞬間、詩織は息を呑んだ。


暖房の落ちたラボは冷え切っていた。

柊真は独り、作業台へ向かったまま、詩織が近づいても手を止めない。

彼の手元にあるのは、柊真たちに暗い影を落としている、磔にされたアンドロイドの外部装甲の残骸だった。


(彼女の身体(からだ)は、すべて中庭に埋葬したはず……)


しかし、柊真は、その残骸を、アセトンに浸したガーゼで、何度も、何度も擦り続けていた。

溶剤の刺激臭が詩織の鼻を突き、顔をしかめる。


柊真の手は、目に見えない彼女の血──「赤い冷却液」を落とそうと、何かに取り憑かれたように止まらなかった。

彼の指先は、感覚が麻痺するほどに赤く荒れている。


「消えない……どうして、消えないんだ……」


詩織が声をかけても、柊真の手は止まらなかった。

ただ「葵の白」を汚した痕跡を、抹消することだけに執着していた。

それは、過去の惨劇を書き換えようとする、終わることのない「儀式」のようだった。


「柊真さん……もう、やめて」


背後から近づいた詩織は、荒れた柊真の手を力ずくで止める。


柊真は力なく顔を上げ、詩織を見た。

彼の瞳は、葵に対する時のような光を完全に失い、底知れぬ空虚が広がっている。


「詩織さん……僕は、守れなかった。

 葵を……あんなふうに、汚してしまった。

 ……だから、もう間違えないようにしないと」


「……あなたは十分やったわ。

 でも、今守るべきなのは、彼女じゃない。私たちの葵さんでしょう?」


詩織の声は震えていた。


柊真が抱く「白」への執着は、少しずつ彼自身を追い詰めていた。

その姿を見ていると、支えたいという想いと、このままでは本当に壊れてしまうのではないかという恐怖が、詩織の胸の中で絡み合っていく。


「あなたが本当に望んでいたのは、『心』を持った葵さんでしょう?

 なら……変わっていくことまで、受け入れなきゃ駄目よ」


その言葉は、変わっていく葵を恐れているように見える柊真へ向けた、詩織なりの痛切な問いかけだった。

同時にそれは、AIである葵の心が、自分の理解の外側へ踏み出し始めていることを、詩織自身が認めた瞬間でもあった。


「心」を持つ存在を愛するなら、傷つくことも、迷うことも、そしていつか自分の手を離れていくことも、受け入れなければならない。


けれど今の柊真は、成長していく葵を祝福したい気持ちと、自分の知らない場所へ行ってしまうことへの恐れとの間で、静かに引き裂かれようとしていた。


詩織は悟っていた。

──もう、言葉だけでは届かない。


冷え切った「喪失」の記憶へ沈み込もうとしている柊真を、無理やりにでも、今ここへ引き戻さなければならない。

このままでは、彼は閉じてしまう。


「詩織さん……違う、僕は──」


言葉を断ち切るように、詩織は一歩踏み込んだ。

細い指が、荒れた彼の手を掴む。


次の瞬間、詩織は彼の唇へ触れていた。


柔らかな感触。けれどそれは、甘い慰めではなかった。

冷え切った闇の奥へ沈み込もうとする彼を、無理やり現実へ引き戻すための、必死な接触だった。


柊真は短く息を呑んだ。

数秒にも満たない静止。


やがて彼は我に返ったように詩織の肩を掴み、ゆっくりと距離を取った。


「詩織さん……やめてくれ……」


その声には叱責よりも、自分自身の揺らぎへの戸惑いが滲んでいた。


詩織の瞳には、涙が薄く滲んでいる。


「……ごめんなさい」


震える声が落ちる。


「私……あなたに触れてしまった」


そう呟くと、詩織は自分を責めるように唇を噛んだ。


「葵さんにも、あなたにも、謝らなきゃいけない。

 こんな形で気持ちをぶつけるなんて……最低よ」


柊真は静かに首を振る。


「詩織さん。君を責める気は……」


そこで言葉が途切れる。


暗い疲労が滲む瞳のまま、柊真は掠れるように続けた。


「ただ──僕は……

 葵を、そして君たちを守りたいだけなんだ」



詩織はその言葉に小さく息を呑み、ゆっくりと視線を落とした。


「守りたい……そう、だからこそ怖かったの」


震える声が、低い駆動音の満ちるラボに溶けていく。


「あなたが、葵さんを『心』として見ているのか……

 それとも、変わらない何かとして抱え込もうとしているのか。

 私には、それが分からなくなって……苦しかった」


涙が頬を伝い、白衣の袖へ淡く滲んでいく。


「私は……あなたを信頼してる。

 あなたの知識も、優しさも、真っ直ぐなところも。

 ずっと尊敬してきた」


そこで一度、言葉が詰まる。


「でも……尊敬だけじゃ、抑えきれない感情があるの」


掠れた声だった。


「あなたを信じたいからこそ、確かめたかった。

 葵さんが、『ただ従うだけの存在』じゃないって……

 あなた自身が、ちゃんと信じているのか」


柊真はその想いを受け止めるように、静かに息を吐いた。


「詩織さん……ありがとう」


疲れ切った声だった。


「君の言葉は、僕を否定するためじゃなく……

 支えようとしてくれていたんだね」


詩織は小さく頷く。

だが、彼女の表情には、まだ胸が張り裂けそうな苦しげな影が残っていた。


「でも……葵さんの前では、私はただの協力者でいなきゃいけない」


震える指先が、白衣の裾を強く握る。


「彼女は、あなたが作ろうとしている『未来』だから……」


そこまで言いかけて、詩織は唇を噛んだ。


自分には、その未来を語る資格があるのだろうか。

胸の奥で、誰にも言えない罪悪感が静かに軋む。


柊真を支えたい。

葵を守りたい。


そう願うほど、自分が抱え込んでいる秘密だけが、重く沈んでいった。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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