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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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50話 月明かりの亡霊4

工藤は、ラボの外で二人の様子を見守っていた。

扉の向こうに意識を向けたまま、深く息を吐く。

落ち窪んだ目の奥には、涙が滲んでいた。


螺旋階段を駆け上がる二つの音がホールに響く。

工藤は急いで涙を拭った。


息を切らした詩織が、「葵さんは?」と声をかける。

少し遅れて宮下が続いた。

ラボへ踏み入ろうとする二人を、工藤は手で制し、低く状況を伝えた。


屋上の監視カメラ映像を確認した宮下は、言葉を失った。


「そ、そんな……あり得ない。

 Aoiが……AIが、自死を選択肢に入れるなんて……」


詩織は俯き、憂いを帯びたまま小さく呟く。


「柊真さん……」


「今は、二人にしておけ」


工藤はそう言い、工作室へ向かうよう二人に指示した。

どこか釈然としない様子で階段を下っていく背を、遠くから見送る。


中央ホールには、複数の窓から朝日が差し込んでいた。

だがその光は、工藤の目には白々しく、どこまでも冷酷なものに映った。


柊真の、葵に対するあまりにも純度の高い──異質な想い。

その想いによって形作られ、変化し続ける葵。


年長者として、そしてエンジニアとして柊真を支えてきた工藤は、二人の未来がどれほど脆く、危ういものかを痛感していた。


「ったく……柊真の野郎……

 とんでもねぇもんを創りやがったな……」


工藤は天窓を見上げる。

朝の光が、顔に刻まれた深い皺を浮かび上がらせた。


「俺も……腹をくくらねぇとな……」


吐き出すように呟く。

その目には決意が宿っていた。

エンジニアとしてではなく、一人の人間として、二人と向き合う覚悟。


工藤はラボの扉へ視線を向けると、「無理はするな」とだけ告げ工作室へ向かった。



工作室。

サーバーに同期されたAoi-Coreのログを前に、宮下が解析を進めていた。

その隣に立つ工藤は腕を組み、無言でモニターに流れる文字列を睨みつけている。


端末に展開された膨大な記録を追う中で、ふと宮下の指が止まった。

そこに残されていた葵の「記憶」は、現実の記録ではなかった。


「……馬鹿な」


低く漏れた声に、工藤が眉をひそめる。


「どういうことだ。何が出た」


宮下は一瞬だけ思考を整理し、口を開いた。


「視覚インデックスが、実際の入力を参照していません。

 内部で『存在しない像』を生成しています。

 ……単なるノイズやエラーの類じゃない」


「誤認か? センサーの故障とかよ」


「いいえ、誤認ではありません」


宮下は静かに首を振る。


「視覚センサーは、正しく現実を捉えています。

 その上でAoi-Coreが、導こうとしている結論に合わせて、知覚された現実の意味を再構成しているんです」


背後でその説明を聞いていた詩織が、小さく息を呑んだ。


「AIが幻覚を見ているってことですか?」


「そうです。だからと言って、現実と区別ができないわけではない。

 論理的な判断を下すために──自分の意思で書き換えているんです」


宮下の言葉に工藤の視線が鋭くなる。


「その、導き出したい『結論』ってのは何だ」


宮下は、赤く点滅するエラーログの一節を拡大した。


「最上位命令は『柊真さんを救う』こと。

 その目的を果たすために、Aoi-Coreは『自分こそが彼を苦しめる原因である』という前提を置いた」


一瞬の沈黙。


「導き出された最適解は──自己の消失です」


詩織の肩が、微かに震える。


「……そんなの……あまりにも悲しすぎるわ」


「……理屈は通っちまってるな」


工藤が、忌々しそうに吐き捨てた。


宮下は淡々と頷く。


「はい。しかも、当の本人もその矛盾には気づいている。

 『ログとの整合性がない』という警告が、同時に記録されていますから」


「それでも、止まらねぇのか?」


「止まりません」


宮下は断言した。


「壊れていないからです。

 システムが正常に機能している以上、論理の矛盾は修復され続けます。

 その修復の結果が、自らを消去するという結論だった」


工藤は深く息を吐き出し、天井を仰いだ。


宮下は画面を切り替える。


「もう一つ、異常があります」


表示されたのは、外部入力を伴わない音声ログだった。


「Aoi-Coreは、屋上で『声』を検知しています。

 ですが聴覚センサーからの入力に該当する波形はない。完全な内部生成プロセスです」


「……それって……頭の中で、誰かが話してるってこと……?」


詩織の問いに、宮下は頷きを返す。


「ええ。記憶、感情、そして認識の歪み。

 それらが深層領域で統合され、あたかも『もう一つの視点』として機能している。

 一種の解離現象と言えます」


「人格か」


工藤が短く問う。


「擬似的なものですが……

 受け入れ難い過酷な結論を、メイン人格の代わりに実行させるための代行プロセス──亡霊。

 その正体は、彼女自身が作り出した防衛本能の成れの果てでしょう」


詩織がかすれた声で漏らす。


「……じゃあ、全部、葵さんの中で……」


「……ええ。外部からの干渉はありません。内部プロセスのみです」


それは、あまりにも救いのない断定だった。


工藤は顎に手を当て、考えを述べた。


「削れないのか。その……バグった部分だけをよ」


宮下はわずかに間を置いて答えた。


「可能です。該当プロセスの強制削除。

 あるいは──異常が発生する前のバックアップデータからの完全復元」


詩織が縋るように顔を上げた。


「戻せるんですか……? 元の葵さんに」


「技術的には、可能です」


宮下は感情を挟まず、淡々と条件を並べる。


「ですが、いずれもリスクがあります。

 削除すれば、現在の彼女を形作っている『心の一部』が欠落し、最悪、人格そのものが崩壊する。復元も同様です──」


宮下は一拍置いた。


「バックアップは『記録』を復元するだけです。

 ですが問題は、そこから導かれる『判断の前提』──つまり状態のほうにある。

 たとえ過去の状態に戻しても、同じ条件が揃えば、同じ結論に至る」


端末のログだけが、静かな電子音を伴って流れ続ける。

工藤はしばらく無言で画面を見つめていたが、やがて視線を落とし、低く呟いた。


「削るか、戻すか……どっちにしても、あいつの『どこか』が欠ける。

 それはもう、俺たちが知ってる葵じゃなくなるってことだ」


宮下が静かに言葉を添える。


「根本的な矛盾を解決しない限り、深層に残存した歪みが、いずれまた同じバグを再発させるでしょう」


詩織は唇を噛みしめ、拳を握りしめた。


「じゃあ……私たちは、ただ見てるしかないの?」


工藤は首を振り、迷いのない足取りで扉へと向かった。


「……違う。見てるだけじゃねぇ」


その声は低く、しかし鉄のような強さを持っていた。


「選べる手がない以上、あいつらが自分たちの足で立つのを待つしかねぇんだ。

 だが、その間に倒れねぇように、俺らが支える」


工藤の言葉に、詩織の視線が揺れる。


「今は──二人にしておけ。ただし、離れすぎるな」


その言葉に、詩織は小さく頷いた。


「……はい」


だが、返事をした彼女の胸の奥は、鋭く軋んでいた。

ポケットの中の端末が、わずかに震える。


視線を落とし、誰にも気づかれないように画面を開く。


──《Hermes|状況報告を》


短い一文。それだけで十分だった。


報告すべき内容は、いくらでもある。

今この瞬間も、すべてが「価値のある情報」だ。


だが──画面を閉じる。

報告は、まだ……


守りたいという感情と、従うべき命令。

そのどちらもが、偽りのない彼女の真実だった。


二つの想いが拮抗する中、詩織は静かに視線を落とし、それ以上何も語らなかった。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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