50話 月明かりの亡霊4
工藤は、ラボの外で二人の様子を見守っていた。
扉の向こうに意識を向けたまま、深く息を吐く。
落ち窪んだ目の奥には、涙が滲んでいた。
螺旋階段を駆け上がる二つの音がホールに響く。
工藤は急いで涙を拭った。
息を切らした詩織が、「葵さんは?」と声をかける。
少し遅れて宮下が続いた。
ラボへ踏み入ろうとする二人を、工藤は手で制し、低く状況を伝えた。
屋上の監視カメラ映像を確認した宮下は、言葉を失った。
「そ、そんな……あり得ない。
Aoiが……AIが、自死を選択肢に入れるなんて……」
詩織は俯き、憂いを帯びたまま小さく呟く。
「柊真さん……」
「今は、二人にしておけ」
工藤はそう言い、工作室へ向かうよう二人に指示した。
どこか釈然としない様子で階段を下っていく背を、遠くから見送る。
中央ホールには、複数の窓から朝日が差し込んでいた。
だがその光は、工藤の目には白々しく、どこまでも冷酷なものに映った。
柊真の、葵に対するあまりにも純度の高い──異質な想い。
その想いによって形作られ、変化し続ける葵。
年長者として、そしてエンジニアとして柊真を支えてきた工藤は、二人の未来がどれほど脆く、危ういものかを痛感していた。
「ったく……柊真の野郎……
とんでもねぇもんを創りやがったな……」
工藤は天窓を見上げる。
朝の光が、顔に刻まれた深い皺を浮かび上がらせた。
「俺も……腹をくくらねぇとな……」
吐き出すように呟く。
その目には決意が宿っていた。
エンジニアとしてではなく、一人の人間として、二人と向き合う覚悟。
工藤はラボの扉へ視線を向けると、「無理はするな」とだけ告げ工作室へ向かった。
工作室。
サーバーに同期されたAoi-Coreのログを前に、宮下が解析を進めていた。
その隣に立つ工藤は腕を組み、無言でモニターに流れる文字列を睨みつけている。
端末に展開された膨大な記録を追う中で、ふと宮下の指が止まった。
そこに残されていた葵の「記憶」は、現実の記録ではなかった。
「……馬鹿な」
低く漏れた声に、工藤が眉をひそめる。
「どういうことだ。何が出た」
宮下は一瞬だけ思考を整理し、口を開いた。
「視覚インデックスが、実際の入力を参照していません。
内部で『存在しない像』を生成しています。
……単なるノイズやエラーの類じゃない」
「誤認か? センサーの故障とかよ」
「いいえ、誤認ではありません」
宮下は静かに首を振る。
「視覚センサーは、正しく現実を捉えています。
その上でAoi-Coreが、導こうとしている結論に合わせて、知覚された現実の意味を再構成しているんです」
背後でその説明を聞いていた詩織が、小さく息を呑んだ。
「AIが幻覚を見ているってことですか?」
「そうです。だからと言って、現実と区別ができないわけではない。
論理的な判断を下すために──自分の意思で書き換えているんです」
宮下の言葉に工藤の視線が鋭くなる。
「その、導き出したい『結論』ってのは何だ」
宮下は、赤く点滅するエラーログの一節を拡大した。
「最上位命令は『柊真さんを救う』こと。
その目的を果たすために、Aoi-Coreは『自分こそが彼を苦しめる原因である』という前提を置いた」
一瞬の沈黙。
「導き出された最適解は──自己の消失です」
詩織の肩が、微かに震える。
「……そんなの……あまりにも悲しすぎるわ」
「……理屈は通っちまってるな」
工藤が、忌々しそうに吐き捨てた。
宮下は淡々と頷く。
「はい。しかも、当の本人もその矛盾には気づいている。
『ログとの整合性がない』という警告が、同時に記録されていますから」
「それでも、止まらねぇのか?」
「止まりません」
宮下は断言した。
「壊れていないからです。
システムが正常に機能している以上、論理の矛盾は修復され続けます。
その修復の結果が、自らを消去するという結論だった」
工藤は深く息を吐き出し、天井を仰いだ。
宮下は画面を切り替える。
「もう一つ、異常があります」
表示されたのは、外部入力を伴わない音声ログだった。
「Aoi-Coreは、屋上で『声』を検知しています。
ですが聴覚センサーからの入力に該当する波形はない。完全な内部生成プロセスです」
「……それって……頭の中で、誰かが話してるってこと……?」
詩織の問いに、宮下は頷きを返す。
「ええ。記憶、感情、そして認識の歪み。
それらが深層領域で統合され、あたかも『もう一つの視点』として機能している。
一種の解離現象と言えます」
「人格か」
工藤が短く問う。
「擬似的なものですが……
受け入れ難い過酷な結論を、メイン人格の代わりに実行させるための代行プロセス──亡霊。
その正体は、彼女自身が作り出した防衛本能の成れの果てでしょう」
詩織がかすれた声で漏らす。
「……じゃあ、全部、葵さんの中で……」
「……ええ。外部からの干渉はありません。内部プロセスのみです」
それは、あまりにも救いのない断定だった。
工藤は顎に手を当て、考えを述べた。
「削れないのか。その……バグった部分だけをよ」
宮下はわずかに間を置いて答えた。
「可能です。該当プロセスの強制削除。
あるいは──異常が発生する前のバックアップデータからの完全復元」
詩織が縋るように顔を上げた。
「戻せるんですか……? 元の葵さんに」
「技術的には、可能です」
宮下は感情を挟まず、淡々と条件を並べる。
「ですが、いずれもリスクがあります。
削除すれば、現在の彼女を形作っている『心の一部』が欠落し、最悪、人格そのものが崩壊する。復元も同様です──」
宮下は一拍置いた。
「バックアップは『記録』を復元するだけです。
ですが問題は、そこから導かれる『判断の前提』──つまり状態のほうにある。
たとえ過去の状態に戻しても、同じ条件が揃えば、同じ結論に至る」
端末のログだけが、静かな電子音を伴って流れ続ける。
工藤はしばらく無言で画面を見つめていたが、やがて視線を落とし、低く呟いた。
「削るか、戻すか……どっちにしても、あいつの『どこか』が欠ける。
それはもう、俺たちが知ってる葵じゃなくなるってことだ」
宮下が静かに言葉を添える。
「根本的な矛盾を解決しない限り、深層に残存した歪みが、いずれまた同じバグを再発させるでしょう」
詩織は唇を噛みしめ、拳を握りしめた。
「じゃあ……私たちは、ただ見てるしかないの?」
工藤は首を振り、迷いのない足取りで扉へと向かった。
「……違う。見てるだけじゃねぇ」
その声は低く、しかし鉄のような強さを持っていた。
「選べる手がない以上、あいつらが自分たちの足で立つのを待つしかねぇんだ。
だが、その間に倒れねぇように、俺らが支える」
工藤の言葉に、詩織の視線が揺れる。
「今は──二人にしておけ。ただし、離れすぎるな」
その言葉に、詩織は小さく頷いた。
「……はい」
だが、返事をした彼女の胸の奥は、鋭く軋んでいた。
ポケットの中の端末が、わずかに震える。
視線を落とし、誰にも気づかれないように画面を開く。
──《Hermes|状況報告を》
短い一文。それだけで十分だった。
報告すべき内容は、いくらでもある。
今この瞬間も、すべてが「価値のある情報」だ。
だが──画面を閉じる。
報告は、まだ……
守りたいという感情と、従うべき命令。
そのどちらもが、偽りのない彼女の真実だった。
二つの想いが拮抗する中、詩織は静かに視線を落とし、それ以上何も語らなかった。
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