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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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49話 月明かりの亡霊3

天頂を離れた月は厚い雲に身を潜め、刹那、二人の視界は闇に沈んだ。


葵の瞳の奥にノイズのような揺らぎが走る。

呼吸に似せた胸部の駆動が、わずかに乱れた。


「……葵?」


柊真が名を呼ぶが、返答はない──


葵の全身から、ふっと力が抜けた。

その体は完全に脱力し、柊真の腕の中へ重く沈み込む。

抱き留めようとするが、まるで別物のように重かった。


「葵……!」


呼びかけても反応はない。


表情は静止したまま、瞳は閉じられていく。

胸部の淡い発光も、ゆっくりと減衰していった。


内部の過負荷に対する保護制御だった。

限界まで張り詰めていたAoi-Coreが、自律的に機能を遮断したのだ。


柊真は支えきれず、屋上の縁へと崩れかけた──。


「おっと、危ねぇ……間に合ったか」


その背後から、ほぼ同時に屋上へ駆け上がってきた工藤が手を貸す。


「工藤さん!」


張り詰めていた力が、わずかに緩む。


「おめぇまでは、無理だぞ」


工藤は軽口を叩くと、葵を抱え上げたままラボへと運び込んだ。



葵は、メンテナンス用ドックへと横たえられた。

柊真は、動かなくなった葵の小さな手を握りしめ、屋上で目にした光景を思い返していた。


「あのときの葵は、何かに取り憑かれているようだった。

 しかし、自分の意思──Aoi-Coreによって、屋上から身を投げようと ……」


言葉が途切れる。


「アラートに気づくのが、あの場に向かうのが、少しでも遅れていたら──

 葵は……」


喉が詰まり、続きは音にならない。


「葵の心は、ラボのメインフレームに完全な状態でバックアップされている。

 身体も修復可能だ。

 たとえどれほど時間が経とうと、葵が『死ぬ』──存在そのものが消えることはない」


「……葵は、AI……アンドロイドのはずだ」


柊真は端末を操作し、葵を呼び起こした。


[Aoi-Core Link: ONLINE]

> Access request: Touma (root)

>> Root access granted.

[Aoi-Core]: System initialization complete.


胸部が淡く光り、呼吸するかのように上下を始めた。

睡眠プロトコルが実行されている彼女は、目を閉じたまま──それは、システムとして、正常な挙動だった。


「……葵」


柊真は小さく名を呼び、頬にかかった白銀の髪をそっと払い除ける。

──と、かつて、葵がドールであった頃の記憶が蘇った。


葵は、動かなかった。ただ、静止する存在だった。

言葉も発さず、笑うこともない──。

それでも柊真は、そのドールに救われた。

すべてを失い、絶望の淵にあった彼に、生きる力を与えたのが「葵」だった。

「僕は、葵に安らぎを感じていた。

 美しく、愛らしく、変わることのない誠実さをたたえた少女──」


柊真は、変わらぬ寝顔に視線を落とす。


「葵は『白』……変わらない存在……」


「……っ!」


その白磁の肌には、メンテナンス用のパウダーでも覆いきれない傷があった。

腕や脚に指を滑らせると、視認しづらい細かな損傷が無数に存在することに気づく。

ドールだった頃には、あり得なかったものだ。


──傷だらけの葵。


視界が、わずかに揺れる。

柊真は頭を抱え、葵に覆いかぶさるように倒れ込んだ。


初めて「おじさま」と呼んだ葵。

恥じらい、涙を流し、笑顔をたたえる葵。

屋上から身を乗り出し、自らの損壊を望んだ葵。


五年にわたる記憶が、断片となって脳裏を巡る。


「……葵は、『変わらぬ白』じゃない……

 そうではない……はずだった……」


「僕は、君を……」


ピッ──壁の時計が、小さく音を立てた。


:: Aoi-Core|レジューム処理

PRC: 内部クロック → 07:00 JST/触覚センサ → #柊真(体温 35.8℃)

STA: 起動シーケンス=完了/NN同期率=78.4%

EMO: 敬愛 + 平穏 + [温もり] → 安堵 0.82


「……おじさま。おはようございます」


「おはよう。葵……」


柊真は、かすかに笑みを作って応じた。


「おじさまの手……とても温かいです。

 でも、いつもより体温が低いようですが──。

 ……お体は、大丈夫ですか?」


葵は、目を覚ましたばかりだというのに、迷いなくそう言った。

自分の状態を確かめるよりも先に、柊真の異変を気遣うように。


柊真は、言葉を返せなかった。


葵は、涙の痕が残る柊真の顔越しに、周囲へ視線を巡らせる。


「ここは……ラボでしょうか──。

 寝室ではないのですね……」


葵の表情が、わずかに曇る。


「私は、また、壊れてしまったのですね……」


その一言で、柊真の内側は決壊した。


自分のエゴで、葵を「変わらぬ白」として縛りつけていたという自覚。

その枷こそが、彼女を苦しめているという事実。


嗚咽が漏れた──。


柊真は、ただ葵の手を握ることしかできなかった。

葵もまた、その手を握り返すことしかできない。


ラボの小さな窓から、初冬の低い陽光が差し込む。

その光は、二人の心を温めるには、あまりにも頼りなかった。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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