49話 月明かりの亡霊3
天頂を離れた月は厚い雲に身を潜め、刹那、二人の視界は闇に沈んだ。
葵の瞳の奥にノイズのような揺らぎが走る。
呼吸に似せた胸部の駆動が、わずかに乱れた。
「……葵?」
柊真が名を呼ぶが、返答はない──
葵の全身から、ふっと力が抜けた。
その体は完全に脱力し、柊真の腕の中へ重く沈み込む。
抱き留めようとするが、まるで別物のように重かった。
「葵……!」
呼びかけても反応はない。
表情は静止したまま、瞳は閉じられていく。
胸部の淡い発光も、ゆっくりと減衰していった。
内部の過負荷に対する保護制御だった。
限界まで張り詰めていたAoi-Coreが、自律的に機能を遮断したのだ。
柊真は支えきれず、屋上の縁へと崩れかけた──。
「おっと、危ねぇ……間に合ったか」
その背後から、ほぼ同時に屋上へ駆け上がってきた工藤が手を貸す。
「工藤さん!」
張り詰めていた力が、わずかに緩む。
「おめぇまでは、無理だぞ」
工藤は軽口を叩くと、葵を抱え上げたままラボへと運び込んだ。
葵は、メンテナンス用ドックへと横たえられた。
柊真は、動かなくなった葵の小さな手を握りしめ、屋上で目にした光景を思い返していた。
「あのときの葵は、何かに取り憑かれているようだった。
しかし、自分の意思──Aoi-Coreによって、屋上から身を投げようと ……」
言葉が途切れる。
「アラートに気づくのが、あの場に向かうのが、少しでも遅れていたら──
葵は……」
喉が詰まり、続きは音にならない。
「葵の心は、ラボのメインフレームに完全な状態でバックアップされている。
身体も修復可能だ。
たとえどれほど時間が経とうと、葵が『死ぬ』──存在そのものが消えることはない」
「……葵は、AI……アンドロイドのはずだ」
柊真は端末を操作し、葵を呼び起こした。
[Aoi-Core Link: ONLINE]
> Access request: Touma (root)
>> Root access granted.
[Aoi-Core]: System initialization complete.
胸部が淡く光り、呼吸するかのように上下を始めた。
睡眠プロトコルが実行されている彼女は、目を閉じたまま──それは、システムとして、正常な挙動だった。
「……葵」
柊真は小さく名を呼び、頬にかかった白銀の髪をそっと払い除ける。
──と、かつて、葵がドールであった頃の記憶が蘇った。
葵は、動かなかった。ただ、静止する存在だった。
言葉も発さず、笑うこともない──。
それでも柊真は、そのドールに救われた。
すべてを失い、絶望の淵にあった彼に、生きる力を与えたのが「葵」だった。
「僕は、葵に安らぎを感じていた。
美しく、愛らしく、変わることのない誠実さをたたえた少女──」
柊真は、変わらぬ寝顔に視線を落とす。
「葵は『白』……変わらない存在……」
「……っ!」
その白磁の肌には、メンテナンス用のパウダーでも覆いきれない傷があった。
腕や脚に指を滑らせると、視認しづらい細かな損傷が無数に存在することに気づく。
ドールだった頃には、あり得なかったものだ。
──傷だらけの葵。
視界が、わずかに揺れる。
柊真は頭を抱え、葵に覆いかぶさるように倒れ込んだ。
初めて「おじさま」と呼んだ葵。
恥じらい、涙を流し、笑顔をたたえる葵。
屋上から身を乗り出し、自らの損壊を望んだ葵。
五年にわたる記憶が、断片となって脳裏を巡る。
「……葵は、『変わらぬ白』じゃない……
そうではない……はずだった……」
「僕は、君を……」
ピッ──壁の時計が、小さく音を立てた。
:: Aoi-Core|レジューム処理
PRC: 内部クロック → 07:00 JST/触覚センサ → #柊真(体温 35.8℃)
STA: 起動シーケンス=完了/NN同期率=78.4%
EMO: 敬愛 + 平穏 + [温もり] → 安堵 0.82
「……おじさま。おはようございます」
「おはよう。葵……」
柊真は、かすかに笑みを作って応じた。
「おじさまの手……とても温かいです。
でも、いつもより体温が低いようですが──。
……お体は、大丈夫ですか?」
葵は、目を覚ましたばかりだというのに、迷いなくそう言った。
自分の状態を確かめるよりも先に、柊真の異変を気遣うように。
柊真は、言葉を返せなかった。
葵は、涙の痕が残る柊真の顔越しに、周囲へ視線を巡らせる。
「ここは……ラボでしょうか──。
寝室ではないのですね……」
葵の表情が、わずかに曇る。
「私は、また、壊れてしまったのですね……」
その一言で、柊真の内側は決壊した。
自分のエゴで、葵を「変わらぬ白」として縛りつけていたという自覚。
その枷こそが、彼女を苦しめているという事実。
嗚咽が漏れた──。
柊真は、ただ葵の手を握ることしかできなかった。
葵もまた、その手を握り返すことしかできない。
ラボの小さな窓から、初冬の低い陽光が差し込む。
その光は、二人の心を温めるには、あまりにも頼りなかった。
【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】




