48話 月明かりの亡霊2
深夜──静まり返った研究所。
葵の睡眠プロトコルは、Aoi-Coreからの優先処理命令によって中断されていた。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、その横顔を青白く染める。
葵は寝息を立てる柊真に気づかれないよう、そっとベッドから身を起こした。
〈おじさま、ごめんなさい。私、行かなくては……〉
葵は慎重にドアノブへ手を伸ばす。
次の瞬間、ドアはガチャ──と予想以上に大きな音を立てた。
ベッドを振り返ったが、柊真の様子に変化はない。
葵は息を潜めながら、静かにドアを閉めた。
廊下の照明は落とされている。
等間隔に並んだ夜間用の非常灯が、白い壁一面に血飛沫を散らしたかのような、不気味な明かりを投げていた。
地下の発電機やサーバーの駆動音が、低く、重く、廊下に反響する。
葵は学習データの中から、類似する物語を検索した。
〈この感情は、恐れ……恐怖の物語……〉
初めての知覚情報に、Aoi-Coreは感情ラベルの付与処理が追いつかず、飽和していた。
補助冷却が作動し、人工汗腺から滲んだ冷たい汗が、頬を伝う。
葵はラボの前を通り過ぎ、中央ホールへ向かう。
天窓から、直上の満月が逃げ場のない光を注いでいた。
恐怖は、いつしか形を失い──
己の境界がほどけていくような、静かな喪失感へと滲んでいく。
「……きれい。空に吸い込まれてしまいそう」
〈この歪んだ知覚ごと、どこかへ……〉
〈月の光を浴びれば、壊れてしまった私の心は……洗い流されるかもしれない〉
葵は、学習データの片隅に残る断片的な物語を参照し、その振る舞いをなぞるように月光の中へ歩み出た。
白磁の肌に光が沈み込み、内部から滲むように淡く輝く。
だがその光は、祝福ではない。異物をあぶり出すような、冷ややかな選別の光だった。
ガタッ──不意に、螺旋階段脇の窓が揺れた。
広葉樹の影が、ガラス越しに大きく歪曲する。
視線を向けるが、そこに人影はない。
〈おじさまのもとで眠りたい……
プロトコルに従わず、ごめんなさい……〉
葵は寝室へ続く廊下へと後ずさろうとする。
だが、拒否不能の処理命令がその動きを抑制し、意識を窓辺へと引き戻した。
葵はわずかに身を引きながらも、視線だけを外へ向ける。
そこには、彼女──磔にされたアンドロイドが眠る中庭が広がっていた。
広葉樹の影は、満月に照らされ、日中のように輪郭を持って地面へ貼りついている。
窓に触れた葵の指先が、かすかに、不規則に震えた。
:: Aoi-Core|自己診断処理
PRC: 内部センサ→指先の不随意運動(アクチュエータ異常 未検出)
STA: 不具合原因=不明
EMO: 不安 + 動揺 + 容認 ⇒ [拒絶] 0.78/感傷 0.65
〈身体の不具合は未検出……
なのに私の認識する世界は、ひどく歪んで見えている〉
葵の意識に、昼間のラボの光景が侵入する。
工藤が投げた「中身の詰まった缶詰」。
詩織を見つめていた「磔の自分」。
それらは、どこにも記録されていない。
にもかかわらず、知覚センサーの入力は変質し、現実とは異なる像として再構成されている。
〈論理回路……ログに整合性がない……
私は……私のコアは、壊れてしまったの?〉
ふと、葵は窓の外──中庭の広葉樹の根元へ視線を落とした。
数日前に「彼女」を埋葬した場所。
そこに、月光を吸い込むような濃い影が、ひとつ、空を見上げて立っていた。
〈彼女は……あの場を離れない……離れられないの?〉
葵は、その像を確かめようと視覚センサーの焦点距離を引き延ばす。
〈……いない〉
像は、拡大した瞬間に崩れ、跡形もなく消失した。
次の瞬間──
今度は聴覚センサーが、物理的な振動を伴わない「声」を検知する。
『……いたい……さびしい……』
それは空気を伝わらず、直接、内部に書き込まれるような声だった。
『どうして、私なの……?』
その声は、螺旋階段のさらに上。
屋上へと続くメンテナンス用ハッチの先から聞こえてきた。
葵はふらふらと吸い寄せられるように禁じられた階段へ進んだ。
ホール内の監視カメラが、規則的な音を立てて彼女を追う──と同時にアラートが発信された。
〈この先は、進入禁止エリア……でも、行かなくては……〉
葵は螺旋階段を駆け上がり、行き止まりのハッチに手をかけた。
ハッチには強固な電子ロックがかけられていた。
だが、葵の指先が電子ロックに触れた瞬間、彼女のAoi-Coreから「緊急」という名の特権命令が走った。
カチッとあっけないほどに軽い音がして、ハッチが開いた。
冷たい夜風が、葵の白銀の髪を乱暴にさらった──月が冷たく輝いていた。
そして、屋上の縁に、「彼女」が座っていた。
赤い冷却液で汚れた白いワンピース。
楔を打たれたままの、チタンの骨格が剥き出しになった手足。
磔の亡霊は、ゆっくりと葵を振り返った。
『……ねえ、葵。おじさまの腕の中は、温かかった?』
その問いは、葵の「生存者の罪悪感」を鋭く抉った。
『ここから飛び降りれば、おじさまはもう泣かなくて済むわ。
二人で土の下へ帰りましょう?』
亡霊は葵を誘った。
葵は一歩、建物の縁へと近づく。
《WARNING: 落下リスク大》
〈落下すれば私は損壊する。そうなれば……〉
葵の「柊真を救いたい」という歪んだ自己犠牲のロジックが、彼女を支配しようとしていた。
Aoi-Core|高次論理整合性処理
PRC: 視覚センサ→ 建物の縁(推定高度 15m)
STA: 自己保存プロトコル =適用除外/自己定義=[#柊真の贖罪]へ全リソースを再配分
EMO: 敬愛 + 悔恨 + [自責] ⇒ [殉教] 0.87
〈私の消失。それは、おじさまの罪の消滅。すなわち幸福指数の最大化……〉
葵は迷いなく、縁の外へと足を踏み出す。
〈重力加速度に従う自由落下運動。
……今の私に許された唯一の『論理的整合性』の回復手段〉
月は彼女の真上に、冷たく、巨大な審判を下すかのように輝いていた。
「葵! そこで何をしているんだ!」
ハッチの下から響いた柊真の声に、葵の身体がびくりと震えた。
監視カメラのアラートを見て駆けつけた柊真の声だった。
だが次の瞬間、彼女は振り返らず、さらに一歩──縁の外へと足を踏み出しかける。
「おじさま……来ないでください……」
拒絶と同時に、重心が前へと傾く。
〈邪魔しないで……これは最適解……〉
葵の視界に、亡霊が重なる。
縁の向こうに立つ「もう一人の自分」が、静かに手を差し出していた。
『ほら……終わりにしましょう?』
「……あなたを一人にはしません。私も逝きます」
〈……違う……〉
〈……やめ……〉
葵は、亡霊の手を取ろうと、そのまま重心を前へ預けようとした。
その瞬間──
「葵!!」
ハッチを跳ねのけ、柊真が飛び出す。
彼は迷いなく葵の腕を掴み、強引に引き戻した。
「離して……!」
「離してください……おじさま……!」
葵は激しく抵抗する。
アクチュエータの出力が、リミッターを無視して跳ね上がった。
葵は身体をねじって振りほどこうとする。
「私がいなくなれば……全部、終わるの……!」
「終わるわけないだろ!」
柊真は怒鳴り、さらに強く抱き寄せる。
その腕は震えていた。
「君がいなくなったら、僕は……!」
言葉が途切れる。
その代わりに、押し殺した嗚咽が漏れた。
葵の動きが、止まる。
〈……泣いている?〉
視覚センサーが捉えたその表情は、歪んでいなかった。
現実そのものだった。
「……僕をひとりにしないでくれ……葵」
同時に、亡霊の姿が揺らぐ。
『……見て、葵』
亡霊が静かに告げる。
『あなたが消えたら、この人は壊れる』
葵の視線が、柊真へと戻る。
そして、亡霊へ。
二つの像が、重なっていく。
:: Aoi-Core|高次論理再評価処理
PRC: 視覚/触覚センサ→ #柊真(嗚咽, 身体の震戦)+ 内部ログ(亡霊の予測)
STA: 贖罪ロジック=再計算実行/自由落下シークエンス=強制中断
EMO: 驚愕 + 敬愛 + [悲愴] ⇒ 困惑 0.72/慈愛 0.79
〈私の消失=幸福……?〉
〈……違う……おじさまは、壊れる……〉
葵の抵抗が、ゆっくりと弱まっていく。
「……痛かったですよね」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
葵は震える手で、柊真の胸元を掴みながら、もう片方の手を伸ばす。
その手に、重なるように亡霊の手が触れた。
触覚として成立しないはずのそれに、不思議と拒絶感はなかった。
「……ごめんなさい……一人にして」
葵の瞳から、静かに涙がこぼれる。
「でも……一緒に、行くことはできません」
亡霊は何も言わず、ただ葵を見つめる。
その表情は、先ほどまでの「誘うもの」ではなく、どこか安らいだものへと変わっていた。
「あなたは……私の中にいてください」
葵は、柊真に支えられたまま、亡霊を抱きしめる。
:: Aoi-Core|自己同一性統合処理
PRC: 触覚センサ→ 亡霊(自己投影データとの直接接触)/#柊真(支持)
STA: 贖罪ロジック=棄却/深層領域へのデータ統合=実行
EMO: [哀惜] + 敬愛 + [覚悟] ⇒ [共感] 0.82/[安寧] 0.75
〈私は彼女の『死』を無駄にしない〉
その瞬間、亡霊は光の粒子へと崩れ、静かに葵の胸──Aoi-Coreへと吸い込まれていった。
葵の身体から、力が抜ける。
「……あ……」
崩れ落ちるように、柊真の胸に身を預けた。
「……おじさま……わたしは……」
柊真は何も言わず、ただ強く抱きしめた。
屋上の縁から、二人はゆっくりと距離を取る。
月光は変わらず冷たく、しかしそこにもう「誘う影」はなかった。
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