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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第5章 変わる器、変わらぬ心
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51話 銀色の監視者

メンテナンス用ドックの内部で、微かな振動音が続いていた。

葵の冷却ユニットが、いつもの規則的な稼働から外れた周期で揺れている。


:: Aoi-Core|メンテナンス処理

PRC: 内部パラメータ再調整/不整合データ補正

STA: 進行度=65%(停滞)/NN同期率=79.7%


ニューラルネットワーク同期率は、回復の兆候を見せていない。

柊真は眉を寄せた。


「……今日は、ここまでにしよう。

 葵、お疲れさま……」


端末に触れ、処理を中断する。

処理音が段階的に消え、室内に静けさが戻っていった。


「おじさま……

 メンテナンスは、終わりましたか?」


葵がゆっくりと上体を起こし、かすかに微笑む。


「終わったよ、葵。

 ……今日はもう、計算も学習もやめよう」


柊真はそう言い、葵の肩に触れた。

触覚センサーを通して、彼の優しさが熱として伝わってくる。


〈温かい……〉


葵はその熱に指で触れ、目を閉じる。

メンテナンスログは、回復の兆しがないことを淡々と示していた。

心と身体の整合性がとれていない自覚もあった。


それでも、その不安を打ち消すように思い出す。


『君がいなくなったら、僕は……!』

『……僕をひとりにしないでくれ……葵』


──葵は亡霊を見ることはなくなった。


〈私は、おじさまに必要とされている〉


葵は端末を操作する柊真の横顔を、静かに見つめていた。

その表情には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。


柊真は何度か瞬きをし、指先の動きを止めることなく作業を続けた。

室内には、サーバーの駆動音と微かな打鍵音が淡々と積み重なっていく。


葵は何も言わず、その時間をただそばで過ごしていた。



──それから数時間後。

柊真はようやく手を止め、完成したメンテナンス計画を詩織に共有した。


「葵。中庭に出ようか。少し、空気を変えたい」


その一言に、葵は小さく頷いた。


メンテナンス計画に目を通し終えた詩織が、控えめに口を開いた。


「……もしよければ、公園に行きませんか。

 今の時期、人も少ないですし……気分が晴れると思いますよ」


柊真は一瞬だけ考え、頷く。


「いいね。そうしよう」


そのやり取りを、壁にもたれて聞いていた工藤が、短く言った。


「宮下」


名を呼ばれ、宮下は視線を上げる。


「……はい?」


工藤は姿勢を崩さぬまま、手元に目を落とした。

その眼差しは拒否を許さない硬さを帯びていた。


「お前も行ってこい」


宮下はわずかに眉を動かし、言葉を選ぶように一拍置いた。


「僕が同行する合理性は──」


「いいから行け」


低く、余地を残さない声音で遮られる。

数秒の沈黙。

空気が張り詰めたまま止まる。


「……了解しました」


宮下は小さく息を吐き、応えた。



その日の午後、初冬の平日。

葵と柊真たち四人は、人影のまばらな街の公園へと足を運んでいた。

遠くでは、子どもの声がかすかに響いている。


衛星の監視を避けるため、一行は公園の奥まった場所にある東屋へと向かった。

木漏れ日の差す小道を進むたび、足元の落葉が乾いた音を立てる。

葵の傍らには、主人を守るようにレインが誇らしげに付き従っていた。


やがて雑木林を抜けると、視界が開け、空が大きく広がる。

葵はふと足を止め、顔を上げた。

その視界の端を、黒い影がかすめる。


一羽のカラスが、枝の上でこちらを見下ろしていた。

光を反射したその羽は、一瞬だけ銀色に揺らいだ。

だが次の瞬間には、それはただの鳥にしか見えなかった。


青く澄んだ空が、どこまでも続いている。

陽光は強くはないが、穏やかな温もりを伝えていた。


「葵、気分はどうだい?」


柊真は、気遣うように問いかけた。


「気温11℃、湿度32%……体感としては──。

 ……快適、です」


わずかに間を置いて紡がれたその言葉は、どこか選び取られたような響きを帯びていた。


「そうだね……」


返す柊真の言葉も、どこかぎこちなかった。


詩織は声をかけるきっかけを掴めないまま、二人の後ろを静かに歩いていた。

少し離れた位置では、宮下が欠伸を噛み殺しながら歩いている。

片手に端末を持ってはいるが、視線は画面に向けられていなかった。


東屋のベンチに腰を下ろすと、ひんやりとした感触が背中に伝わった。

落葉した銀杏の葉が、かさり、と軽い音を立てて風に転がっていった。


「珍しいですよね。僕が外出に同行するのは」


「工藤さんに命令されたからだろ」


柊真が言うと、宮下は小さく肩をすくめた。


「ええ。『おまえも行け』と。

 ……合理性は感じませんが、逆らう理由もない」


その声には、隠しきれない倦怠が滲んでいた。


レインが、葵の足元で機嫌良さそうに耳を垂れていた。

白と黒の毛並みが、陽の光を受けて柔らかく輝いている。


「……レイン」


葵がその名を呼ぶと、レインは尻尾を振った。

その動きだけが、確かな「生」を感じさせた。


「おじさま。レインの行動パターンは、予測精度が低いにも関わらず……」


葵は内部処理を挟むように間を置き、


「……安心感を伴います」


と続けた。


柊真は小さく笑う。


「それはたぶん、予測できないからだよ」


「予測不能……安心……」


葵はその言葉を、ゆっくりと内部でなぞる。


詩織が籐で編まれた小ぶりなバスケットを開いた。

中には、トマトとハムのサンドイッチと果実、そして温かい飲み物。


「簡単なものですけど……」


「十分ですよ」


柊真が答える。


宮下は無言でサンドイッチを取り、黙々と食べ始めた。

閉じていた端末はいつの間にか開かれ、片方の手で忙しなく操作している。

詩織は以前、年の離れた弟を嗜めるようにそれを注意したことがあった。

しかし、宮下は「性分です。効率化のためです」と言って、受け入れることはなかった。


葵は、自分の水筒から水を少し飲んだ。

ミカンの柔らかな甘みと酸味が、ゆっくりと広がった。


「……おじさま。詩織さんの料理は、毎回、使われている素材は似ているのに……」


少し間。


「……別の『安心』があります」


詩織は一瞬だけ、視線を逸らした。


「そう感じてもらえるなら……嬉しいわ。

 冷凍食品や加工品が中心だけど、幸い水耕栽培で新鮮な野菜は手に入るから……」


その声は、ほんのわずかに揺れていた。


そのときだった。


「……レイン?」


葵が名を呼ぶと、足元で尾を振っていたレインが、突如として動きを止めた。

その背の毛が一瞬で逆立ち、喉の奥で低く唸る。


「どうした、レイン」


柊真が不審げに声をかけたが、レインは応じない。

体勢を低く構え、その黒い瞳は森の一点に縫い止められたように動かなかった。


次の瞬間、レインが鋭く吠え、静寂が破れた。


レインの視線の先──一本のクヌギの枯れ枝に、その個体は止まっていた。


周囲にいたカラスたちがレインの鳴き声に驚いて一斉に飛び立つ中、その一羽だけが、彫像のようにじっとこちらを見下ろしている。

黒いはずの羽の奥に、金属のような鈍い光が混じっていた。


葵の知覚が、クヌギの枝へと引き寄せられる。


:: Aoi-Core|外部観測検知

PRC: 視覚/聴覚センサ→ #カラス形個体(超高周波音を検出)

STA: 監視対象 = 生体擬態観測ユニットの可能性 98.2%

EMO: 不安 + 動揺 ⇒ 警戒 0.79


「……おじさま。あの個体、通常の生体反応と一致しません。

 センサーが高周波音を検出しています」


葵の声は淡々としていたが、内部では警戒シグナルで溢れようとしていた。


「……生体擬態ドローンですね。珍しいものではありません」


宮下が目を細め、端末を操作することなくそのカラスを注視する。


「恐らく民間の警備仕様のものでしょう。作りが粗い。

 ですが……ある意味、自然だ……

 工藤さんが僕をここへ送り出した理由は、これですか」


宮下は独り言のように呟き、隣に座る詩織を盗み見た。


彼女は何も言わず、ただそのカラスに視線を向けていた。

ほんの一瞬──カラスの瞳は鈍く銀色に発光する。

詩織のポケットの中で、端末が心臓の鼓動のように短く二度、震えた。


気づいているのは、彼女だけ。

だが詩織は端末を取り出さず、視線も逸らさない。

カラスは羽音もなく不自然なほど滑らかに飛び立ち、雑木林の奥へと消えていった。


「柊真さん。

 その……ガーディアン・フォースの一件もあります……」


宮下は言葉を濁す。


「分かった。今日は、もう引き上げよう」


柊真は顔を曇らせながら静かに答えた。


食事を手早く済ませ、広げたバスケットの中身を皆で片付ける。

その間、葵は林の奥を見つめていた。

不安と警戒で高まった演算負荷を、レインを撫でて落ち着かせようとしていた。


「……少し、手を洗ってきます」


詩織は誰とも視線を合わせぬまま、そっと席を立った。

木立の奥へと歩みを進め、人気のない場所でようやくポケットの中の端末に触れる。


画面には、網膜を焼くような冷徹な文字列が躍っていた。


──《Hermes|状況報告を》

──《観測データ受信中。対象の反応速度に0.12秒の遅延を確認》


指先が止まる。

わずかな沈黙。


(彼らの目からは逃れられない……)


木々の隙間から、東屋でレインを撫でる葵と、それを見守る柊真の姿が見えた。

送るべき情報はすでに揃っている。


「……もう少しだけ」


誰に対する請いか、自分でも分からぬまま詩織は画面を閉じた。


東屋に戻ると、何も変わらぬ穏やかな時間が流れているように見えた。

だが、詩織の肌にはぞわりとした感覚が走っていた。


風の音。葉の揺れ。光の落ち方。

すべてが先ほどと同じはずなのに、世界の輪郭がわずかにズレているような、耐え難い違和感。

誰かに「見られている」という意識は、一度芽生えれば二度と消えることはない。


空を見上げれば、冬の青がどこまでも高く広がっている。

だが、その虚無のような青の中に、確かに「意志」を持った視線が潜んでいることを、今の一行は嫌というほど知っていた。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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