049 腐朽鎖魔候
(およそ4,200文字)
オクルスはカバンを降ろして床に置くと、口の中で小さく文言を繰り返す。
そして、右手を大穴に向けて差し出し、魔眼を使わずとも分かるぐらい、黒い霧のような魔力を放った。
魔力はそのまま大穴の方へと落ちて行く……
(これって、撒き餌?)
エヴァン郷の漁猟、穀物や種子を細かく砕いたものを大人たちが川に撒いて、魚を集めていたことをサニードは思い出した。
オクルスの放つ魔力はゆっくり拡がり、大穴の奥底、深淵のさらに奥深いところへ、見えない“繋がり”を作り出していく──
「……なに? 寒い?」
サニードはブルリと震え、自分の二の腕に鳥肌が立っていることに気付いた。
周囲の空気が変わったのをサニードは体感で察する。吐息が白くなったのを見て、それがただの気の所為などではないのだと知る。
「それに身体がなんか重く感じる……?」
「来ます。くれぐれも恐怖に屈しぬように」
「わ、分かっているけど……え?」
サニードの耳に、ジャラジャラという鉄同士を擦り合わせるような音が聴こえた。
「うっ。これ、何の臭い……」
サニードは強い腐臭を感じて顔を歪ませる。
「……あれ? こんなに暗かったっけ?」
なぜか天窓の方は陽光を浴びて燦々と輝いているのに、その真下にあるはずの大穴の闇がさっきよりも濃く拡がっていた。
やがて、サニードが“闇”だと思っていたものは間違いであったことにようやく気付く。
それは、もうすでに“来ていた”のだ。
「あ……あ……ッ」
暗闇の中から、真ん丸く黄色に輝く双眼が覗く。
「……久しい、空気じゃ」
調子外れのスクラッチ音のような声がした。
闇の中で蠢く“それ”が、前に進み出たことで全貌が明らかとなる。
「フクロウ……? これが悪魔……?」
のっぺりとした、まるでメンフクロウを思わせる白面のような顔が闇から這い出て来た。
ただ大きさが尋常ではなく、その顔だけでもオクルスの身長はある。
「うッ!」
暗闇に目が慣れ始め、フクロウの全身を見たサニードは思わず身構えてしまった。
それは予想していたような鳥類の身体ではなく、翼の代わりに長い腕の持った巨躯であり、肩から太い角が生えており、古めかしい貴族の着るような立派な服を着ていた。それがフクロウの顔とは異様な組み合わせであり、その不気味さに拍車をかけている。
「閣下。ご無沙汰しております」
オクルスが呼びかけると、シャクルモーグはビュイイイというつんざくような咆哮を上げ、たまらずにサニードは耳を押さえた。
「オクルス。もう100年ぐらいは経ったか……」
シャクルモーグは、古時計の振り子のように頭を左右に半回転させる。
「そうですね。閣下におかれましては、御壮健でなりよりです」
「今の余を見て嘲るか? 憎々しきことよ。“蒼き門番”め。蓄えた魔力を端から奪って行きよる」
シャクルモーグは、鋭い鉤爪を上空に向けて指差した。
その時にジャラリという金属音がした。全身に錆びた鎖を纏っているのだとサニードは知る。
「……して、その森人はなんぞや?」
顔を忙しなく動かしていたシャクルモーグは、ピタッと上下反転させた位置に止めて、サニードを見やる。
逆さまになった真っ黒な瞳からは異様さしか感じ取れず、サニードは思わず後ずさる。
「う、ウチは……」
「嗚呼。これは重畳な。“捧げ物”か。人間は随分と食べていないからな」
「え?」
サニードがハッと顔を上げた瞬間、その柱のように太い鉤爪が鼻先まで迫っていた。
ベキャッ! という何かが潰れた音が響いたかと思いきや、サニードはその場に尻もちをつく。
「“贈答品”は私の魔力だけです」
「お、オクルス……」
オクルスは帽子を落し、右腕の先を失っており、サニードを庇うように立っていた。
サニードには何が起きたのか分からなかったが、オクルスが身を挺して庇ってくれたことだけは間違いなかった。
「なんだ? 愛玩で飼っておるのか? 酔狂だな。……なら、利き手でない片腕だけでも構わん」
シャクルモーグが再度腕を伸ばし、オクルスはそれを上手く弾くが、なぜか弾いた箇所とは違うところに傷ができる。攻撃を防御する度に、何かしらのダメージを受けているようだった。
「……はて、身体が鈍る。思うように動かせん」
「それはそうでしょう。私の魔力では実体化するだけでせいぜいのはずです」
「嗚呼。だからこそ、不足分を補わねばならん」
「それは強欲というものですよ。閣下」
それはまるで気軽なお喋りをしている感じだったが、サニードの周囲では嵐のように凄まじい風切音が唸っていた。
「頭を上げないで下さい」
「でも、その怪我!」
サニードが指差すオクルスの片手は、今にも千切れそうなボロ雑巾のようになっていた。
「大したことはありません。再生する暇がないだけです。それよりも怯えないで下さい。貴女が畏れれば畏れるほど、閣下は力を増します」
「わ、分かってるよッ」
「私が今与えた魔力が尽きるまで……。閣下が飽きるまで待ちます」
「飽きるって……」
サニードは、シャクルモーグの瞳を見やる。仮面のような顔に表情はないはずなのに、その目だけは嘲るように彼女を見ていた。
──サニード──
「え?」
どこからか聞いたことのある声がして、サニードはきょとんとする。
「聞いてはいけません」
──サニード──
オクルスの声が遠く、その女性の声の方がはっきりと直接耳元で語っているかのように思われた。
「まさか……母さん!?」
「サニード」
オクルスが振り返るが、サニードは周囲を見回す。
──ああ。私の可愛いサニード──
「母さん!? なんで!! どこに!?」
「サニード」
まるで幼子に戻ったかのように、サニードは辺りを探る。不思議とシャクルモーグの嵐のような攻撃は止んでいた。
「母さん! 生きているの! まさか…」
サニードはハッとして、シャクルモーグを見やる。彼がゆっくりと手招きしているのが目に入った。
「母さ……ん?」
ゆっくり近づいて来るシャクルモーグの服が蠢いていた。彼自身が動いているのではなく、服自体がまるで地中を這う生き物のように蠢いているのだ。
「あ……ああ……」
近付いてようやくサニードは理解した。その服は羊毛や麻布などではなく、“人間の顔”がいくつもつなぎ合わされて仕立て上げられていたのだ。
無数の瞳なき顔が、苦悶と怨嗟の表情を浮かべ、纏わりつく錆びた鎖に強く擦り付けられて、呻き声や啜り泣きによるコーラスを響かせていた。
──母さんはここよ──
その中の顔のひとつが、サニードに語りかける。
「あ、ああ……」
──さあ、おいで。サニード。淋しい思いをさせたわね──
──もう大丈夫。ここは天国よ。みんなと一緒でとーおっても幸せ──
──おいで、おいで。母さんと一緒にいましょう──
甘い囁やきが繰り返される。サニードは何の抵抗もせずに、自然と前の方へ歩き出した。
「母さん……」
サニードの瞳は生気を失い、夢現の状態で、両手をシャクルモーグへと伸ばしてさらに前進する。
シャクルモーグはサニードの目の前で、カパッと大きく口を開いた。
嘴に見えたそれは実は鼻先であり、その下にまるで三日月を思わせる裂けた口が隠れていたのだ。
ズラリと並ぶサメのような歯列が、まるで水車の歯車のように高速回転を始める。
それでもサニードは気にせず、自ら欲するかのように悪意の塊の方へとさらに進んで行く。
オクルスは強く舌打ちした。
「無価値な…」
爪先で床に置いた鞄を蹴り開け、オクルスはその中から1本の試験管を取り出して掲げた。
「嗚於ッ!」
いままさにサニードの頭に喰いつこうとしていたシャクルモーグは、驚きとも感嘆とも取れる声を上げた。
「その娘に手を出すというのならば、取引は不成立です。閣下」
「……あいや、待て。オクルス」
オクルスが指先に軽く力を込めると、管はミシッと嫌な音を立てた。
「……ぬぅ」
シャクルモーグの黒い鼻がピクピクと動き、なんとも名残惜しそうに大穴の方へ数歩退いたかと思いきや、長い指をパチンと鳴らした。
「あ……!」
サニードの瞳に光が戻る。危うく大穴に落ちる寸前で、サニードはペタンと地面に座り込む。
「え? あれ? ウチは……げ! なにこれ! ベチョベチョじゃん! きったない! クサイ!」
我に返ったサニードは、シャクルモーグの零した唾液にまみれていた。
オクルスが近付いて来て、懐からハンカチを差し出す。
「オクルス。母さんが……ウチの母さんが今いたんだよ!」
「幻覚です」
「幻覚……今のが? ウソだ。ウソだよ」
サニードは信じられないと首を横に振る。
「声も姿も……あれはどう見ても母さんで……」
「閣下の特殊能力のひとつです。さっきのは貴女の記憶から作り出した偽物です」
絶望を顔に浮かべ、サニードは項垂れた。
「貴女が恐怖に屈しないと見るや、心の弱みに付け込んだのです」
「そんな……。ひどい!」
サニードが怒りの視線を向けると、シャクルモーグは悪びれた様子もなく、開いていた口を閉じて、とぼけたように頭を左右に振る。
「これで、ようやく話ができますね」
オクルスは失った腕を再生しつつ言う。
「こんなのと取引するだなんて……」
「悪魔との交渉とはこういうものです。惑わされ騙される者が悪い……というのが、彼らのスタンスです」
「ウチは……」
「もし納得できないのならば、私が話を終えるまで外してくださっても結構ですよ」
オクルスは入り口の方を指さす。
こうしている間も、シャクルモーグの視線はオクルスの足元にあるカバンに向けられていた。
「ううん。こんなことで……負けたくない」
サニードはハンカチで顔を拭い、二度と幻術に掛かるまいとシャクルモーグを睨みつけたのであった。
オクルスは頷くと、シャクルモーグへ向き直る。
「それでは改めて仕切り直すとしましょう」




