第48限 妹
大人だけが消えた世界……
……そしてやがて、学園は国家となる
「はっ、はっ……」
木造の旧校舎に一階から侵入した僕は階段を駆け上がる。
だが、妹がいる可能性の高い図書準備室のある四階が見えてきたとき、僕の足音を聞いてか、学生服を着た中学生のフラッドが行く手を塞いだ。僕を視界に捉えたフラッドは『うゔお゛お゛ぉ』と唾を撒き散らしながら叫び、階段から飛び掛ってくる。
「……どぉけぇ!」
僕はパロマにリミッターを解除してもらい、強化した義手で飛び掛ってくるフラッドを殴り飛ばした。フラッドの左頬に右腕の拳をめり込ませ、振り抜き、階段の手すりに奴の顔面を叩きつけてやる。
『ぎぃぎぎぎぎ』
硬い手すりに衝突し、額が陥没し、潰れた眼球から血が流れ、フラッドは藻掻く蟲のように奇妙な声を発し、じたばたと暴れる。
「……邪魔しないでくれ」
僕はそのフラッドの首筋に背後から手を伸ばす。雑に猫を摘まむようにマイクロチップの埋め込まれる首を掴み、そしてぐっと力を込めた。すると義手は、僕に何の抵抗も与えずに、その肉を握り潰して、一緒にマイクロチップも破壊してしまう。
しばらく痙攣して、やがて動かなくなった化け物から手を離すと、その死体は階段を転げ落ちていった。
そして、やっとのことで図書準備室のある四階に辿りつく。階段を登り切ったところにある、見慣れた赤い消火パッケージ。点灯していない非常ランプ。塗装が剥がれて、柱が欠けた廊下に、新校舎へ続く暗い連絡通路。
この階段の登り切りを右に曲がれば、図書準備室だ。
「はぁ……はぁ……」
乱れた呼吸をその扉の前で整え、ネジのはずれ掛かったノブに手を掛けるが……
「あ、あれ」
鍵が掛からないはずの扉が開かない。ドアノブはたしかに回るのに、ドアを押すことができない。
「これは……」
僕の独り言に、パロマが脳内で反応してくれる。
『バリケード……ということではないでしょうか?』
「っていうことは……」
……中に人がいる……!
僕はすぐにドアを叩いた。
「おい! いるのか! なあ、兄ちゃんが来たぞ! もう大丈夫だ! 開けてくれ!」
ドンドン、とドアを拳の底で叩きつける。
「あの化け物はみんな兄ちゃんが倒したから! 大丈夫だからここを開けて!」
……だが、反応がない。
それが僕を焦らせる。
「くそっ! パロマ! 義手のリミッターをもう一度解除してくれ!」
『は、は……?』
「ドアを押し開けるんだよ! 急いでくれ!」
頭を掻きむしって怒鳴ってしまう。それほどに僕の感情は理性を覆っていた。
『か、かしこまりました!』
パロマの返事がしてすぐ、右腕の皮膚の下を走る血管が淡く、青白く光り始め、キイイン、という駆動音が聞こえてくる。
「兄ちゃんが、助けて、やるから」
熱を帯びだした右腕でドアノブを握りしめ、足を踏ん張って、前へ、押す。
「絶対に、助けるから」
ガタガタとドアの向こう側で何かが揺れる音がする。棚のようなものがドアを押さえつけているようだ。
「みんなを守るって、約束した、から」
ズズズ、とドアがゆっくりと押し開かれていく。徐々に開いていく扉。
まず感じたのは、異臭。
そしてある程度の隙間を確保して、僕はそこに体を滑りこませた。
「……ぁ」
部屋を見渡す。
散乱した本や備品、ハエの集ったバケツ。揺れるカーテンと、手跡まみれの窓。
「お、おい」
そして、部屋の端で、壁にもたれ掛かる二人の女の子。
「し、しっかりしろ」
慌てて駆け寄る。片方は、僕の妹だ。
妹の肩を揺すると、触れ合っていたもう一人が、ドサリと倒れてしまう。
「……ぇ」
既に妹の友達は死んでいた。肌色に生気が感じられず、彼女はまるでミイラのようにやつれている。
体育館にいた生徒たちの話によれば、トイレの水が三日ほど前まで飲めていたという。だが、妹たちは違った。あの大人がみんなフラッドになった日から、何日も飲まず食わずだったのだろう。
「お、おい……起きろっ……しっかりしろ!」
だが妹の体にはまだ微かに熱があり、非常に浅いが呼吸もしていた。
肩を優しく揺するが、妹の反応は鈍い。
目も半開きで、光がなく、ものが見えているのかすら怪しい。ひどい疲労状態だ。
まるで絹糸のようだった妹の黒いロングヘアは乱れていて、肌も荒れていて、体が異様に細くなっている。
「……来たぞ……に、兄ちゃんが、来たぞ」
そう声を掛けた。
すると、声を聞き取れはしなかったが、妹の口が微かに動く。
それを僕は見逃さず、耳を妹の口元に近付ける。
口の中に一切の水分のない妹は、掠れた小さな声を発した。
「…………ぉ……にぃ、ちゃん……?」
「そ、そうだ。助けに来たぞ」
妹はもう、口だけしか動かさない。顔を上げることも、目を開けることも動かすことしない。
すでに妹は死んでいて、僕は幻聴を聞いているのではないかとすら思う。
「……く……ぃ……ね……」
何かを言っているが、聞き取れない。
もう一度、妹の口元に耳を寄せる。
「……暗い……ね……。よ、る……?」
「……っ……」
妹の目は、既に光を失っていた。
直感で悟る。妹は助からない。僕が来るのを待っていたのだ、と。
「……そうだ。今、夜なんだよ」
涙を堪えて、僕は妹を抱き寄せた。
「……わたし……また……ぉ、にぃちゃ……の、ベッド……?」
「……あぁ。前は蹴ってごめんな……」
フラッドが現れたあの日の朝も、妹は僕のベッドの中にいつの間にか入り込んでいた。ビックリして僕が妹を蹴ると、怒って弁当抜きにされた。そのことを謝る。
「ぅぅん……。やっぱ……あっ、たかい……ね」
堪えていた涙が、僕の頬を伝う。
「ぉに……ちゃん……」
「どうした?」
「ぁりが……と……」
「……あぁ……」
……やめてくれよ……
妹は、それっきり喋らなくなった。
「……いやだ……起きてくれ……」
返事はない。どれだけ強く抱きしめても、返ってくる力がない。
「ああぁ……」
決壊したダムのように、大粒の涙が僕の目から溢れる。
そして、僕は叫びながら泣いた。喉が痛くなるほどに声を張り上げて泣いた。
この不幸を、どこぞでふんぞり返る神とやらに届けたかったのかもしれない。
◆
「あ、安芸! お主一人……で……」
僕は最愛の妹の亡骸を両腕に抱え、旧校舎を降りていた。
一階まで来ると、山城が数人の仲間を連れてやって来ていた。
「……その子は……」
「……妹だ」
僕は歩みを止めず、山城の横を通り抜ける。
今は誰とも話したくはなかった。
車両のそばまで帰ると、妹を腕に抱えたまま、彼女の体を綺麗に拭き、髪に櫛を通してやる。
こんなに可愛いのに、未来はきっと明るかったはずなのに……。
乱れた制服を伸ばしてやっていると、パサリと妹のポケットから手帳が落ちた。
「……ん?」
それを拾い上げる。
中身は、他愛のないスケジュール帳だった。色んな友達の名前が休日一つ一つに記されていたりして、妹の友達の多さに人柄が窺える。
ふふ、と笑いながらページを捲っているとシャーペンの挟まれたノート部分に辿り着いた。
「……これ」
目を見張った。
「お兄ちゃんへ」と記されていたのだ。
膝の上で眠る妹の顔を見やってから、手帳に目を通す。
「『お兄ちゃんへ。これを読んでるってことは、私、だめになっちゃったのかな』……」
◆
数日前。桐原中学校、旧校舎、図書準備室。
「……安芸さん、なに書いてるの?」
「うん? ちょっとね……」
長い黒髪の少女、安芸の妹と、その友人は図書準備室に立てこもっていた。
安芸の妹は、シャーペンを走らせ、兄へ向けた手紙……遺書を書き記している。だが友人にそう告げては、彼女を不安にさせてしまうので、濁して答えた。
──お兄ちゃんへ。これを読んでるってことは、私、だめになっちゃったかな?
二人は静寂を誤魔化すために話し始めた。
「……安芸さんのお兄さん、カッコいいんだよね?」
「うん。カッコいいよ。たまに蹴られちゃうけどね」
「え? 喧嘩するの?」
「ううん。私がお兄ちゃんのベッドに入り込んでたらね、蹴られちゃったの」
「……一緒に寝てるの?」
「た、たまたまだよ」
「ふーん。仲良いんだ?」
「うん! きっと、助けに来てくれるんなら、お兄ちゃんだよ」
安芸の妹は、今の会話を手紙に記す。
……きっとこれを一番に読んでるの、お兄ちゃんだよね。助けに来てくれたんだ。……ありがとう。
彼女は、自分が死んでしまうことを前提に手紙を残している。それを思うと、涙が出てきて、ポタリと一滴ノートに滲んだ。
……最後の日、私、お兄ちゃんにお弁当作らなかったよね。ごめんね。
それからはこれまでの兄への感謝や謝罪を記す。
……お兄ちゃんのこと優しくて、賢くて、かっこいいって友達に話したら、「お兄さんを紹介して」って言われちゃった。けどお断りしました!(笑) お兄ちゃんは私のだもんね?
そこまで書いて、ポキッとシャーペンの芯が折れた。確認してみると、もう芯の長さがほとんどない。
彼女は筆圧を抑えながら、芯を節約して続きを書く。
……お兄ちゃん、今までありがとうね。私がもし死んじゃってても、自分を責めちゃだめだよ? お兄ちゃんは来てくれた。会いに来てくれた。助けようとしてくれた。私、分かるもん。
それに、きっと今は私だけじゃない……他の誰かも守ってるよね。お兄ちゃんは絶対そう。
その人たちを大切に守ってあげて? お兄ちゃんは、たくさんの人たちに必要とされる人だから!
そしてついに、シャーペンが使い物にならなくなった。換えの芯もない。
「……まだ、全部書けてない……」
彼女は芯の出ないペン先で、余ったノートに大きく文字を書いた。
もちろんそれは、目には、見えない。
◆
「『お兄ちゃんは、たくさんの人たちに必要とされる人だから』……」
妹からの手紙は、そこで終わっていた。
僕は涙を拭い、手帳を閉じようとした。
だが、ノートのページに線状の影が映ったのに気が付く。
「ん?」
真っ白な空白のページだ。
しかしよく見れば、僅かにそのページには跡が残っていた。指で撫でるとページの表面が凹んでいる。
「まさか……」
僕は車の運転席のドリンクホルダーに刺してあった鉛筆を借りて、そのページを優しく塗りつぶす。
妹が付けたであろう空白のページの跡。その部分だけを白く残して、ページが黒くなっていく。
「ぁ……あぁ……」
ページいっぱいのサイズで書かれた、たったの三文字が浮かび上がる。
「……僕も……僕もだよ……」
僕は手帳と妹の体を抱きしめた。
手帳と亡骸が合わされば、妹が意志を取り戻すのではないかと思ったのだ。
浮かび上がったのは、『大好き』という言葉だった。
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