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Detectiveコンヌちゃん  作者: 虎村


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11/12

信者

 田辺翔子が「心の相談室」に初めて訪れたのは、三ヶ月前だった。その日の朝、またトイレで吐いていた。もう、これが日常になってから半年。朝食を食べたら吐く。昼食を食べたら吐く。夜間も同じ。食べることが恐ろしかった。


「また太ってしまう」


 鏡を見ると、体重は変わっていない。むしろ痩せている。だが、脳は「ぶくぶく太っている」と警告を発し続けた。営業職の女性は、見た目が重要だ。クライアントから何度も聞かれた。


「田辺さん、痩せましたね」


 最初はそれが嬉しかった。だが、周りの期待がプレッシャーに変わった。さらに痩せなければならない。もっと綺麗にならなければ。営業成績が落ちたのも、その頃だった。体力が落ちたのだ。低血糖の症状で、午後になると意識が朦朧とする。上司の叱責。


「君は何をやっているんだ。こんなだから、成績が落ちるんだ。本気を出しているのか」


 その言葉が、さらに食べることを禁じた。体調が悪いのは、自分が甘えているせい。もっと気合を入れろ。もっと頑張れ。もっともっともっと。そして、ある日。飲み会で、酔った先輩に絡まれた。


「翔子、お前は綺麗だから、もっと営業に活かせよ」


 その夜、家に帰って、また吐いた。鏡に映った自分は、骸骨のように痩せていた。でも、脳は「まだ足りない」と言った。三日後。勤務中に倒れた。病院での診断は「神経性食欲不振症」。通称、拒食症。医者は、精神科への通院を勧めた。だが精神科なんて。自分は弱い人間ではない。ただ、ちょっと忙しいだけ。ちょっと疲れているだけ。そう思っていた時に看護師が一枚のチラシをくれた。

 

 初回のセミナーは、本当に穏やかだった。講師は、三十代くらいの男性。顔は見えなかった。ローブで覆われていたから。


「皆さんは、何故ここに来たのでしょうか」


 その質問に、参加者たちが答えた。仕事のストレス。人間関係の悩み。将来への不安。


「それらは、すべて『無意味な悩み』なのです」


 講師の声が優しく響いた。


「なぜなら、この宇宙の尺度で見れば皆さんの悩みなど塵に過ぎないから」


 翔子は、その言葉に引かれた。そうだ。自分の拒食症も、営業成績も、この宇宙の中では無意味だ。ならば、悩む必要などない。


「皆さんは、今、真実を知ろうとしています」

「その勇敢さを、私は尊敬します」


 誰もが翔子を見ていない。でも、講師は見ている。その安心感。セミナーの終わりに、講師が言った。


「週に三回、ここに来てください」

「音を聞いてください。光を見てください」

「そうすれば、すべての悩みが消えます」


 翔子は、頷いた。

 

 二週間後。翔子の摂食は止まった。いや、正確には、食べることを考えなくなった。セミナーに通う日以外は、何も考えられなくなった。仕事のこと。体重のこと。そういった悩みが、急速に色褪せていった。


「何か、変だ」


 一度だけ、理性が警告を発した。だが、その警告もすぐに消えた。セミナーでの音。不協和音。だが、何度も聞いていると、美しく聞こえてくる。光。複雑な幾何学模様。だが、何度も見ていると、催眠のようだ。詠唱。何の言語か分からない。だが、意味が脳に直接流れ込んでくる。セミナーの最後に、講師が言った。


「皆さんは、もう特別な存在です」

「真実を知ることができた、選ばれし者です」


 翔子は、その言葉に満足した。自分は、もう駄目なOLではない。自分は、選ばれた者だ。その確信がすべてを支配した。


 三週間後。仕事も、やめてしまった。理由は分からない。ただ、セミナーに行くこと以外、何も大切に思えなくなった。四週間後。翔子の親は、娘が帰らないことに気づいた。警察に捜索願いを出した。だが、翔子は自分から教団に連絡した。


「保護してください」


 教団は、翔子を引き取った。いや、飲み込んだ。その時点で、翔子の自我は三割程度だった。意識はあるが判断力がない。自分が何者かは、まだ覚えていた。だが、それがなぜ大切なのか分からなくなっていた。セミナーでの音と光が、全てだった。それ以外はノイズに過ぎなかった。


 

 鈴木健一は、その時点で破産寸前だった。四六歳。建設業の親方。妻は十年前に癌で亡くなった。娘は今年、私立の中学校に入学した。本当は公立でいいと思っていた。だが娘が望んだ。


「お父さん、私、この学校に行きたい」


 娘の笑顔がすべてを決めた。学費は年間八十万。収入から見ると大きな額だ。だが何とか工面した。しかし建設業は不況だった。去年から仕事が少ない。月々の稼ぎが大きく減った。娘の学費を払うために、健一は借金を重ねた。消費者金融。銀行のローン。気づけば、負債は二百万を超えていた。夜、眠れなくなった。朝、目が覚めると、心臓がバクバク鳴った。


「どうしよう」


 その呟きが日課になった。同じ親方の仲間に相談したこともあった。


「思い切って、娘さんを公立に移したら?」


 だが、できなかった。娘の笑顔を失うことなんて。代わりに健一の笑顔が消えた。妻の形見の写真をも、見なくなった。


「すまない……」


 毎晩、妻に謝った。


「俺は、お前と娘を守れていない……」

 

 その日、クライアントの娘が進学説明会でもらったチラシをクライアント本人が親方に渡してくれた。


「鈴木さん、心配そうだから」


 チラシには、「心の相談室」と書かれていた。健一は、最初、行くつもりはなかった。だが夜に家で過ごすのが苦しかった。借金の督促状が毎日のように届く。娘が学校から帰ってくると健一は無意識に表情を作った。疲れているところを見せたくなかった。その演技が本当に疲れた。ある晩、健一は相談室のドアを叩いた。


 セミナーは、本当に楽だった。講師の言葉は、すべてを解決してくれた。


「皆さんの悩みは、実は存在しません」

「なぜなら、この宇宙の尺度では、借金も、子どもの教育も、すべてが無意味だから」


 無意味。その言葉が、健一に解放感をもたらした。無意味なら。頑張らなくていい。娘のために、必死になる必要もない。すべてが無意味だから。その夜、健一は初めて気持ちよく眠れた。


 二週間後。健一は、仕事を辞めた。親方仲間から、反対された。


「鈴木、何を言ってるんだ」

「娘さんの学費はどうするんだ」

「精神科に行け」


 だが、健一は聞かなかった。自分は、すでに治っている。セミナーのおかげで。音と光で。詠唱で。すべてが、解決した。借金?無意味だ。娘の学費?無意味だ。妻の死?無意味だ。その時、健一の中で何かが死んだ。いや、何かが消えた。名前なら知っている。感情だ。愛情。責任感。後悔。そういったものが、全て消えた。

 

 三週間後。健一は、自分の通帳を全額引き出した。全額、教団に寄付した。理由は、分からなかった。ただ、そうすることが「正しい」と感じた。セミナーでそう言われた気がした。いや、正確には、言われていない。だが、そう感じた。感じるしかなかった。思考を奪われた脳に、できることは感覚に従うことだけだった。


 娘から電話がかかってきた。


「お父さん、学費の振込がまだなんだけど」


 その声に、健一は何も感じなかった。昨日まで、その声を聞くだけで、心臓が痛かった。でも、今は何も感じない。


「そうか」


 そう答えた。それだけ。娘は、何度も呼びかけた。


「お父さん?お父さん?大丈夫?返事して!」


 だが、健一は電話を切った。その後、携帯の電源を切った。すべてが、無意味だから。


 その時点で、健一の自我は、二割程度だった。本人の意識はあるが、判断力はない。自分の娘の顔さえ、思い出そうとしない。思い出そうとする、その努力すら、無意味に感じた。セミナーでの音と光だけが、現実だった。それ以外は、すべて幻想だった。



 佐藤洋子は、静かに死んでいた。六三歳。元小学校教師。夫を五年前に亡くした。病気だった。癌。あっという間だった。入院から、三ヶ月で終わった。その後、洋子は一人になった。子どもたちは、皆、家を出ていた。長男は東京で会社員。長女は大阪で主婦。次男は海外出張中。誰もが、「母さん、大丈夫?」と聞いた。


「大丈夫」


 洋子は答えた。だが嘘だった。毎朝、目を覚ます理由が分からなかった。昼間、何をして過ごすのか分からなかった。夜、眠ることができなかった。五年間、その状態は続いた。


 教え子との再会が、きっかけだった。駅前のカフェで昔の教え子に会った。今、社会人になっていた。彼女は、洋子を見ると目を丸くした。


「洋子先生ですか?」


「ああ、綾部さん」


 教え子は、母親のような人と一緒にいた。


「これは、私の母親です」


 洋子は、失礼ながら驚いた。この女性は、本当に若々しく見えた。六三歳には見えない。いや、教え子も「母親が六三歳?」と聞かれるといつも同じような反応をされるという。


「母は、何か特別なセミナーに通っているんです」


 教え子が言った。その女性は、穏やかに笑っていた。その笑顔に、洋子は惹かれた。


「何か……幸せそう」


 その一言が、すべてを変えた。


「心の相談室」への初訪問。洋子は、正直に話した。


「夫が亡くなってから……何もかも、無意味に思えて」


 講師は、静かに頷いた。


「そうですね。それは自然な反応です」

「人間は孤独に耐える力を持っていないのです」


 その言葉が、洋子の心を掴んだ。


「私……孤独に……耐えきれません」


「承知しています」


 講師の声は、本当に優しかった。


「そこで、我々は、孤独から解放される方法をお教えします」


 セミナーの中での時間は、本当に心地よかった。音が流れた。洋子は、目を閉じた。その音に包まれるだけで、孤独感が薄れていく。光が回転した。その光を見ていると、思考が止まった。思考が止まると苦しみも止まった。詠唱が響いた。その言葉の意味は、分からなかった。だが、その言葉が脳に浸透するたびに、心が静かになっていくのを感じた。セミナーから帰る時、洋子は笑っていた。本当に久しぶりに、笑っていた。


 二週間後。洋子は、毎日セミナーに通うようになっていた。仕事?もうしていない。セミナーの前のアルバイトも辞めた。すべてが、無意味に思えた。セミナー以外は。息子から電話があった。


「母さん、何か変わったことない?」


「大丈夫。いつもと同じ」


 嘘だった。洋子は、完全に変わっていた。だが、その変化に自分でも気づいていなかった。鏡を見ても自分が分からなかった。顔は同じ。だが、目が違った。目の奥には何もない。虚無な瞳。それが自分だ。だが、その虚ろさが心地よかった。


 四週間後。洋子は、手放していた。すべてを。夫の思い出。子どもたちへの愛情。自分が誰かということ。セミナーでの音と光だけが、現実だった。その時点で、洋子の自我は、一割程度だった。本人の意識さえ、かなり朦朧としていた。だが、セミナーのドアが開くたびに、体が勝手に反応した。音が。光が。詠唱が。それだけが、必要だった。それ以外は、すべて無意味だった。本当に、すべてが。

摂食障害について悩んでいる方は、摂食障害の支援団体や医療機関への相談をお勧めします。

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