虎村ときや
虎村ときやとコンヌが初めて出会ったのは、小学校一年生の春だった。引っ越してきたばかりのときやはクラスで一人、ぽつんと座っていた。人見知りで、誰にも話しかけられない。
「ねぇ、一緒に遊ぼ!」
明るい声が響いた。振り返ると、黒髪の女の子が笑っていた。
「私、稲荷コンヌ!よろしくね!」
「あ、僕、虎村ときや」
「ときやくんだね!じゃあ、一緒に帰ろ!」
コンヌは、ときやの手を掴んで走り出した。それが、二人の始まりだった。
コンヌの家に遊びに行った時、ときやは初めて「探偵」を見た。
「ただいまー!」
コンヌが玄関を開けると、奥から男性が出てきた。
「おかえり、コンヌ。お友達?」
「うん!ときやくん!」
男性は、ときやに優しく微笑んだ。
「初めまして。コンヌの父、亥原正義です」
「は、初めまして」
ときやは緊張しながら頭を下げた。亥原は、穏やかな目をしていた。だが、その目の奥には、鋭い光があった。
「探偵、やってるんだ」
「たんてい?」
「そう。困っている人を助ける仕事だよ」
ときやの目が輝いた。
「かっこいい」
「でしょ!パパ、超かっこいいんだよ!」
コンヌが胸を張った。それから、ときやはよくコンヌの家に遊びに行った。そして、亥原探偵の話を聞いた。
「探偵はね、推理力だけじゃダメなんだ」
亥原は、二人に教えてくれた。
「身を守る力も必要。それと」
亥原は優しく笑った。
「困っている人の気持ちを理解する力が一番大事だ」
「きもちを、りかいする?」
「そう。どうして困っているのか。何が辛いのか」
亥原は、ときやの頭を撫でた。
「それが分かれば、助ける方法も見えてくる」
ときやは、その言葉を胸に刻んだ。
十年前。高校三年生の冬。亥原探偵が、消えた。
「お父さんがいなくなっちゃった」
コンヌの泣き声が、電話越しに聞こえた。ときやは、すぐにコンヌの家へ走った。コンヌは玄関で泣き崩れていた。
「父さんが、帰ってこない」
「昨日の夜、出かけたきり」
ときやは、コンヌを抱きしめた。
「大丈夫。きっと帰ってくるよ」
だが亥原探偵は、帰ってこなかった。一週間。一ヶ月。半年。警察も捜索したが手がかりは何もなかった。まるで消えてしまったかのように。コンヌは変わった。明るかった少女が影を纏うようになった。ときやはコンヌを支え続けた。学校でも。放課後も。いつも、隣にいた。
「ときやくん、ありがとう」
ある日、コンヌが小さく言った。
「ときやくんがいてくれるから、私、頑張れる」
「当たり前だよ」
ときやは微笑んだ。
「僕たち幼馴染だもん」
だがその一年後。今度は、ときやが喪失を経験した。姉、虎村詩織の自殺。葬儀の日、ときやは茫然自失だった。姉がなぜ死んだのか。理解できなかった。
「詩織さん、いつも明るかったのにね」
参列者の声が、耳に入らない。その時――
「ときやくん」
コンヌが、隣に立っていた。何も言わずときやの手を握った。温かかった。その温もりで、ときやは泣くことができた。
「姉さん……」
「どうして……」
声を上げて泣いた。コンヌは、ずっと手を握っていてくれた。
葬儀の後、ときやは姉の部屋を片付けた。そこで、日記を見つけた。
『もう、疲れた』
『笑顔を作るのに、疲れた』
ページをめくるたびに、姉の苦しみが伝わってきた。
『誰かに話したい。でも、心配かけたくない』
ときやは、日記を握りしめた。
「僕が気づいてあげられれば」
その時、ドアをノックする音がした。
「ときやくん、入っていい?」
コンヌが、顔を出した。
「うん」
コンヌは部屋に入り、ときやの隣に座った。
「日記、読んだんだ」
「ああ」
ときやは、涙を拭った。
「姉さん、ずっと苦しんでたんだ。でも、僕は気づけなかった」
「ときやくんのせいじゃないよ」
コンヌは、真剣な目で言った。
「詩織さんは、ときやくんに心配かけたくなかったんだよ」
「でも」
「でも、悔しいよね」
コンヌは、ときやの手を握った。
「私も、そう。父さんが消える前、何か気づけたんじゃないかって」
二人は、しばらく無言で座っていた。同じ喪失を経験した、二人。
「ときやくん」
コンヌが口を開いた。
「私、決めたんだ。探偵になるって」
「探偵?」
「うん。父さんを探すために。そして」
コンヌは空を見上げた。
「父さんみたいに、困っている人を助けたい」
ときやは、コンヌを見た。その横顔は、決意に満ちていた。そしてときやも、決めた。
「僕は、医者になる」
「医者?」
「うん。精神科医」
ときやは、姉の日記を見た。
「心の病気を治したい。姉さんみたいに苦しんでいる人を助けたい」
「ときやくん」
「それに」
ときやはコンヌを見た。
「コンヌちゃんが探偵やるなら、僕が支える」
「え?」
「医学の知識があれば、調査に役立つかもしれない。それに」
ときやは微笑んだ。
「幼馴染だもん。コンヌちゃんを守りたいんだ」
コンヌの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう。ときやくん」
二人は、抱き合った。喪失を経験した二人が、お互いを支え合う。それが、二人の新しい関係だった。
高校卒業後、二人は別々の道を歩んだ。ときやは医学部へ。コンヌは探偵学校へ。大学時代、二人は時々連絡を取り合った。
「ときやくん、勉強大変?」
「うん、でも頑張ってるよ。コンヌちゃんは?」
「探偵の勉強、面白い!でも、父さんの手がかりは、まだ」
コンヌの声が、電話越しに沈んだ。
「大丈夫。絶対に見つかるよ」
「うん。ありがとう」
だが、大学四年の頃から、連絡が途絶えた。ときやは実習と勉強が忙しく、コンヌも探偵として活動を始めた。お互い、連絡したかった。だが躊躇した。ときやは思っていた。
(コンヌちゃんは、今、頑張っている)
(邪魔をしたくない)
コンヌも思っていた。
(ときやくんは、医学生として忙しい)
(迷惑かけたくない)
すれ違い。八年間、二人は会わなかった。
研修医二年目の春。ときやは、一人の患者を担当した。高橋健太。二十八歳。会社員。うつ病と診断されていた。
「先生、僕、もうダメなんです」
高橋は、虚ろな目で言った。
「何をやっても、上手くいかない」
「会社でも、家でも、誰も僕を必要としていない」
「そんなことはありません」
ときやは、穏やかに答えた。
「高橋さんはちゃんと価値がある人です。今は辛いかもしれませんが、必ず良くなります」
だが高橋は首を振った。
「先生は、優しいですね。でも分からないんです。この底なしの絶望が。世界が怖くて仕方がないんです。」
ときやは、何度も高橋と面談した。薬の処方を調整し、カウンセリングを続けた。しかしある日、高橋は病院に来なくなった。そして、一週間後。高橋の訃報が届いた。
「自殺だそうです」
看護師が静かに告げた。ときやは何も言えなかった。ただ、拳を握りしめた。
「僕が、僕が、もっと何かできていれば――」
上級医が、ときやの肩を叩いた。
「君のせいじゃない」
「精神科医は、すべての患者を救えるわけじゃない」
「それを、受け入れるしかない」
だが、ときやは受け入れられなかった。高橋の顔が、脳裏に焼き付いた。そして姉の顔と重なった。
「また、また、救えなかった」
それから、ときやは悩んだ。このまま精神科医を続けていいのか。患者を救えない時自分の無力さに打ちのめされる。言葉だけでは、届かない。
「何か他に、方法はないのか」
そう考えていた時、病院の同僚に誘われた。
「ときや、柔術やってみないか?」
「柔術?」
「ああ。護身術にもなるし、精神的にも鍛えられる」
「患者が暴れた時にも抑えられる」
ときやは、半信半疑で道場を訪れた。そしてそこで学んだことが、彼を変えた。柔術は、力ではなく技術だった。相手の力を利用し、最小限の力で制圧する。相手を傷つけず、自分も傷つかない。
「これだ」
ときやは直感した。
「言葉で届かない時、身体で守る。暴力ではなく、技術で」
それから、ときやは週三回、道場に通った。医師としての仕事と並行して、柔術を学び続けた。そして、ある日。病院で患者が暴れた。統合失調症の男性患者。幻覚や妄想に苦しみ看護師に掴みかかった。
「お前らが俺を監視しているんだ!食べ物にも毒を盛ったのは分かってるんだ!」
看護師が悲鳴を上げる。ときやは躊躇せず間に入った。
「落ち着いてください」
穏やかな声。だが身体は既に動いていた。患者の腕を取り、関節を決める。痛くない程度に。だが動けないように。
「大丈夫です。誰もあなたを傷つけません」
ときやは、患者の耳元で囁いた。
「安心してください。僕が守ります」
患者の身体から、力が抜けた。
「先生。ごめん、なさい」
患者は泣き始めた。ときやは、優しく抱きしめた。
「大丈夫です。もう、大丈夫」
その瞬間、ときやは理解した。言葉だけじゃない。身体でも、心を守れる。
そして、半年前。ときやは偶然コンヌを見かけた。病院近くのカフェ。窓際の席に、見覚えのある後ろ姿。机には、大量の資料とノート。
(まさか)
ときやは、心臓が高鳴った。女性が顔を上げた瞬間――
(コンヌちゃん!)
だが、その顔には、深いクマがあった。痩せている。疲労困憊している。ときやは、躊躇なく声をかけた。
「コンヌちゃん?」
女性が振り返った。そして目を見開いた。
「ときや、きゅん!?」
「久しぶり」
ときやは微笑んだ。コンヌは、一瞬呆然としていたが、すぐに笑顔になった。
「ときやくん!本当に!?」
「うん。五年ぶり?」
「そうだ!もう、なんで連絡くれなかったの!」
コンヌは涙目だった。
「ごめん。コンヌちゃんが忙しいかなって」
「私もそう思ってた!」
二人は笑った。そして再会を喜んだ。
「探偵、やってるんだ」
「うん。でも、全然うまくいかなくて」
コンヌは、苦笑した。
「父さんの手がかりも、まだ見つからない」
ときやは、コンヌの手を握った。
「大丈夫。今度は、僕も手伝うよ」
「え?」
「幼馴染だもん。一緒に探そう」
コンヌの目から、涙が溢れた。
「ときやくん」
「それに」
ときやは真剣な目で言った。
「コンヌちゃん、無理してるでしょ」
「え」
「分かるよ。昔から、コンヌちゃんは無理しがちだから」
ときやは、コンヌの頬に触れた。
「一人で抱え込まないで。僕がいるから」
コンヌは、声を上げて泣いた。
「ずっとずっと、辛かった。一人で、頑張るの、疲れた」
「もう大丈夫」
ときやは、コンヌを抱きしめた。
「これからは、二人で頑張ろう」
「うん」
それが、二人の再出発だった。
それから、ときやはコンヌの助手として調査を手伝った。幼馴染だから、当然だと思っていた。だが気づけば、感情が変わっていた。コンヌの笑顔を見ると、胸が温かくなる。コンヌが悲しむと、自分も苦しい。コンヌが危険に晒されると、身体が勝手に動く。
(これは)
ときやは、自分の感情に戸惑った。
(幼馴染としてじゃない)
(もっと、別の)
だが、その感情を認めることが、怖かった。姉を救えなかった。患者も、救えなかった。そんな自分に、コンヌを守る資格があるのか。もし、また失敗したら。
「ときやくん?」
コンヌの声で、我に返った。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫?疲れてる?」
コンヌが心配そうに覗き込む。その顔が、近い。
「だ、大丈夫」
ときやは顔を背けた。
コンヌは、少し寂しそうな顔をした。
「そっか」
その表情を見て、ときやは後悔した。
(コンヌちゃんを、傷つけてる――)
そして古鷹からの依頼。500万円の前金。危険な匂い。コンヌは迷っていた。
「父さんが、生きているかもしれない」
その言葉を聞いて、ときやは決めた。
「一緒に行こう」
「でも、危ないよ」
「構わない」
ときやは、コンヌの両肩を掴んだ。
「コンヌちゃん。僕は」
言いかけて、止めた。
(今じゃない)
「僕は、君を守る。絶対に」
それは、幼馴染としての言葉だった。
だが心の中では、違う言葉が渦巻いていた。
(好きだ)
(ずっと、好きだった)
(気づかなかったけど、昔から――)




