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第1話

 1934年3月 東京の下町。

 都心部の洋風な建物はほとんどなく、江戸時代の面影がまだ残っている。人が通るのがやっとの路地裏。両端には長屋があり、そこに住む人の生活音が聞こえてくる。

 時刻は夜の6時。夕食の準備をしている住人が多い中、学生服を着て布団の上で腕立てをする青年がいた。

「次こそは絶対受かってやる!」

 彼の名は世輪(せわ) 恒一(つねかず)》。

 陸軍士官学校入学を目指しているものである。

 鳥取の実家からはるばる東京の士官学校を受験するも失敗。それでも夢を捨てきることができず、親を説得し上京してきた。

 士官学校に落ちた理由は「体力不足」。

 そのため彼は、上京してから生活のほぼすべてを鍛錬に注いでいる。それほど体力不足という現状が身に染みているのだろう。

 そんな彼には不思議な同居人がいる。

 白色の毛皮で狩衣を着た狐である。なぜか流暢に日本語をしゃべり、二足歩行で生活をしている。そして、最も不思議なことが「大半の人には彼が見えないこと」と「飲食をしないこと」である。彼曰く「自分は守り神だから」とのこと。恒一が生まれる前から世輪家に住み着いており、恒一も彼についてはよくわかっていないとのこと。

 布団の上で腕立てをする恒一を見ながら、狐は寝転がりながら彼に話しかける。


「ツネ、あんまり無理すんなよ。やりすぎて体壊したら元も子もねぇぞ」


「うるさい!俺は1年後に向けて鍛えておかなければならないんだ!」


 その言葉を聞き、狐はため息をつき天井を見上げる。周りの部屋は団らんの声で包まれる中、恒一の部屋からは恒一の自身を追い込む声で包まれていた。

 しばらくして、恒一は立ち上がり、台所にある鍵を手に持ち玄関に向かう。


「走りに行くのか?」


「ああ、行ってくる。」


 そういって恒一は部屋を後にした。

 狐はあくびをしてまた寝転がろうとした。

 その時、長屋の窓に変な紙がへばりついた。狐は窓に向かい、張り付いた紙を手に取る。紙を見て、狐は笑みを浮かべてつぶやいた。


「頑張るか」



◇◇◇



 恒一が走る道は決まっている。下町の細い道を潜り抜け、路面電車が走る街を走り抜ける。日は沈みかけており、仕事を終えた人が居酒屋に入ったり屋台で晩御飯を買ったりしている。そんなものには目もくれず、人をよけながら走る恒一。呼吸を乱さず、速度を一定に保ちながら駆け抜ける。

 街の中を走っているときは問題ない。街を大きく回り、下町に戻ろうとしたときが問題だ。

 これまで走ってきた疲労が一気に押し寄せてくる。筋肉は悲鳴を上げ、呼吸も一気に乱れてくる。

 だが、今回は今までとは違う。もう街の4分の3を走っているが、今までとは異なり足は重くない。これが帰るまで続いてほしい恒一はそう思いながら街を走る。

 街を抜け、下町の細い道まで戻ってきた。日はすっかり沈んでおり、長屋の明かりでかろうじて見えるほどだった。

 足は重くなっているが呼吸はあまり乱れていない。あと半里ほど。

 このままでいてくれと思った、その時だった。

 背後から何かが迫ってくるのを感じた。逃げようとするも、走っていた疲労で速度が上げられない。恒一は背後を見る。

 こちらを向いているはずなのに、顔の位置だけが空洞のように曖昧で、視線を感じるのに目が見つからない。首から下も夜と同化しており、長屋からあふれる明かりでも何を着ているのか判別できなかった。

 黒い者が目の前まで迫っている。

 引き離せない。

 恒一は覚悟を決め、目を瞑った。黒い者は包丁を取り出し、恒一の胸あたりに向かって突き刺そうとした。刃は…胸の前で止まった。

 黒い者は包丁を持っている右腕に目を向ける。目の前には、自身の手首を覆う白い毛皮の手が映った。


「俺のツネを、傷付けるのをやめていただきたい。」


 白色の毛皮で狩衣を着た狐は黒い者に鋭い視線を送った



◇◇◇



 黒い者は狐の手を振りほどき、恒一から距離をとる。

 それを感じた恒一はゆっくりと目を開けた。そこには、これまで一緒にいてくれた狐が目に入った。


「助けて…くれたのか?」


 息切れしながら話しかける恒一に狐は答える。


「それが、俺の役割だからな」


 狐はそう言い、恒一を長屋の壁に寄せる。


「ここからは俺の役割だ。お前は休んでろ。」


 狐はそう言い、恒一のそばを後にし、黒い者に視線を向けた。


「待たせて悪かったね。始めようか。」

 そういうと、狐は狩衣からお札ほどの大きさの紙を数枚ほど取り出す。紙には墨で謎の文様が書かれていた。


式能解放シキノウカイホウ


 狐がそう言うと、手に持っている紙から紫炎が現れた。

 紫炎は空中で形状を変えていき、8つの蛇の姿となる。


火炎術カエンジュツ 八岐炎ヤマタノホムラ


 狐の声と共に、8つの蛇が黒い者に向かって突進していった。

 黒い者は、蛇の向かってくる速さを冷静に見極め、蛇の間を潜り抜けながら間合いを詰めていく。8つの蛇をかわし抜け、蛇の発生源にたどり着く。

 だが、そこに狐の姿はみえない。地面に炭となった紙が残っているだけだった。黒い者は背後を見る。


「警戒せずに近づいてくれてありがとう!!」


 黒い者の背後にまわった狐は、右手に持つ小刀を黒い者に向かって力いっぱいふるった。

 黒い者は、右腕で小刀を受け止める。


「硬いねぇ。手ごたえが刀を交えて時みたいな感じだよ。」


 狐は黒い者に向かって言ったが、黒い者は何も返さない。

 黒い者は小刀を振り払い、狐と距離をとる。距離をとったのを確認した狐は懐から紙を1枚取り出す。

 紙は金色に光り形状を変えていき、それが紙を持っていた右手を包んでいく。右腕の光が収まったとき、狐の右手は鋭い鉄の爪をまとっていた。

 狐は一気に黒い者に向かって間合いをつめ、右手の爪を振り上げる。

 黒い者は体をそらし、回避する。

 それを待っていたといわんばかりに狐は左腕に紫炎を宿す。


「火炎術 殴炎オウエン


 黒い者はそれを両手で受け止める。

 受け止めた両手が紫炎に包まれた。

 黒い者は両手が燃えながらも狐の左拳をはじく。

 体勢を整えた狐は黒い者に目を向ける。

 黒い者の両手は、炭と化していなかった。

 狐は額の汗をぬぐい、右手の爪を構えた。



◇◇◇



 長屋の壁にもたれていた恒一は狐と黒い者の攻防を見ていることしかできなかった。

 普段自分の守り神を自称する存在が、今自分を守るために戦っている。そして守り神が不思議な術を使う。それと自分を襲ってきた存在が互角に戦っている。

 今起きていることを飲み込むことが制一杯だった。

 声をかけようにも走っていた時の疲労が響き、声もうまく出せない。軍人となり祖国を守るために戦うことを目指す自分が、身内一人守れない現状に無性に腹が立ってくる。


 狐と黒い者との攻防は一進一退だった。

 狐の攻撃を黒い者がかわし、黒い者の攻撃を狐が鉄の爪で受け止める。

 黒い者の攻撃を鉄の爪で受けるたびに爪から鈍い音が響く。狐は鉄の爪の状態を察し、左腕で紫炎を放つ。黒い者はそれをよけ、狐の眼前に迫る。

 狐はにやりと笑い、鉄の爪を黒い者に向かって一気に振り下ろす。黒い者の頭に鉄の爪が当たる。


「勝っ…!!!!」


 鉄の爪は黒い者の頭上で砕け散った。


「しまっ!!」


 狐は懐にある紙を手に持ったその時、黒い者の拳が狐の腹部に直撃した。

 腹部から肉がはじける音がし、狩衣を赤黒く染めた。

「守り神様ぁぁぁぁ!!!!」

 恒一の叫びが下町全体を響かせた。



◇◇◇



 恒一は狐の元へ駆け寄る。

 自分を襲ってきたものなどどうでもいい。いまはとにかく、守り神様を助けなければ。

 恒一は狐のそばに座りこんだ。狐の腹部はえぐられており、狩衣の赤黒が胸あたりまで迫っていた。狐の体から無数の光があふれだしており、徐々に色も薄くなっていった。


「なぁ…ツネ。」


 狐は震え声で恒一に話しかける。恒一は目を赤くしながら守り神の左手を両手で持った。


「ツネの…夢って…なんだっけ…?」


 ツネは涙をこらえながら守り神に答えた。


「立派な軍人になって…祖国に住む人々を守ること!」


 それを聞いた守り神は笑みを浮かべて語りかけた。


「その志を…忘れ…なよ」


 そういうと、守り神は震える手を狩衣の懐に入れ、戦闘で使った紙を取り出す。

 取り出した紙は、赤黒く濡れていた。守り神はそれを恒一の胸にあてた。


「式能…解放!」


 紙は虹色に光りだし、その光は恒一の胸に吸い込まれていく。

 守り神は全身が光に包まれながら恒一に言った。


「頑張れよ」


 守り神は光に包まれ、狩衣を残して消えてしまった。恒一は手を下ろし、赤黒く染まった狩衣に手を添えた。


「頑張ります。あなたが誇れるような軍人になれるよう。」


 その時、恒一の首に強い衝撃が走った。

 恒一の視界は徐々に暗くなっていき、全身の力が抜けていく。恒一は、守り神の狩衣の上に倒れこんでしまった。

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