第9話 俺だから、目指す
レッドは、その場にしゃがみ込み、何も言わず鶴見の隣に寄り添った。
一言で癒せるような感情ではない。
それくらい、鶴見の悲しみは深かった。
静寂。
夕風が二人の間を通り抜ける中、レッドはゆっくりと膝を折り、鶴見の肩に手を置いた。
「……記憶の中の赤城零は……お前のことを“最高の友達”だと思ってた」
鶴見の肩が、わずかに揺れる。
「今も……どこかで、お前のことを思っている。きっと」
鶴見が顔を上げる。
その瞳にはまだ涙が滲んでいた。
それでも、少しずつ静けさを取り戻しつつあった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、レッドは小さく息を吐く。
「……赤城零は、今も……どこかにいるはずだ」
鶴見の目が見開かれる。
「……は? どういう意味だよ、それ……」
レッドは、しばらく言葉を選ぶように口を閉ざした。
そして、ゆっくりと続ける。
「俺には、全部の記憶がある。プレーの仕方も、世界の景色も……」
一度、言葉を切る。
「だけど、気づいたとき、俺はこの身体にいた」
レッドは、自分の手を見つめた。
「……つまり、入れ替わったんだ。“俺”と“赤城”が」
鶴見は言葉を失ったまま、黙って聞いていた。
「だから、俺が見ているのは“赤城の外見”の中身。でも――」
レッドは、ゆっくりと顔を上げる。
「中身の赤城零は、俺の身体の中にいるかもしれない」
「……」
「それがどういう意味を持つのか、俺にもまだ……分からないけど」
風が吹き抜ける。
沈黙が、二人の間を静かに撫でていった。
レッドは、鶴見の目をまっすぐに見た。
「俺は、赤城が消えたなんて思ってない」
その声には、確かな意志があった。
「どこかにいる。そして、またサッカーを……“このピッチ”に戻ってくる」
鶴見は目を見開いたまま、拳を握った。
「……なんだよ、それ……わけわかんねえよ……」
それでも――。
目元には、もう涙はなかった。
「でも……そう信じてくれるなら……俺も、信じるよ」
鶴見は、まっすぐにレッドを見る。
「また零が、ここに戻ってくるって」
レッドは、静かに頷いた。
それは、クリス・レッドとしての頷きではない。
――赤城零として、再び“仲間”を迎えに行く者の頷きだった。
そして、言葉を絞り出すように、静かに語り始める。
「……けど、それを確かめるには――」
レッドは泥のついた拳を見下ろし、ぎゅっと握り締めた。
「俺が、この体で、もう一度“プロ”になるしかないんだ」
拳に力が入る。
「この体で、赤城零として、頂点まで行ってみせる」
そして、まっすぐに前を見据えた。
「それでようやく、あいつがどこに行ったのか、本当の意味で分かる気がする」
鶴見は目を見開いたまま、息を呑んだ。
レッドは、そのまま前を見つめる。
「だからこそ――まずはこの高校で勝ち続ける」
その声は、静かだった。
だが、揺るがない。
「全国に行って、全部勝って、この名前で、もう一度世界に行く」
一歩ずつ。
赤城零として。
「その先に、きっと……“答え”がある」
レッドは、静かに拳を握る。
「そう信じてる」
雨の音だけが残されたグラウンドに、その言葉が静かに、そして強く響いていた。
「……鶴見。お前はどうするんだ?」
唐突な問いかけだった。
だが、その目は真剣だった。
冗談でも、慰めでもない。
――本気で聞いている目だった。
鶴見は、一瞬言葉に詰まる。
「俺……?」
乾いた笑いが漏れた。
「……無理に決まってんだろ。俺は三軍だぞ?」
うつむいたまま、足元を見つめる。
「プロとか……レベルが違いすぎる」
鶴見の声は、少しずつ小さくなっていく。
「夢見てたことくらいあるけど……現実は、全然追いつかねぇよ」
その言葉の一つ一つが、絞り出すように重かった。
怒っているわけじゃない。
ただ、自分の限界を知ってしまった人間の言葉だった。
鶴見の肩が、濡れたジャージ越しに震えている。
「……無理なんだよ」
拳を握る。
「俺はこの高校ですら三軍だぞ? 補欠の補欠。プロなんて……そんなの、選ばれたやつだけの世界だろ……」
その声には、怒りもなければ、嘘もなかった。
ただ、純粋な現実と諦めがあった。
レッドは、そんな鶴見の顔を静かに見つめる。
そして、言葉を選ばず、まっすぐに告げた。
「鶴見――お前、サッカーが好きなんだろ」
鶴見が顔を上げる。
その目は濡れていた。
だが、反論するだけの気力は残っていなかった。
「赤城に、もう一度会いたいんだろ?」
その一言に、鶴見の目が大きく揺れた。
「なら――お前のやることは、もう決まってんだろ」
静かで、けれど揺るがない声だった。
「“プロになれない”と思ってるやつが、なれるわけがない」
レッドは、鶴見をまっすぐ見つめる。
「逆に、“なってやる”と信じ抜いたやつだけが、そこに立てる」
そして、自分の胸に手を当てた。
「……俺は、そういう気持ちでプロになった」
雨の音が、静かに周囲を包み込む。
レッドは、さらに続けた。
「赤城の記憶の中で、お前は――どんなときも、最後までボールを追ってた」
「誰よりも声を出してた」
「そういうやつが、“無理だ”なんて言葉で自分の可能性を消していいのか?」
鶴見は拳を握った。
震える唇から、何も言葉が出てこない。
やがて――。
鶴見は、小さく笑った。
だが、それは皮肉の笑いだった。
「……それでも、俺は三軍だよ」
「どれだけ努力しても、周りと差がある」
「いくら好きでも、追いつかない現実ってのがあるんだよ」
雨の止んだ空に、少しだけ陽が差し始める。
レッドは、空を見上げなかった。
ただ、鶴見だけをまっすぐに見つめていた。
「……それでも、お前はサッカーを続けてる」
「好きだから、だろ?」
「負けたって、腐ったって、まだボールを蹴ってる」
レッドの声が、少しずつ強くなる。
「だったら――なんで“プロを目指さない理由”があるんだよ?」
鶴見は、言葉を失ったように黙り込んだ。
それでも、その瞳には確かに揺れるものがあった。
「俺なんてさ……」
かすかな声が漏れる。
その瞬間――。
レッドの声が、静かに、だが鋼のように響いた。
「“俺なんて”で生きるくらいなら――」
一拍。
「“俺だから”で生きろ」
鶴見の目が見開かれる。
レッドは、まっすぐに続けた。
「俺だから、鶴見だから目指すんだ」
その言葉は、鶴見の胸を貫いた。
まるで、雷に打たれたような衝撃だった。
赤城――いや。
世界を知る“クリス・レッド”の言葉だった。
それは、技術でも才能でもない。
――“覚悟”という名の、最も強い力だった。
レッドは、少しだけ笑った。
「自分を信じないやつが、ピッチで何を信じる?」
「ボールか?」
「仲間か?」
「未来か?」
一つずつ、問いかける。
そして――。
「全部、まず“自分”からだろ」
レッドは、鶴見をまっすぐ見つめた。
「“俺だから、やる”――その一歩を、お前が踏み出せ」
鶴見は、その言葉を胸に抱いたまま――。
何も言わず、ただ静かに拳を握った。
しばらくの沈黙が流れた。
雨は完全に止んでいた。
空はまだ灰色だった。
それでも、ほんのりと光が差している。
その光に照らされるように――。
鶴見の唇が、わずかに動いた。
「……プロになる」
声は震えていた。
けれど、その震えは涙のせいじゃなかった。
決意という名の刃が、胸の奥からこみ上げていた。
「俺は、プロになる。……必ずだ」
鶴見は、拳を握りしめる。
「……そのために、まずはこの高校の一軍になる」
「誰よりも努力して、誰よりも泥をかぶって――このチームで、全国を制覇する」
涙が、とめどなく溢れた。
膝が崩れ、地面に手をつく。
「……そしていつか、零にもう一度会う」
「“俺自身としてここまで来た”って、胸張って言ってやるんだ」
嗚咽混じりの声。
泥の地面に拳を打ちつけながら、それでも顔を上げていた。
レッドは、その姿を黙って見つめていた。
そして、ゆっくりと鶴見の前に膝をつく。
「……よく言ったな、鶴見」
鶴見が顔を上げる。
赤城の瞳は、どこまでもまっすぐで、どこまでも優しかった。
「やっぱ、お前――強えよ」
その言葉と共に、差し出された手。
鶴見は、少しの間だけ躊躇した。
だが、すぐにその手を強く握り返した。
泥だらけの二人の手が、しっかりと交差する。
それは、かつて“赤城零”と“鶴見銀次”が交わした、何百回もグラウンドの片隅で繰り返した――。
“友情と約束”の握手だった。
夕暮れの光が、静かに二人の背中を照らしていた。




