第8話 お前は誰だ
静まり返った校舎の隅。
さっきまでの騒動が嘘のように、ただ夕方の風だけが吹いていた。
鶴見銀次は、じっと赤城零を見つめていた。
拳を握りしめたまま、唇がわずかに震えている。
「なあ、はっきり聞く」
鶴見の声は低かった。
「お前……誰なんだよ?」
赤城は、少し目を伏せた。
逃げることも、誤魔化すこともできない。
そう分かっていた。
赤城は、深く息を吐く。
「……変なことを言うかもしれない。でも、正直に話す」
鶴見が息を呑む。
赤城はゆっくりと視線を上げ、まっすぐに鶴見を見た。
「俺は、元々サッカー選手だった」
「……は?」
「目が覚めたら、この身体になっていた。気づいた時には、赤城零という名前でここにいて、周りも俺のことをそう呼んでいた」
鶴見の眉が寄る。
「そんなわけ……」
言いかけて、言葉が止まった。
否定したかった。
馬鹿なことを言うなと、笑い飛ばしたかった。
でも、できなかった。
さっきまでのプレー。
あの動き。
あの判断。
戦いの中で見せた覚悟。
そして何より――。
目の前にいる赤城の目。
それは、鶴見の知っている赤城零とは、あまりにも違っていた。
「……信じられねぇよ」
鶴見は、呆然と呟いた。
「でも……全部、つながっちまう……」
風が、校舎の隅を抜けていく。
鶴見は、震える声で聞いた。
「じゃあ、本物の零は……どこにいるんだよ」
赤城は、すぐには答えられなかった。
そして、静かに首を横に振る。
「……分からない」
鶴見の目が揺れる。
赤城は、苦しそうに続けた。
「俺にも、それだけは本当に分からないんだ」
鶴見は、その場に膝をついた。
拳を震わせながら、うつむく。
「……ふざけんなよ」
声が震えていた。
「俺、ずっと一緒にいたんだぞ」
赤城は、何も言わない。
鶴見の言葉だけが、夕方の空気にこぼれていく。
「あいつが走れない時も、泣きそうな時も、見てきた。バカにされて、悔しくて、それでもサッカーやめなくて……」
鶴見は、歯を食いしばる。
「上手くなかったよ。才能なんてなかった。すぐ落ち込むし、すぐ無理だって顔するし」
そこで、声が詰まった。
「でも、ボールに向かう時だけは、誰よりもまっすぐだったんだよ……」
赤城は黙って、その言葉を受け止めていた。
鶴見にとっての赤城零。
下手でも、弱くても、それでも一緒に走ってきた友達。
その存在を、自分が奪ったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
「それなのに……」
鶴見は顔を上げた。
目は真っ赤だった。
「気づいたらいないって、なんだよ……」
赤城は、何も言えなかった。
「納得できるわけねぇだろ……」
鶴見の表情が歪む。
怒り。
悲しみ。
戸惑い。
すべてが混ざっていた。
「お前が悪いわけじゃないって、分かってる」
鶴見は、震える声で言う。
「あんなプレー見せられたら、普通じゃないってことも分かる。お前が嘘ついてるわけじゃないってことも……多分、分かる」
それでも――。
鶴見は、拳を握りしめた。
次の瞬間、鶴見が立ち上がる。
赤城の胸倉を、両手で掴んだ。
「なんでだよッ……!」
叫びにも似た声が、校舎裏に響き渡った。
「なんでお前なんだよ……! なんで零がいなくなって、お前がここにいるんだよ!」
鶴見の目から、涙がこぼれる。
それでも、手は離さなかった。
「俺は、零と一緒に下手くそなパス練して、怒鳴られて、それでも笑って……!」
声が崩れていく。
「俺が一緒にサッカーをしてきたのは、お前じゃねぇ……!」
赤城は、何も言い返さなかった。
言い返せる言葉など、なかった。
鶴見は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、最後の言葉を絞り出す。
「俺のダチを、返せ……!」
その瞬間――。
鶴見の手から、力が抜けた。
赤城の胸倉を掴んでいた指が、ゆっくりとほどける。
鶴見はそのまま、崩れるように地面へ膝をついた。
拳で地面を叩く。
「っ……くそ……」
嗚咽が漏れる。
「なんでだよ……」
重たい沈黙が落ちた。
夕方の風が、二人の間を通り抜ける。
赤城は、泣き崩れる鶴見を見下ろしていた。
世界のどんなスタジアムでも、味わったことのない重さが胸に沈んでいく。
勝利でも、敗北でもない。
もっと深く、もっと痛いもの。
――赤城零という少年が、ここに確かに生きていた証。
それを一番知っている人間が、今、目の前で泣いていた。




