九 薫風
魔法師団の応接室に三人が顔を揃えていた。副団長ベルナルト、シェリル、そしてアノリス。
シェリルから話を通し、面会は即日で組まれた。
もっとも、アノリスの腹はまだ決まっていない。姉と同じ組織に属することに抵抗はない。むしろ心強いとさえ思う。だが月華亭のことが引っかかったまま、答えを出せずにいた。今日は、それを聞きに来たようなものだった。
「――お前が、アノリスか」
ベルナルトはアノリスを見て、興味深そうに目を細めた。初対面だった。
「はい、アノリス・アリアシストです」
「上級試験を受けると聞いている」ベルナルトは頷いた。「実力の方は、まだ実際に見たことがないが、剣から魔法を出してみたり、あんまり見ないタイプの術師だと聞いた……期待しているぞ」
「――ありがとうございます」
アノリスは少し緊張した様子で答えた。姉のシェリルが既に築いている関係性の中に、自分だけが新参者として放り込まれた感覚があるのだろう。
ベルナルトはシェリルの方を向いた。「シェリルさん。あなたには特級術師、及び特任研究師として、うちに来ていただきたい」
「――特任研究師」
「肩書きだけの話ではありません。研究環境も、研究に関する権限も、それに見合ったものをご用意します」
シェリルは静かに頷いた。既に大筋は合意している話だった。
それから、ベルナルトはアノリスへと視線を移した。
「――お前についても、話しておきたいことがある」
「あの」アノリスは少し口ごもりながら言った。「私は今、別の仕事をしているのですが……」
「それは聞いている」ベルナルトはあっさりと答えた。「月華亭、だったな」
「――はい」
「勤務日数は減ることになるだろうが、続けても構わない」
「え」
アノリスは目を丸くした。師団に入るなら、当然辞めなければならないものだと思い込んでいた。
「――本当に、良いんですか?」
「ああ」
アノリスは、詰めていた息をゆっくりと吐いた。決まった、と思った。
ベルナルトはそこで、わずかに声のトーンを落とした。
「あの店には、それなりに位のある者たちが集まる。色々な話が交わされる場でもある。……つまり、情報機関としての側面も、多少はあるということだ」
シェリルとアノリスは、思わず顔を見合わせた。二人とも、初めて聞かされる話だった。
「上手くやっているようなら、こちらとしても問題はない」ベルナルトは平然と続けた。「才能が生きる場があるなら、それを潰す必要はどこにもない。師団としては、そういう考え方をしている」
「……そう、だったんですね」
アノリスは、まだ半分、状況を飲み込みきれていないような顔をしていた。これまで自分がただの接客係として働いてきたつもりの場所に、思いがけない意味が付随していたことを、今さら知らされた格好だった。
アノリスは小さく頷いたが、その頭の中では、これまで見てきた月華亭の光景が、少し違った色合いを帯びて浮かび上がっていた。
「まぁ、何だ」
ベルナルトは急に声のトーンを戻し、いくらか明るい調子で続けた。
「結局のところは、女性と色々話して、或いはその先もある店だからな。師団からも、たまに顔を出している奴がいるらしいぞ」
「――そうなんですか?」
「ああ。まあ、それ自体は規律に触れる話じゃない」ベルナルトは軽く肩をすくめた。「というわけで、もし師団の人間が顔を出しているのを見かけても、その場限りの話にしてくれよな」
「もちろんです」
アノリスは笑いながら答えたが、次の瞬間、目を輝かせて身を乗り出した。
「――副団長も、来たことあるんですか?」
接客業で染みついた癖が、思わず口から飛び出していた。
「――っ」
ベルナルトは一瞬、明らかに動揺した様子を見せた。
「シェリル」
助けを求めるように視線を送ったが、当のシェリルは咎めるどころか、口元を緩めてわずかに笑っていた。
「……お、俺だって、ある。それの何が悪い。ただ流石に妻子ある身、飲むだけだ」
開き直ったような口調に、アノリスは声を上げて笑った。
「いえいえ、悪くないですよ! むしろ光栄です」
「――お前、その調子で師団の連中を接客するなよ」
「大丈夫です、ちゃんと使い分けてますから」
アノリスの手慣れた切り返しに、ベルナルトはそれ以上言葉を継げず、咳払いで誤魔化した。
内心では、少し複雑な思いもあった。これまで店では顔も知らない客の一人として、気楽に通っていられた。だが、こうして受付の顔と名前が一致してしまった以上、今後あの店の敷居をまたぐ時の気安さは、多少なりとも損なわれてしまうかもしれない。
その様子を見透かしたように、アノリスがふと真顔になって付け加えた。
「――あ、でも、ご安心ください」
「……何がだ」
「店では、今日のことは一切関係ありません。副団長がいらしても、いつも通りの、ただのお客様として接します」
その口調には、これまでの快活さとは違う、はっきりとした職業意識が滲んでいた。月華亭という店の格を支えているのは、こうした一人一人の弁えなのだろう。ベルナルトは、少し意外な気持ちでアノリスを見た。
そしてアノリスは、一言続けた。
「プロですから」
アノリスは胸を張るように、悪戯っぽく笑った。ベルナルトはその笑顔に、先ほどまでの気まずさが幾分和らぐのを感じた。
その後、シェリルとアノリスは、二人が使うことになる宿舎の部屋へ案内された。
思っていたより、しっかりとした造りの部屋だった。寝台が二つ、それぞれ十分な広さで置かれ、簡素ながらも机と収納も揃っている。
「――悪くないわね」
シェリルが部屋を見回しながら呟いた。
「うん、想像してたより全然いいじゃん」アノリスも寝台に腰掛けて、跳ねるように弾力を確かめた。
「風呂は、師団内にいくつか用意してあります」ベルナルトが付け加えた。「騎士団と違って、女性用もちゃんと充実していますから、遠慮なく使ってください」
「ちゃんと、っていうのは?」シェリルが片眉を上げた。
「――騎士団の方は女性用が後付けで、あまり数が多くないらしくてですね。師団は最初から、女性の術師も一定数いる前提で造られています」
シェリルは納得したように頷いた。研究環境だけでなく、生活面での配慮も行き届いていることに、密かに好感を抱いた。
「――色々ありがとうございます」
アノリスが改めて頭を下げた。ベルナルトは軽く手を振った。
「礼はいりません。お二人の才能が、こちらの利になる。持ちつ持たれつです」
窓から差し込む午後の光が、真新しい部屋の中を、静かに照らしていた。
こうして、三人はそれぞれの形で、リーヴィンの中に自分の居場所を見つけていった。
ラフィスは騎士団の将軍として、シェリルは魔法師団の特任研究師として、アノリスは師団と月華亭、二つの場所を行き来しながら。
旅を終えたばかりの頃には想像もしていなかった慌ただしさで、それぞれの日々が新しい形を取り始めていた。
上級術師昇格試験まで、残すところあと十日ほどとなっていた。
初夏の風が、王都リーヴィンの通りを吹き抜けていく。まだ夏の暑さには早く、それでいて春の名残とも違う、乾いた爽やかさを含んだ風だった。街路樹の若葉が揺れ、その音に混じって、どこかから鐘の音が聞こえてくる。
五月十九日。
その日は、シェリルの誕生日だった。
宿舎の新しい部屋で目を覚ましたシェリルは、しばらく天井を見上げたまま、静かに息を吐いた。
(――また一つ、歳を取ったわけね)
数字が一つ増える、それだけの事実だ。だが、この一年で起きた出来事の多さを思うと、さすがに何の感慨もないというのも嘘になる。八月にエレシアに入り、そこから更に北進を続け、ドルヴェナ岬への旅、カルナヴィアの儀式、そして今、まだ荷物も動かし切れていないこの新しい部屋での目覚め。
積み重なった時間を、シェリルは静かに数えていた。
隣の寝台では、アノリスがまだ寝息を立てていた。今にも目を覚ましそうな、浅い眠りの顔だった。
しばらくその寝顔を眺めてから、シェリルは静かに窓を開けた。
初夏の風が流れ込んでくる。まだ夏の重さはなく、春の湿り気とも違う、乾いて澄んだ風だった。若葉の匂いがわずかに混じっている。
(――これを薫風、というのね)
風に名前があるということを、シェリルはあまり考えたことがなかった。だが今、この部屋に入ってきたものには、確かにその名が似合っている気がした。
そして、ふと思う。
(薫風の法剣使い)
誰が呼んだわけでもない。今、自分が勝手に思いついただけの言葉だ。だが、口の中で転がしてみると、妙にしっくりときた。
寝台の妹は、まだ何も知らずに眠っている。




