一 特訓と邂逅
上級術師の昇格試験まで、残すところあと八日となっていた。
師団の訓練場の一角、毎朝の特訓を申し出たのはアノリス。
「もう一度」
「はいはい」
アノリスがヴェントラーゼを構え直す。シェリルは腕を組んだまま、その様子を静かに観察していた。
「――遅いわ」
「え、今の?」
「今の。踏み込みから斬撃まで、あと零点二秒は縮められる。事実、あなたの脚力ならできるはずよ」
「零点二秒って」
シェリルの口調は変わらず淡々としていたが、その指摘には容赦がなかった。アノリスは唇を尖らせながらも、素直に構えを取り直した。
姉に稽古をつけてもらうようになって、もう数日になる。魔法算術論の理論そのものを叩き込まれているわけではない。むしろシェリルが見ているのは、もっと基礎的な部分――呼吸のタイミング、重心の移動、魔力を練る速度と身体の動きの同調。理論家としての姉とはまた違う一面を、アノリスはこの数日で何度も目にしていた。
「速さと手数、そして幸運。それがあなたの強みよ」シェリルは続けた。「私やラフィスにはない部分。それを最大限に活かせば、上級試験の突破口になるわ」
「幸運って、才能って言うより運任せみたいに聞こえるんだけど」
「事実、あなたは運がいいもの。それも実力のうちよ」
真顔でそう言い切るシェリルに、アノリスは思わず笑ってしまった。この姉らしい理屈だった。他人にはまず言わないことを、妹にだけは平然と言う。それも昔からだった。
朝の特訓は一刻と時間を区切って無駄な消費をしない、シェリルの発案だった。
「今日はここまでにしましょう」
「はい……ありがとう、姉さん」
アノリスは汗を拭いながら、師団の持ち場に向かって行く。
そして夕刻、アノリスは月華亭へ向かう。
試験が近づくにつれて勤務日数は減らしているが、完全に休んでいるわけではない。今日はこの後、少しだけ顔を出す予定だった。
人通りの少なくなった裏路地に差し掛かった時、その音が聞こえた。
金属がぶつかる音、そして低い呻き声。
アノリスは反射的に足を止め、路地の奥へ目を凝らした。
複数の人影が入り乱れている。荒くれた身なりの男たちが三人――そして、その中心に、一人の女性が立っていた。
(――襲われてる!)
アノリスはヴェントラーゼの柄に手をかけ、駆け出そうとした。だが、次の瞬間、足が止まった。
風が、渦を巻いた。
女性が軽く手を振ると、それだけで男の一人が吹き飛ばされ、路地の壁に叩きつけられる。残る二人が慌てて得物を構え直すが、女性はそれよりも速く踏み込み、鋭い旋風を纏った拳で、二人目の腹を打ち抜いた。
最後の一人が逃げ出そうとしたところを、足元に発生した小さな風の刃が、その脚を払う。男は無様に転倒し、それきり動かなくなった。
あっという間の出来事だった。
すべて、風だった。攻撃も、崩しも、追撃も。一つの属性だけで、これだけの手数を作れるものなのか。
アノリスは呆然と立ち尽くしていた。助けに入る間もなかった。いや、そもそも助けが必要な状況ですらなかったらしい。
女性が、乱れた赤毛をかき上げながら、こちらを振り返った。
「――あんた、見てた?」
「あ……はい。助けようと思ったんですけど、気づいたら全員転がってて」
「間に合わなくて正解っしょ。危なかったし」
女性はにっと笑った。物怖じしない、勝ち気な笑い方だった。派手めな化粧と、着崩した衣装の合わせ方に、独特のセンスが滲んでいる。話し方の軽さも相まって、歳は自分と変わらないように見えた。風の魔力の残滓が、まだ彼女の周りにちらちらと揺れていた。
「――ミレイ。ミレイ・ハルン。上級試験控えてるから、ちょっと肩慣らしね」
ミレイは倒れた男たちを一瞥し、面倒くさそうに息を吐いた。
「これ、放っといていいのかな」
「衛兵、呼びましょうか」
アノリスは慌てて近くの通りへ走り、衛兵を呼びに向かった。戻ってきた頃には、ミレイは涼しい顔で壁に寄りかかっていた。
「――あんたは何者だい?」
言いながら、ミレイは少し距離を詰めてきた。近くで見ると、相手の方がいくらか年下らしいと分かった。
「あ、はい。アノリス。アノリス・アリアシストです」
初対面の相手に向けると、月華亭の受付で使う声が、つい出てしまう。癖のようなものだった。
それを聞くとミレイは少し目を見開く。
「へー!知ってる!あの『エーテラリス』の妹!」ミレイは軽く笑った。「ってことは上級試験受けるんだ!名簿に載ってたよ……つっても、あたし負ける気しないけど」
その物言いに、アノリスは思わずむっとした。
「――それ、こっちの台詞ですけど」
「あ、いいじゃん、その目」
ミレイは楽しそうに目を細めた。物騒な戦闘の直後とは思えない、あっけらかんとした空気だった。アノリスはその様子に、なぜか嫌な感じを受けなかった。むしろ、初対面にしては妙に馬が合う予感があった。
「――んじゃ、また試験でね」
ミレイはひらひらと手を振って、風のように路地を去っていった。残されたアノリスは、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
(――なんか、面白い人だな)
試験までの緊張感の中に、思いがけない一つの出会いが差し込まれた夜だった。
同じ頃、帝都の執務室で、ガルデウスは机の上に広げた一通の手紙に目を通していた。
シェリルへ向けた書簡の返信だった。算術の話に終始した、素っ気ない文面。だが、そこに滲む知性の鋭さは、実際に書簡をやり取りしているからこそ、強く感じ取れるものだった。
ガルデウスはふと思った。
(――エーテラリスとの邂逅、か)
この歳になって、これほど心躍る出会いがあるとは思わなかった。若き特級術師、それも算術を武器にした理論体系の創始者。
会って話してみたいという思いは、日を追うごとに強くなっていた。
(――もう、魔法師団に籍を置いているのだろうか)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。もしまだどこにも属していない、自由の身であるならば。
(――帝国に、欲しいものだな)
そこまで考えて、ガルデウスは苦笑しながら首を振った。
(――いかんいかん、年甲斐もなく)
エレシアとヴォルテナの間に、今は敵対の緊張はない。だが、他国の特級術師を引き抜こうなどという発想は、私人としての知的交流の域を明らかに超えている。今はただ、一人の学者として、彼女の理論と向き合っていたい。それだけのはずだった。
その時、静かに扉が開いた。
「――失礼します」
入ってきたのは、諜報統括のコルド・エルスマンだった。感情の読めない、平坦な声音。
「総帥。ご報告が」
「なんだ」
「例のシェリル・アリアシストですが」コルドは淡々と続けた。「既に、エレシアの魔法師団に籍を置いているようです」
ガルデウスは片眉を上げた。
「――入っていたか」
「特任研究師として迎えられたとの情報です。詳細は、まだ追っている最中ですが」
「相変わらず、お前の耳は早い」
ガルデウスは短く笑ったが、内心では小さな落胆があった。自由な身分であればという、先ほどの考えもこれで自然と立ち消えになる。もっとも、初めからそれほど本気の話ではなかったが。
「――それより、ダルガンの動向はどうなっている」
話題を変えるように、ガルデウスは切り出した。
「静観派と、奪還派に割れているようです」コルドは表情を変えずに答えた。「アルヴェの一件を受けて、こちらへの警戒感を強める向きと、静かに様子を見ようとする向き、双方が拮抗しています」
「――で、どちらが優勢だ」
「奪還派の方が、旗色は悪いようです」
「――当然だろうな」
ガルデウスは、机の上の手紙にもう一度視線を落としながら、静かに呟いた。
「アルヴェの二の舞を演じたいと思う指導者は、そう多くはあるまい」
その声には、老練な軍人らしい、感情を排した冷静さがあった。だが、視線の先にある手紙にだけは、まだどこか未練めいた温度が残っていた。




