六 誘い
団長執務室で、ベルナルトはいつになく真剣な顔をしていた。
「団長。単刀直入に言わせてもらいますが」
「なんだ、改まって」
「シェリルさんを師団に迎え入れないのは、我々にとって明確な損失です」
アルヴァンは机の書類から顔を上げ、しばらくベルナルトを見つめた。
「……そう思うか」
「思います。魔法算術論は既に実戦で結果を出している。初等編だけでこれだけの反響を呼んでいる今、この理論を最も効率よく学べる立場にいるのは、団の中でも誰でもない、彼女自身のはずです。それを師団の外に置いたままにしておくのは、あまりにもったいない」
ベルナルトの言葉には、いつもの軽さとは違う熱があった。アルヴァンはしばらく黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――お前が思っている以上に、あの女は凄まじいぞ」
「団長?」
「特級術師というのは、そういう存在だということだ」アルヴァンの声は静かだった。「並の物差しで測れる相手じゃない。師団に迎え入れるということが、どういう意味を持つか――お前は、まだ本当のところをわかっていない」
「……それでも」
「いや」アルヴァンは片手を上げて制した。「必要だと言うなら、止めはしない。お前がそう判断したなら、それでいい。ただし」
「ただし?」
「それ相応の待遇を用意せねばなるまい。特級術師を、その辺の中級術師と同じ扱いで迎え入れるわけにはいかんだろう」
ベルナルトは頷いた。
「執務室は、用意しなければならないでしょうね。……三階の奥に、空き部屋があります」
「あの部屋か」
アルヴァンは記憶をたどるように目を細めた。長く使われていない部屋だ。日当たりが良すぎて資料を傷めるという理由で、誰も使いたがらなかった。
「はい。かなり広い書斎を伴っていて、簡易な魔法実験程度なら室内で完結できます。研究部屋として使うには、申し分ない造りです」
「悪くないな」
アルヴァンは頷いてから、ふと釘を刺すように付け加えた。
「言っておくが、誘うのはお前からだ。私からは言わん」
「――それは、なぜです」
「私が誘えば、断りにくくなる。あれはそういうことを、正確に計算する女だ」アルヴァンは少し間を置いた。「断る余地を残しておかねば、承諾させたことにはならん。……こちらの都合で人の道を曲げるのは、私の趣味ではない」
ベルナルトは頷いた。理屈は通っている。だが、それだけではないような気もした。団長の目は、窓の外の何もない方角を向いていた。
「それと――もし断られたら、二度とその話を持ち出すな」
「二度と、ですか」
ベルナルトは思わず聞き返した。組織の勧誘としては、あまりに引きが早い。
「ああ。一度断られた話を、しつこく蒸し返すのは筋が悪い。相手の意思を、こちらの都合で覆そうとするようなことは、するな」
ベルナルトはその重みのある言い方に、少し戸惑いながらも頷いた。
「わかりました。……ですが団長」
「なんだ」
「特級術師が希少だというのは、私も分かっているつもりです。ですが、団長がシェリルさんに対して、ここまで敏感に――というより、丁重に扱っているのは、何か理由があるんですか」
アルヴァンはしばらく黙っていた。窓の外に目をやり、それから静かに口を開く。
「静魔七日は、知っているか」
「――いえ」ベルナルトは首を振った。「聞いたことのない言葉ですが」
「特級試験の最終関門だ」アルヴァンは腕を組んだ。「静魔室という、音の響かない部屋に、七日間閉じ込められる。飲まず食わず。眠ることは当然許されない。横になることすら許されない」
ベルナルトは眉をひそめた。
「――七日間、ですか」
「ああ。その間、ずっと座ったまま、特定の呪文を唱え続ける。灯りは自分の手で守り続けなければならない。……お前は、そんな試験に耐えられるか」
ベルナルトは即座に答えられなかった。想像しようとして、すぐにその想像自体が馬鹿げていると気づく。飲まず食わず、眠らず、横にもならず、七日間。並の人間なら、身体が保つ前に、正気の方が先に保たなくなるだろう。
「――シェリルさんは、それを越えてきた」
アルヴァンの声が、いっそう低くなった。
「そんな者を、お前は誘おうとしている。それでも必要だと言うなら、心してかかれ。……共に上級を潜り抜けた私の同期が、その静魔七日を受けた。最後の日で、命を落とした」
部屋の空気が、一気に重くなった。
ベルナルトは、しばらく言葉を失っていた。
(――初めて、シェリルさんに恐怖を覚えた)
これまで、あの若さでの特級という肩書きを、頭では理解しているつもりだった。だが今、その実態の一端を聞かされて、ようやく背筋に何かが走った。魔法実験のために使われる静魔室、ほんの数分間、観測するために入ることはある――そんな自分の呼吸と心音以外、一切聞こえない部屋、並の人間なら半刻もいれば気が狂ってしまうだろう。自分だったら、どれほど保つだろうか。二刻か、三刻か。それ以上は、想像するだけで足がすくんだ。
「……よく、わかりました」
やっとのことで、それだけを絞り出した。
「わかったなら、いい」アルヴァンは話を締めくくるように言った。「それでも誘うというなら、丁寧に持ちかけてやれ。断られても、深追いはするなよ」
「承知しました」
ベルナルトは一礼して部屋を辞した。廊下を歩きながら、先ほど聞かされた話の重みが、頭から離れなかった。あの淡々とした――いや、淡々として見えていただけのあの女性の内側に、これほどの試練を潜り抜けた事実が眠っているとは、想像もしていなかった。
その日の昼過ぎ、シェリルはグラフェル堂に立ち寄っていた。
中級編は既に店頭に並んでいる。今日の用件は校正ではなく、刊行後に寄せられた問い合わせに目を通すことだった。ドラウが束にして取っておいてくれたそれは、想像していたより厚みがあった。誤植の指摘が数通、あとはほとんどが質問だった。三角関数の展開を自分の術式にどう適用すればいいか――そういう類の。次の版で補うべき箇所を、ドラウと二つ三つ確認して、店を出た。
その帰り道で、ベルナルトに声をかけられた。
「シェリルさん。少し、お時間よろしいですか」
「用件によりますね」
「そう硬くならないでください。ちょっとした話です」ベルナルトはいつもの軽い調子で笑ったが、その目にはどこか慎重な色があった。「歩きながらで結構です。少し、付き合っていただけますか」
並んで歩き出しながら、ベルナルトは切り出した。
「単刀直入に伺いますが――師団に入る気は、ありませんか」
「師団に、ですか」
シェリルは片眉を上げた。予想していなかった提案ではない。だが、実際に言葉にされると、少し意外だった。
「ええ。魔法算術論は、もう理論だけの話じゃなくなっている。実戦で結果を出しているものを、師団の外に置いたままにしておくのは、正直もったいないと思っています」
「あなたが、そうお考えになったのですか」
「はい。団長には、私から掛け合いました」
シェリルはしばらく黙って歩いた。ベルナルトはその横顔を窺いながら、言葉を続けた。
「執務室もご用意します。三階の奥に空き部屋がありましてね。広い書斎付きで、簡易な実験程度なら室内で完結できる造りです。研究部屋として使うには、悪くないかと」
「……随分と、話が具体的なのですね」
「本気でお誘いしていますから」
シェリルは足を止め、ベルナルトを正面から見た。その視線には、値踏みするような冷静さがあった。
「ベルナルトさん。一つ、伺いたいのですが」
「なんでしょう」
「あなたは、私が師団に入ることで、何を期待していらっしゃるのですか」
直球の問いだった。ベルナルトは一瞬たじろいだが、すぐに答えた。
「講義の効率が上がります。理論と実践の距離が縮まる。それに――」
「それに?」
「あなたという存在が、もっと近くにいてくださった方が、団としても心強い。それだけです」
飾り気のない答えだった。シェリルはしばらく、その言葉の真偽を測るように黙っていた。
(――事実、悪い話ではないわね)
師団の設備を自由に使えるなら、実戦検証の幅は格段に広がる。これまで論文や講義で語ってきた理論の多くも、より精密に詰められるだろう。研究者としての合理性だけを考えれば、断る理由はほとんどない。
「――少し、考えさせてください」
「ええ、急かすつもりはありません」ベルナルトは頷いた。「ゆっくり考えていただいて構いません」
「――いえ」シェリルは少し考えてから、言い直した。「今、お時間はありますか。執務室というものを、見せていただけますか」
「今からですか?」
思いのほか、話が早い。ベルナルトは少し面食らったような顔をした。考える時間が欲しいと言った舌の根も乾かぬうちに、今度は現場を見たいと言い出す。この人物のペースは、どうやら自分の想像より少し速いらしい。
「はい。研究部屋をいただけるなら、こちらとしても願ってもないお話です。実物を見ないことには、判断のしようがありませんから」
「話が早い。構いません、ご案内します」
案内された三階の奥の部屋は、聞いていた通り広い書斎付きだった。窓からの採光は少し強いが、カーテンをちゃんとつければいいだろう。実験用の作業台を置く余地も十分にある。シェリルは部屋の中を一巡し、壁や床の材質、換気の具合まで確かめていった。
(――悪くない、どころではないわね)
内心、心が躍っているのを自覚していた。宿の一室で理論を組み立てるのと、これだけの空間で実験まで完結できるのとでは、研究の効率がまるで違う。
「気に入っていただけましたか」
「事実、悪くありません」シェリルは頷いてから、少し言いにくそうに口を開いた。「――ただ、一つ、お願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう」
「私はずっと、宿を借りている身分です。この機会に、宿舎まで用意していただけると……大変ありがたいのですが」シェリルは僅かに言葉を選ぶように間を置いた。「ずいぶんと、虫のいいお願いだとは承知しています」
「宿舎ですか……」
ベルナルトは特に気を悪くした様子もなく、少し考え込んだ。
「確認してみます。……ああ、そうだ。今、空いているのは二人部屋しかなかったはずだ」
「二人部屋、ですか」
「ええ。さすがにそれは失礼でしょうな」ベルナルトは顎に手を当てた。「お一人で使っていただくにしても、相部屋の相手がいないと空き扱いにならない決まりでして」
しばらく考え込んでいたベルナルトは、ふと何かに思い当たったように顔を上げた。
「――そういえば。今度の上級試験の受験者名簿に、妹さんのお名前がありましたね。あの方は、師団には……所属されていないんでしたか」




