五 月斬り
宿に最初に戻ってきたのは、シェリルだった。
机に向かい、ガルデウスからの書簡を前に、返事をしたためている。帝国軍総帥からの書簡だということは、アノリスにもラフィスにも、まだ話していない。話す必要のあることかどうかも、正直まだ判断がつかなかった。私信であることに変わりはない。ただそれだけの理由で当面は黙っておくことにした。
筆を進めながら、シェリルはふと窓の外に目をやった。
魔法算術論中級編は既に書店の店頭に並んでいる。実用的な内容としては中級編で一区切りついている。だが、中級まで出したとなれば、当然のように上級編の依頼が来ていた。内容はこれまで以上に難解になる。すぐに手をつけられるものではないと編集のドラウには伝えてある。少し時間が欲しい、と。
筆を置き、書き終えた返信に目を通す。数式の話に終始した、素っ気ない文面だった。だが、それでいい。ガルデウスの手紙も、余計な飾りのない、率直なものだった。
しばらくして、ラフィスが戻ってきた。
だが、荷物を軽くしただけで、すぐにまた宿を出ていった。滞在はほんの一瞬で、何をしに行くのかシェリルが尋ねる間もなかった。ラフィスの様子には、これまでとは違う何かがあったが、それが何なのかまでは、見極める暇もなかった。
さらに時間が経った頃、アノリスが月華亭での勤めを終えて戻ってきた。
「ただいまー。……あれ、ラフィ姉は?」
「戻ってきて、またすぐに出ていったわ」
「へえ、珍しいね」アノリスは首を傾げた。「何しに行ったんだろ」
「さあ。ほんの少し部屋にいただけで、話す間もなかったの。……そういえば」シェリルは少し考えるように目を細めた。「見慣れない武器のようなものを、持っていた気がするわ」
「武器? いつもの剣ではなくて?」
「もっと細長くて――違う形のものだったわ。詳しく見る前に、もう出ていってしまって」
二人はそれ以上深く考えず、それぞれ旅の疲れを癒す夜の支度に戻っていった。
宿から東へ半刻ほど歩いた先、人気のない一角に、ラフィスの姿があった。
先ほど手に入れたばかりの刀を、ひたすら振り続けている。汗ばむほど身体を動かしても、不思議と疲れは感じなかった。
(――これは、愉しいものだな)
そう思ってから、すぐに小さく苦笑した。数刻前は、自分の中の見知らぬ部屋に怯えていたはずなのに。剣は人を守るための道具だ。こんな風に、無邪気に愉しんでいい種類のものではないことは分かってはいる。だが、それでも止められなかった。誰も見ていないこの場所でだけ、緩んでもいいと、どこかで許されている気がした。
一振り、また一振りと、月明かりの下で刃を走らせながら、ラフィスはふと思う。
(――アノリスの、ヴェントラーゼ、って、かっこいいよな)
アノリスがいつだったか、そう誇らしげに語っていたのを思い出す。
彼女の法剣には、確かな名がある。風切りという意味を持つ、あの剣の名前。
(よし。剣――いや、刀にも、名前をつけよう)
名を与えるということが、これほど自然に思いついたのは初めてだった。
近くの柳に、ふと目が留まる。試しに、若い枝を一本、狙ってみることにした。
刃が触れた瞬間――
「――あっ」
思わず、声が漏れた。
(――柔らかい)
斬った、という感触がほとんどなかった。しなる枝を、この刃はまるで意に介していないようだった。抵抗らしい抵抗もなく、すっと通り抜けていく。斬るというより、まるで滑らせるような感覚だった。
立ち尽くしたまま、ラフィスはしばらく刀身を見つめていた。
その時、頭上を覆っていた雲が、静かに流れて割れた。
満月が、露わになった。
夜空に浮かぶ月の光が、まっすぐに刀身へと降り注ぐ。刃が白銀に輝き、その光を跳ね返した。磨き上げられた鏡のような刀身に、自分の姿が映り込む。月光を纏った自分の顔が、そこにあった。
(――結構、イケてるんじゃないか、私)
場違いなほど呑気な感想が浮かんで、ラフィスは一人、小さく噴き出した。誰も見ていない。だから、いい。
刀身を月にかざしたまま、ラフィスはふと思い出す。
シェリルが、よく口にする言葉があった。
「極」
値が果てしなく大きくなる、たった一つの点。何もないはずのその場所に、周りをぐるりと回ると、隠れていたものが姿を現す――そんな話をしていた気がする。正確な言葉までは覚えていない。あの理屈を、ちゃんと分かっているわけでもない。
夜空にも極があるというなら、それはどこだ。極星、というものだったか。
(――知らないな、そんなもの)
シェリルみたいに、頭は良くない。星の名前も、その理屈も分からない。
でも、と思う。
私の天極は、あれでいい。
見上げた先に、満月があった。
「――月を、斬りたい」
声に出してから、その響きが妙にしっくりときて、ラフィスは刀身を握り直した。
「斬りたいんだ、あれを」
(――ノクティセカ)
なぜかその名だけが、確信を持って浮かんできた。理由は分からない。ただ、そう呼ぶべきだという感覚だけが、はっきりとあった。
ラフィスは刀身を月にかざしたまま、静かに口を開いた。
「――よし。今日から、あなたは、ノクティセカ」
誰も聞いていない夜の一角で、その名を口にする。
――あなた、なんて言葉を私は使ったことあったか。
風もない、静かな夜だった。月光を浴びた刃だけが、答えるように、微かに輝いていた。
ヴォルテナ帝国領・アモクア村の焼け跡には、まだ煙の匂いが残っていた。
カルノア銀山の所有権を巡って、アルヴェ共和国が先制攻撃を仕掛けてきたのが、ひと月ほど前のことだ。鉱物資源には恵まれていても、軍事・外交の両面で洗練されているとは言い難い国だった。その読みの甘さは、開戦からわずか数週間で証明されることになる。
帝国軍は迎撃するにとどまらず、そのまま押し返した。アルヴェの防衛線は各地で崩れ、抵抗らしい抵抗もないまま、首都が陥落するまでにさほど時間はかからなかった。
内務長官ソル・オウルは、占領後間もないアモクア村の視察に立っていた。武官出身らしい、無駄のない歩き方で焼け跡を巡る。
「――ずいぶんと、手際の悪い攻め方だ」
同行していた副官が、黙って頷いた。
「資源はある。だが、それを守る算段も、使う算段もなかったということでしょう」
「そういうことだな」ソルは焼け残った家屋の柱に触れた。「銀山の権利を主張するなら、まず自分の足元を固めてからにするべきだった。……ま、こっちにとっては好都合だが」
占領地の視察は、単なる後始末ではない。ここから先、どう統治し、どう資源を吸い上げていくか――その青写真を描くための下見だった。
「陸軍省の連中は張り切っているだろうな」ソルは苦い顔をした。「ヴァッサンの婦女暴行の一件があった後だ、手柄を立てたくてしょうがないだろうよ」
「ガルデウス総帥は、何と?」
「あの狸爺か」ソルは鼻を鳴らした。「――皇帝への報告は淡々としたものだったよ。功を誇るでもなく、浮かれるでもない。年寄りらしい落ち着き払った態度で、な」
副官は苦笑を堪えるように口元を結んだ。長官があの総帥を評する時の物言いは、いつもこの調子だった。
「銀山の管理体制は、こちらで一から組み直す必要があるでしょうね」
「わかっている」ソルは焼け跡から視線を上げ、遠くに見える銀山の稜線を睨んだ。「アルヴェの残党がどこかに潜んでいる可能性もある。念のため、周辺の掃討は続けさせろ」
「はっ」
副官が離れていくのを見送りながら、ソルは再び視線を銀山へ戻した。あの山の向こうには、まだ見えていない火種がいくつも眠っているような気がしてならなかった。だが今は、目の前の後始末を片付けることが先決だった。
風が、焼け跡の灰をわずかに巻き上げていった。




