十 休暇命令
月華亭の控室は、昼下がりの静けさに包まれていた。
営業前のこの時間、店の喧騒はまだ遠い。アノリスは、いつもの椅子に腰を下ろしていた。向かいには、セレナが座っている。
セレナは、少し声を落とした。
「――お疲れ様。裁判中は、この店の名前を出すわけにいかなかったけど、事件の最初の告発が、うちの店から――特に、アノリスが最初の告発者だったってことは、ちゃんと然るべきところに認定されてる。表立った形ではないけれど、褒賞も出るはずよ」
「そう、なんだ」
アノリスは、あまり実感の湧かない顔で相槌を打った。
セレナは、いつもの淡々とした調子で続けた。
「動いたことに意味はあった。あなたが最初に動かなければ、事件はもっと違う形になっていたかもしれない」
アノリスは、しばらく黙っていた。
自分が動いたことがどこまで意味を持ったのか、正直なところよく分からなかった。
証言に立つこともなく、法廷で名を呼ばれることもなく、ただ最初のきっかけだけを作った。それだけの実感しかない。
「それと」
セレナが、少し表情を和らげた。
「お姉さんも、大変だったわね」
その一言に、アノリスの胸が、じわりと重くなった。
法廷で崩れ落ちた、あの瞬間。目の前が白く霞んで、意識が途切れた記憶。目覚めた医療室で見た、姉の涙。
「……うん」
アノリスは、視線を落とした。
「もう、どうしようかと思った。あのとき」
声が、少し掠れた。
「でも、ひとまず、姉さんは無事だから」
自分に言い聞かせるように、そう繰り返す。
無事。
その言葉を口にするたびに、安堵と、まだ拭いきれない何かが、同時に胸の中で動いた。
「……でも、さすがに姉さんも、最近は疲れてるかなぁ」
アノリスは、小さく息を吐いた。
ひと月あまり、姉の周りで起きたことを数えるだけで、疲労という言葉では足りない気さえした。
セレナは、その様子をじっと見ていた。
「――さて」
セレナが、ふと立ち上がった。
「そろそろ、支度の時間ね。疲れた顔はあなたには似合わないから、またよろしくっ」
窓の外を見ると、日はだいぶ傾いていた。控室に差し込む光の色が、いつの間にかオレンジがかっている。
「あ……もうそんな時間か」
アノリスも、椅子から腰を上げた。
控室の奥、衣装が並んだ棚の前に立つ。手が自然と伸びたのは、いつもの緑のドレスだった。一番、気に入っている一着だ。裾の広がり方も、袖の透け具合も、何度袖を通しても飽きが来ない。
着替えながら、鏡に映る自分を見る。
色々なことがあった。事件のこと、姉のこと、法廷で気を失ったこと。今思い返しても、目まぐるしい日々だった。
それでもひとまずは、収まった。
鏡の中の自分が、少しずつ、いつもの顔に戻っていくのが分かった。
開店の時刻が近づく。
アノリスは、受付カウンターの前に立った。
姿見で、最後に身だしなみを確かめる。緑のドレスの裾を軽く整え、髪を一度撫でつける。
扉の外から、最初の客の気配が近づいてくるのが分かった。
口元に、いつもの笑みが浮かぶ。
――大丈夫。
この一月の出来事は消えたわけではない。まだ胸の奥に、しこりのようなものは残っている。
だが、それでも今、この場所に立って、いつも通りの顔で客を迎えることはできる。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
自然に出た声だった。柔らかく、明るく、いつも通りの調子で。
少なくとも今夜は、いつもの月華亭だった。
同じ頃、シェリルは執務室から廊下へ出た。
扉を閉め、少し歩いたところで、思わず壁に肩をもたせかける。
身体が、重かった。
昨日から様々な人間に、様々な形で気を遣われている自覚があった。
廊下ですれ違ったエルナは、いつもより一段と柔らかい声で「お疲れ様です」と言った。ミレイは、すれ違いざまに「顔色悪いっすよ」と、いつものざっくばらんな口調ながら、目だけは真剣にこちらを見ていた。ソニアは、遠くから小さく会釈をして、それ以上は近づいてこなかった。トーマは、廊下の向こうから何か言いたげにこちらを見て、結局何も言わずに頭を下げるだけだった。カイルも、すれ違う際にわずかに歩調を緩めた。
果てはイリッサすらも。
あの法廷で泣いていた彼女は、今日、廊下でシェリルと目が合うと、気まずそうに、それでもはっきりと会釈をした。
以前のような刺々しさは、そこにはなかった。
この一月、休む間もなかった。決闘騒ぎに端を発した師団内の空気。帝国と通じているという根も葉もない噂。毒殺されかけたこと。法廷での証言。崩れ落ちる妹。数え上げればきりがない出来事の連続が、ようやく静まったのは、つい昨日のことだ。
だが、静まったからといって、疲労が消えるわけではない。むしろ、張り詰めていたものが緩んだ分だけ、重さが一気に押し寄せてくる。
シェリルは、壁に背を預けたまま、しばらく目を閉じていた。
翌朝。
シェリルが執務室の椅子に座ってすぐ、扉がノックされた。
まるで、後をつけてきたかのようなタイミングだった。
「入るぞ」
入ってきたのは、ベルナルトだった。手には、一枚の書面が握られている。
「おはようございます、副団長」
「ああ」
ベルナルトは、いつもより幾分か硬い顔をしていた。何かを言い出しにくそうにしながら、それでも机の前まで歩み寄り、書面をそっと差し出した。
「これを」
シェリルは、書面を受け取り、目を通した。
辞令。
特級術師並びに特任研究師、シェリル・アリアシストに対し、明日から十日間の休暇を命ずる。
師団長 アルヴァン・セルス。
シェリルは、しばらくその文字を見つめていた。
「――これは」
「師団長の名で出た。俺が持ってきたのは、まあ、成り行きだ」
ベルナルトは、少し気まずそうに視線を逸らした。
「反対したいところもあるだろうが……正直に言えば、俺も同じ意見だ。お前は休め」
シェリルは、辞令を持ったまま、しばらく黙っていた。
頭の中に、真っ先に浮かんだのは懸念――共同研究の予定。エルナやソニアとの指導の時間。組んでいた講義の日程。十日間、それらすべてに穴を空けることになる。埋め合わせをどうするか、誰に頼むべきか――そんな算段が、勝手に頭の中で動き始めていた。もっとも、講義については、昨晩のうちに休講の告知が大学の掲示板に張り出されていた。この日は講義の予定がなく、大学に足を向けていなかったシェリルは、まだそれを知らない。
だが。
その懸念よりも、わずかに強い感情が、胸の奥から静かに浮かび上がってきた。
――ありがたい。
それは、シェリルにとって、あまり馴染みのない感覚だった。休むことに、これほどまっすぐ「ありがたい」と思ったのは、いつ以来だろうか。
「……分かりました」
小さく、そう答えた。
声には思っていたよりも、素直な色が滲んでいた。
自分は嫉妬の対象になっていた。それどころか、命を狙われるところまで行き着いていたのだ。
なぜ、そうなったのか。師団は、研究に没頭できる場所を与えてくれた。魔法算術の講義では、学生たちと言葉を交わす時間もある。どちらも、シェリルにとって得がたい充実だった。だがその裏で、組織に身を置く限り避けられない、下らない力学も確かに働いていた。
――自分には、何が欠けているのだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、シェリルは羽ペンを取り、書きかけだった式の続きを並べ始めた。休めと言われた明日を前にしても、手は止まらなかった。




