九 死刑囚の義娘
主文が読み上げられた瞬間、エインは何も言わなかった。
抗議も、絶叫も、命乞いもなかった。ただ、立っていた膝から力が抜けた。支えを失った身体が、そのまま被告席の床へ崩れ落ちる。
座り込んだまま、動かない。
視線は、どこにも向いていなかった。汚職で終わるはずだった。降格か、罷免か、悪くて追放か。そのくらいの想定はしていた。反逆――その二文字が自分に貼りつくことなど、この男は最後まで考えたことがなかったのだ。
廷吏が二人がかりで両脇を抱え上げた。足は自分では動かなかった。爪先が床を擦る音だけが、静まり返った法廷に長く尾を引き、やがて扉の向こうへ消えていった。
シェリルは、閉廷が告げられるとすぐに席を立った。
早足だった。
こういうとき、どんな顔をしていればいいのか分からない。喜ぶべきではない。悲しむべきでもない。安堵するというのも、どこか違う気がする。適切な表情というものが自分の中に見つからず、それならばいっそ、誰の目にも触れないところへ行きたかった。
人波を抜けて、廊下へ出る。
そこで、足が止まった。
――ソニア。
思い出した瞬間、胸の奥が重くなった。あの子は今、どんな顔をしているだろう。
振り返り、傍聴席の方を見る。
ソニアは、まだそこにいた。
意外なほど、平静だった。取り乱してもいないし、泣いてもいない。それどころか、どこか晴れたような顔にすら見えた。長く胸に居座っていた重いものが、ようやく形を得て、外へ出ていったかのような。
その視線が、ふと上がった。
目が合う。
次の瞬間、ソニアが人をかき分けるようにして、こちらへ歩いてきた。
「シェリル先生」
名を呼んだ声は、しっかりしていた。
だが、シェリルの顔を正面から見た瞬間、ソニアの表情が崩れた。
目の前に立っているこの人は、涼しい顔をしている。あれだけのことをされて、あの日の法廷であれだけのことを語って、それでもまだ、いつもと変わらない顔でここに立っている。
「……こんな、方に」
声が震えた。
「こんな方に、あの人は、あんな仕打ちを」
言い終わらないうちに、涙が溢れた。
ソニアはその場に立ったまま、両手で顔を覆った。人の行き交う廊下の真ん中で、肩を震わせて泣いた。
シェリルは、何も言わずにその前に立っていた。
この日から、ソニアは死刑囚の義娘になる。
血の繋がりはない。犯行に関与してもいない。捜査はそう結論づけたし、誰もそれを疑ってはいない。
だが、そういうこととは別に、人は名前を覚える。ドルッセという姓を聞けば、これから先ずっと、あの事件が想起される。師団の中でのソニアの立ち位置は、これまで以上に微妙なものになるだろう。誰も面と向かって何かを言いはしない。ただ、少しずつ、話しかけられる回数が減っていく。そういう形の疎外があることを、シェリルは知っていた。
「ソニアさん」
シェリルが、静かに口を開いた。
ソニアが、涙で濡れた顔を上げる。
「あなたの才は、とても良いものです」
脈絡のない言葉に、ソニアは一瞬、目を瞬かせた。
「神経魔法は、評価するのが難しい分野です。攻撃魔法のように、威力で測ることができない。回復魔法のように、治った治らないで結果が出るわけでもない。何をもって上手いとするのか、その物差しからして、まだ誰も作れていない」
シェリルの声は、いつもの講義と変わらなかった。
「それに、神経は一本ずつ独立して働いているわけではありません。一つに触れれば、隣り合う幾つもが同時に揺れる。だから一本ずつ足し算で扱おうとすると、必ずどこかで破綻する。束ごとまとめて扱う道具が要るんです。行列が、それです」
シェリルは一度言葉を切った。
「けれど、その行列の中身を確かめる方法がない。身体の内側は覗けないし、人によって繋がり方も違う。感覚で神経魔法を扱える術師は昔からいました。でも、それを式に落とそうとした人は、私の知る限り、あなたが最初です」
「あなたは、その難問に向かっています」
ソニアは、言葉が出ないまま、シェリルを見つめていた。
口にしながら、シェリルは自分の言葉の奥にあるものを確かめていた。
算術で魔法を記述する――その道を歩き始めた頃、自分の周りにも物差しはなかった。感覚で放てる魔法を、なぜわざわざ式に起こすのか。そう問われたことは数え切れない。答えの出ない問いを抱えたまま、一人で紙に向かう時間の長さを、シェリルは知っている。
ソニアは今、あの頃の自分と同じ場所に立っている。しかも、自分が手を付けてこなかった方角に。解析の道具では、あの束はほどけない。神経の揺れを捉えるには、別の算術が要る。それを一人で掘り進めようとしている者が、目の前にいる。
――この才を、こんなことで手放させるわけにはいかない。
「これから、あなたの周りで何か言う人が出てくるかもしれません」
声の調子は変わらない。ただ、言葉の輪郭が、わずかに硬くなった。
「そうなったら、私のところに来てください。全部、私が引き受けます」
「え……」
「あなたは何もしていません。事件とは無関係です。それは捜査が認めた事実です。事実なので、誰の解釈も入る余地はありません」
シェリルは、まっすぐにソニアを見ていた。
「こんなことで、術師としての道に傷がつくなど、あってはならないことです。断じて」
その最後の一語だけが、少し強かった。
ソニアは、息を呑んだ。
この人は今、自分を守ると言った。それも、慰めや励ましとしてではなく、ただ理屈が通らないことを許さないという顔で。
「……はい」
ようやく絞り出した返事は、掠れていた。
「ありがとう、ございます」
シェリルは頷き、軽く会釈をした。
シェリルより、ソニアの方が年上である。
だが、そのやり取りに、不自然さを感じる者は誰もいなかった。この国では、位階が年齢に優先する。特級のシェリルと、準上級のソニア。二人のあいだには、そういう距離がある。ソニア自身も、それを当然のこととして受け止めていた。
シェリルは、廊下を歩き去っていった。
背筋の伸びた後ろ姿が、人波の向こうへ消える。
ソニアは、その場にしばらく立ち尽くしていた。涙は、まだ止まっていなかった。
それから数日後、リーヴィン王立大学の古い講義棟に、一人の女の姿があった。
ケルティは、ソルペンシアの借家を引き払い、王都に住まいを移していた。手荷物はわずかだった。長く暮らした家から持ち出せたものは、ほとんど何もない。それでも、歴史書の数冊だけは手放さずに、ここまで運んできた。
かつての同僚が、まだ大学に残っていた。事情を多くは訊かずに、非常勤の口を一つ回してくれた。秋の講期から、週に二度の講義。本採用とは程遠い。肩書きも給金も、教壇を離れる前とは比べものにならない。
それでいい、とケルティは思った。
最初の講義で何を話すかは、もう決めていた。王都の商いの成り立ちと、帳簿の歴史だ。金の流れはいつの時代も嘘をつかない。嘘をつくのは、いつもそれを書き、読む人間の方だ。皮肉な題目だと、自分でも思う。
人のいない講義室は、乾いた紙と白墨の匂いがした。並んだ長椅子。少し傾いた教卓。窓から差し込む晩夏の光が、黒板の上で白く滲んでいる。何年も前、自分はここに立っていた。あの家に嫁ぐと決めて、この部屋を出た日のことを、今でも覚えている。
教卓に手を置く。木の感触が、思っていたよりも冷たかった。
――歴史とは、起きたことを、次の者へ手渡すことです。
かつて学生たちに、そう語ったことがある。若い頃の、少し気取った言葉だった。けれど今はその意味が、以前よりずっと重く感じられる。
法廷で、自分の名は読み上げられなかった。記録には「一名の女性」とだけ残る。歴史を教える者が、自分の名を歴史から外したのだ。可笑しなものだと思う。だが、名が残ることと、事実が残ることは違う。事実は、もう記録に刻まれた。それを次へ渡す役目なら、名のない者にも務まる。
ケルティは白墨を一本取り、黒板の隅に、小さく今日の日付を書いた。
誰に見せるためでもない。ただ、ここからもう一度始めるための、最初の一行だった。
同じ王都の、同じ夏の終わり。
一人の女は、誰かがすでに歩いた道を、次の者へ手渡すために、教壇へ戻ろうとしていた。
もう一人の女は、まだ誰も歩いたことのない道を、一人で拓こうとしていた。物差しすらない場所で、神経の束を式に起こすという、途方もない道を。
互いの名も知らない二人だった。それでも、事件が過ぎ去った後のこの街で、二人はそれぞれの場所で、確かに前を向いていた。




