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六 戦友の灯

 法廷から二日が経った。

 その夜、ラフィスはシェリルの執務室の扉を叩いた。返ってきた声は短く、くぐもっていた。

 扉を開けると、部屋の中は思いのほか暗い。窓の外には、まだ雨の名残の湿り気が漂っていた。

「灯りくらい点けろ」

「今、点けるところだったのよ」

 机の向こうで、シェリルが小さく指先を動かした。卓上のランプに火が入り、橙色の光が、積み上げられた書類と彼女の横顔を浮かび上がらせる。

 山小屋の夜も、火を起こしたのはお前だったな――ラフィスはそんなことを思い出しながら、提げてきた包みを机の端に置いた。

「何、それ」

「夕飯だ。どうせ、まともに食べていないだろう」

 包みの中身は、パンと、蓋つきの小鍋に入れたスープだった。騎士団の厨房の隅を借りて、自分で作ってきたものだ。まだ湯気が立っている。


 シェリルはしばらく小鍋を見つめてから、ふっと息をついた。

「……図星ね。あれ以来、食べ物がまともに喉を通らないの」

「だろうと思った」

 ラフィスは棚から勝手に器を二つ取り出し、スープを注いだ。一方の器を自分の口元へ運び、一口だけ啜ってから、もう一方をシェリルの前に置く。

 シェリルの目が、わずかに細まった。

「今のは?」

「味見だ」

「……そう」

 それ以上、シェリルは何も訊かなかった。器を両手で包むようにして、静かに口をつける。

「水は、もう自分で汲んだものしか飲まないことにしているわ。だから、毒見役なら間に合っているの」

「知っている」

 ラフィスは椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「……それでもだ」


 しばらく、スープを啜る音と、窓を伝う雫の音だけが続いた。

 言いたいことは、ここへ来るまでにいくつも考えてきたはずだった。だが、灯りの下でシェリルの顔を見た途端、そのどれもが喉の奥でつかえて出てこない。どこか物憂げな瞳。よく見ると、少し弱々しくも見える表情だった。

「法廷で聞くまで、何も知らなかった」

 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。

「十日だ。お前は十日も、何も言わずにいた」

「箝口令が敷かれていたの。話していい相手は、ごく限られていたわ」

「分かっている」

 分かっている。頭では、とうに理解していた。ダルガン派の残党に動きを速めさせないための判断だったことも、将軍の自分にすら伏せられた理由も。

 それでも、腹の底に溜まったものは消えなかった。

「あの喫茶店で、お前の身の安全はどうなんだと訊いた。お前は、頼れる人たちがいる、と言った」

「言ったわね」

「その翌朝だ」

「夜のうちに入れられて、朝に口をつけた。事実としては、そうなるわね」

 淡々とした声だった。法廷で証言していたときと、何一つ変わらない。

 ラフィスは膝の上で拳を握った。

「剣の前になら、いくらでも立てた。矢でも、魔法でも、龍でも――お前の前に立って、受けてやれた」

 灯りが、かすかに揺れる。

「だが、水の一杯から守る術を、私は何も持っていなかった」

 シェリルは器を置いた。何か言いかけて、やめたようだった。その様子を確かめた後、ラフィスは続けた。

「……本当に、心配した」

 ぶっきらぼうに言う。視線は、机の木目に落としたままだった。


 シェリルは置いた器に、もう一度そっと両手を添えた。少しだけ目を伏せる。

「本当はね、怖かったの。あなたと……アノリスを残して、逝ってしまうかもしれない。そんな想いがよぎったの。あれから、自分で汲んだ水しか信用できなくなったわ。だから、さっきあなたが先に口をつけたとき、少しだけ、肩の力が抜けた」

 ラフィスは息を呑んだ。静かな声だった。だが、これほど剥き出しの恐れを彼女の口から聞いたのは、初めてのように思えた。

「シェリル」

 名前を呼ぶと、彼女の眉がわずかに動いた。

「私が、お前の力になれることは少ないのかもしれない。だが、私を置いていかないでくれ。お前は……お前は、私の大切な戦友だ」

 言ってしまってから、耳の辺りが熱くなるのが分かった。ラフィスはごまかすように、残りのスープを一息に飲み干した。

 シェリルは、すぐには答えなかった。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「……ありがとう。あなたも、こんな私を分かってくれる人だから」


 小鍋が空になる頃、シェリルが不意に口を開いた。

「せっかく来てくれたのだから、一つ聞いてもいい?」

「何だ」

「あなたの国のこと。前から、興味があったの」

 ラフィスは眉をひそめた。

「前にも話しただろう。山小屋で」

「あの夜聞いたのは、冬のことと、海の色と、白い王宮のこと。それはそれで、よく覚えているわ」

 シェリルは机の引き出しから、折り畳まれた地図を取り出した。灯りの下で広げると、紙の端が小さく音を立てる。

「あの廃洋館――ギロッグ魔法研究所の跡。あの名前を、ずっと考えていたの」

 ラフィスの指先が、わずかに強張った。

 ギロッグ。山小屋の夜、シェリルが不意に口にした名前。あれから、何度も頭の中で転がしてきた。名門の一族として、幼い頃に耳にしたことがある――それ以上のことは、どれだけ記憶を探っても出てこなかった。

「何か、分かったのか」

「いいえ。名前の正体は、何も」


 シェリルは地図の上に指を置いた。エレシアの北西、国境に近い辺り。

「ただ、地図を見直したの。あの辺りから北へ向かうと、ウルメシア大陸が南へせり出している。二つの大陸が、一番近づくところ」

 指が、海峡を越えて北へ滑る。

「後で知ったことだけど、そこには渡し舟も出ているらしいわ」

 ラフィスは黙って、その指先を見ていた。

 海峡の向こうに、かつてカリティスディアと呼ばれた国があった。渡った先は、もうディアルーンの地だ。白い王宮が建っていた、あの王都の名を冠した土地。

「……行こうと思えば、あなたも行ける」

 灯りが、ちり、と小さく鳴った。

 ラフィスはしばらく何も言わなかった。脳裏に浮かんだのは、岬で見た海の色だった。ソルティアに似た、深く暗い青。あの日、父上と母上の魂を送ったのも、祖国の土の上ではなかった。

「今更、行こうとは思わない」

 自分でも驚くほど、静かな声が出た。

「行ったところで、誰も私の顔は知らないからな。七つで国を追われた娘の顔など、覚えている者がいるものか」

 ラフィスは地図から目を離し、灯りの方を見た。

「今は、この国の将軍だ……」

 言い切ったはずの言葉の終わりが、自分の耳にも、わずかに揺れて聞こえた。

 シェリルはそれに気づいたのかどうか、何も言わなかった。ただ、地図を丁寧に畳み直し、引き出しには戻さずに、机の端に置いた。


「……だが」

 ラフィスは、畳まれた地図に目をやった。

「お前がその名前を追うなら、止めはしない。何か分かったら――今度は、真っ先に私に言え」

 今度は、という一言に、シェリルが小さく瞬きをした。

「効率の問題ね」

「何だ、それは」

「あなたに隠し事をすると、後で倍は怒られる。それなら、最初に言うほうが効率がいいわ」

「……そういうことにしておく」


 ラフィスが腰を上げかけると、シェリルが書類の束を引き寄せながら言った。

「もう少し、ここにいて」

「何も手伝えないぞ」

「居てくれればいいの。一人より、二人のほうが捗るから。事実なので」

 ラフィスは鼻を鳴らし、もう一度椅子に深く座り直した。

 ペンが紙を走る音が、静かに続く。窓の外では、雫の落ちる間隔が、少しずつ長くなっていった。

「仕事もいいけどな、アノリスも心配してるぞ。唯一の家族だ」

 シェリルは少し手を止めた。

「――そうね。あなたも家族のようなものだけど」

 やがてシェリルがランプの灯を落とし、二人は執務室を後にして、それぞれの宿舎へ戻った。


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