四 涙と虚勢
エインの尋問を境に、関係機関は慌ただしく動き出していた。
シェリルが毒を盛られたという事実は、その日の午前中こそ師団内を大きく揺るがした。だが、それ以降は箝口令が敷かれ、外部への漏洩は徹底して抑えられた。事件の全容が明るみに出れば、犯人側に与するダルガン派の残党が動きを速める恐れがある――アルヴァンとベルナルトの判断だった。
結果として、アノリスもラフィスも、その日の異変を知ることはなかった。師団の外では、いつも通りの日々が続いていた。
エインの身柄も、いつまでも師団内の尋問部屋に留め置かれていたわけではなかった。毒物混入については、密輸の契約書だけでは不十分で、決定的な証拠がもう一つ欲しいところだった。その矢先、エインが尋問を受けている間に入った家宅捜索で、自室の荷の中から毒の入った小瓶が押収された。中身はポットの水に混ぜられた毒と同じ反応を示し、容器の特徴も契約書に記された品と一致していた。ダルガン連合の軍馬育成施設を巡る汚職に続き、毒物混入の容疑も固まったことで、その身柄は内務省法務局の管轄する正式な勾留施設へと移され、詳細な取り調べを受けることになった。
師団内では、もう一つ、静かな波紋が広がっていた。
ソニアである。
エインが尋問部屋に連れて行かれたきり戻ってこないことに気づいたのは、その日の午後になってからだった。何を聞いても、周囲の反応はどこか歯切れが悪い。
「エインさん、今日はお休みですか?」
そう尋ねても、返ってくるのは曖昧な相槌だけだった。誰も、はっきりとしたことを口にしようとしない。
義父との関係が、決して良好とは言えないことをソニアは自覚していた。あの人当たりの良さの裏に、どこか薄気味の悪いものを感じ取っていたのも事実だ。だからこそ、余計に胸がざわついた。何か、良くないことが起きている――その予感だけが、はっきりと胸に居座っていた。
だが、事情を知る者たちは誰一人として、ソニアに真実を告げようとはしなかった。彼女自身は、この日はまだ尋問の対象にならなかったが、義理の娘という立場上、いずれ何らかの形で事情を聞かれることになるだろう、という見立てだけが、静かに師団の上層部で共有されていた。
ソニアはこの日、いつも通りに任務をこなしながら、拭い去れない胸騒ぎを抱えたまま、一日を過ごすことになった。
その日の夕刻、師団の廊下でソニアは思いがけない相手に声をかけられた。
「ソニアさん」
シェリルだった。朝に毒を盛られたばかりで、まだ回復しきってはいない。だが、それを表に出さず、普段通りの足取りで歩いている。
いつもと変わらない、淡々とした声。周囲の誰もが自分を避けるように接する中で、いつも通りの調子で話しかけてくる。この日、初めてそうしてきたのがシェリルだった。
「あ……シェリル先生。何か、ご用でしょうか」
シェリルはソニアを見た。口元が少し緩んだ。
「先日提出してもらった、神経行列の見立てについてのレポート。あれ、固有値の扱いが丁寧でよかったです。特に、共鳴を起こしやすい方向の絞り込み方」
「あ、ありがとうございます……」
思いがけない褒め言葉に、ソニアは少し戸惑いながら答えた。こんな状況の中でも、シェリルの評価は変わらない。それが、かえって奇妙な安心感をもたらした。
「あなたの分野は、まだ体系立てて書かれたものがほとんどないでしょう。神経魔法に接続する線形代数――行列も固有ベクトルも、いずれ誰かが理論としてまとめるべきものだと思います」
そう言ってから、シェリルは一拍置いた。
「ところで、今日、エインさんの姿を見かけませんが。何か、聞いていますか?」
何気ない問いのようでいて、ソニアの目をまっすぐに見つめる視線には、探るような色があった。
「……いえ。私も、詳しいことは何も。皆さん、はっきり教えてくれなくて」
ソニアは正直に答えた。演技をする理由もなかったし、そもそも本当に何も知らなかった。
「そうですか」
シェリルは短くそう返すと、それ以上は踏み込まなかった。ソニアの表情、声の揺れ、視線の動き――そのどれもに、何かを隠している気配はなかった。少なくとも、義父の企みに加担している様子はない。
「体調が悪かったら、いつでも研究室に来てください。休んでも構いません」
それだけ言うと、シェリルは軽く会釈をして、去っていった。
残されたソニアは、その背中をしばらく見送っていた。何を確かめられたのか、ソニア自身にはまだよく分からなかった。
エインの供述と、ケルティが持ち込んだ密輸契約書、そして押収された小瓶。三つの証拠が揃ったことで、内務省法務局の動きは迅速だった。
国内とはいえ都市をまたいでの逮捕は、本来ならそれなりの手続きと時間を要する。だが今回は、汚職の規模と、王都で起きたばかりの暗殺未遂という事態の深刻さが、通常の速度を押し流した。法務局の役人数名が正式な逮捕令状を携え、ソルペンシアへ発った。
ストヤーマ邸に踏み込んだ役人たちが令状を提示すると、屋敷の空気は一変した。
「はぁ!? 何よこれ、冗談じゃないわよ!」
オルガーノは金切り声を上げ、令状をひったくるように奪い取ると、乱暴に読み上げるように目を通した。
「密輸? 汚職? 私が何をしたって言うのよ、証拠でもあるっていうの!? ふざけないでちょうだい、こんな紙切れ一枚で――」
役人が淡々と手続きを進めようとするたび、オルガーノの声はさらに大きくなった。
「触らないで! この家の女主人に向かって、あんたたち何様のつもり!? そもそもこんな下っ端の役人風情が、私にどうこう言える立場だと思ってるの!?」
使用人たちが青ざめて見守る中、腕を取られてもなお喚き散らし、あろうことか、そばにあった花瓶を蹴り倒す始末だった。割れた陶器の破片が床に散らばっても、詫びの言葉一つ出てこない。
「誰かダリルを呼んで! あの人が何とかするから! ダリル! ダリルはどこ!」
その姿は、これまで裏で糸を引いてきた女とは思えないほど、みっともなく取り乱していた。
一方のダリルは、対照的だった。
「……そうか」
短くそう呟くと、それ以上の抵抗は見せなかった。まるで、この日が来ることをどこかで覚悟していたかのような、静かな諦観があった。役人に促されるまま、大人しく屋敷を後にする。
二人は、それぞれ別の馬車に乗せられ、リーヴィンへと連行されることになった。
道中、オルガーノは終始不機嫌に押し黙り、時折悪態をつくだけだった。対してダリルは、車窓の外を眺めたまま、ほとんど口を開かなかった。
リーヴィンに到着した二人は、それぞれ別室に通され、法廷に立つ前にまず尋問を受けることになった。
オルガーノの尋問は、難航が予想された。
最初から、証拠を見せろ、自分が何をしたと言うのか、と言わんばかりの態度だった。密輸契約書を突きつけられても、「知らない書類だ」「ダリルが勝手にやったこと」と、あくまで自分の関与を認めようとしない。取調官が問いを重ねるたび、オルガーノは新しい言い訳を差し出した。まるで、追い詰められれば追い詰められるほど、より巧妙な逃げ道を探し当てるかのようだった。
一方、別室でのダリルの尋問は、拍子抜けするほどあっさりと進んだ。
「……全部、話します」
取調官が最初の質問を切り出す前に、ダリルの方から口を開いた。密輸の経緯、資金の流れ、オルガーノとの関係。問われるままに、淡々と答えていく。抵抗も、言い訳もなかった。
「もう、隠すことに疲れていたんです」
その言葉には、長年の重荷を下ろしたかのような、奇妙な安堵の色さえ滲んでいた。
エインの拘束から十日。異例の速さで、法廷の日が来た。
法廷は、朝から人の出入りが絶えなかった。窓の外では、朝から降り出した雨が、静かに硝子を濡らしていた。
午前中に開かれたのは、ダリルとオルガーノに対する審理だった。密輸、脱税、不正入札への関与――罪状は多岐にわたったが、審理そのものは、さほど長くは続かなかった。
「申し訳、ございません……本当に、申し訳ございません……」
証言台に立ったダリルは、途中から声を詰まらせ、肩を震わせながら涙を拭った。問われるままに、自分の関与を洗いざらい話す。言い逃れも、抵抗もなかった。裁判官の質問に、涙声で「はい」「その通りです」と答え続ける姿は、既に尋問の段階から一貫していた。
「妻を裏切り、家を、めちゃくちゃにして……全部、私の弱さのせいです」
最後にそう絞り出すと、ダリルは深く頭を垂れた。
一方のオルガーノは、最後まで粘った。
「私は指示を受けていただけです。決定権は全て夫にあって――」
証拠を突きつけられるたびに、言い訳を変え、時には涙ながらに同情を引こうともした。だが、密輸契約書の筆跡、通信記録、そして何より、ダリル自身の証言が、逃げ場を一つずつ塞いでいった。
審理の終盤、ようやくオルガーノの声から力が抜けた。
「……分かりました。全部、私が仕組んだことです」
消え入るような声だった。それまでの威勢はどこにもなく、ただ疲れ果てたように肩を落としている。
二人への処分は、日を改めて言い渡されることとなった。




