三 金と毒と略奪
王都は朝から慌ただしい。
特級術師が毒を盛られ、汚職の容疑者が拘束される。そんな騒ぎは外へは漏れていないが、その王都へ、ソルペンシアからエインの後をつけてきた女が、リーヴィンの城門をくぐっていた。
名を、ケルティという。
かつてこの街で歴史を教えていた女だった。もっとも、それも十年以上も前の話になる。若い頃、リーヴィンの学舎で講師として教鞭を執っていたケルティは、縁あってストヤーマ組の男――現社長のダリルに見初められ、教壇を離れて商家に嫁いだ。
その古い経歴が、今になって思わぬ形で役に立つことになるとは、当のケルティ自身、想像もしていなかった。
王都の城門をくぐるのはあっけないほど簡単だった。元講師という身分は、王都の記録にも残っている。差し出した身分証を、門番はろくに疑うこともなく通した。
だが、ケルティがリーヴィンに足を踏み入れたのは、懐かしさに引かれてのことではなかった。
ストヤーマ組の汚職に関する内偵が進む中で、諜報局が接触候補の名を洗い出していく過程は、思いのほか早く一つの名前に行き着いていた。
ケルティ・ストヤーマ。
商家の記録には、今もその名のまま残っている。だが、ダリルの妻としてストヤーマ組の内側に身を置いていた女は、もうストヤーマではない。長く連れ添った夫婦だったが、その関係を壊したのは他でもないオルガーノだった。
夫を奪われる形で、ケルティは家を追われることになった。組にとっては身内でありながら最早身内ではない。しかも家を追われてから二年も経っていない。内情も知る絶妙な立場にいる人物だった。
諜報局の人間が接触を図ると、ケルティの反応は意外なほど早かった。オルガーノがどんな女か、ダリルがどれほど頼りにならなかったか、ケルティにはよく分かっていた。今さら義理立てする理由など、どこにもない。
ケルティは諜報局員からの聞き取りに、記憶にある限りのことを丁寧に語った。ストヤーマ組の内部構造。清掃業者の入る日取り。そしてオルガーノが本社を空ける曜日と時間帯。かつて妻として、誰よりも近くで見てきた組織の内側が、諜報局員の手元で少しずつ形になっていった。
局員が礼を述べて去っていった後、ケルティは一人、借家で荷物を整理していた。
離縁の際、身の回りの品として持ち出した資料の束――その中に、一枚の書類が紛れ込んでいたことを、ふと思い出す。
急いで束を探ると、それはすぐに見つかった。
密輸に関する契約書だった。輸入品目の欄には、建設現場用の殺虫剤という文字が、素っ気なく記されている。舶来物のそれは、国内で流通するものより格段に強力で、扱いを誤れば人にも害が及ぶと言われるほどの代物だった。一部は自社の現場でも使われていたはずだ。だが、ケルティが記憶している限り、その大半は横流しされ、法外な値で転売されていた。
ケルティは、その紙面をしばらく見つめていた。
(――これがあれば)
聞き取りに来た諜報局員に渡すだけでは収まらない。自分が直接、内務省に突きつけるべきものだ。あの家の人間が、どれほど汚い手を使って金を積み上げてきたか。その証拠を自分の手で明るみに出してやりたい。
その衝動の底には、正義感だけがあったわけではない。追い出された身としての、意趣返しの感情も確かにあった。
そして、嫁いできたソルペンシアを離れ、かつて自分らしくいられたこの王都へ、もう一度――そんな思いも、どこかで重なっていた。教壇に立ち、自分の言葉で誰かに何かを伝えていた頃の自分。あの頃の場所へもう一度戻ってみたい。人生をやり直すための、最初の一歩として。
ケルティは書類を丁寧に鞄へしまうと、身支度を整え借家を出た。
それから幾日も馬を急がせ、ようやくたどり着いた王都で――ケルティは、宿を探しかけていた足を途中で内務省の方へと向けた。まだ午前のうちだった。
内務省の門を、ケルティは迷いのない足取りでくぐった。
「先日、諜報局の方とお話しさせていただいた者です。ストヤーマ組の件で」
受付でそう名乗ると、対応した職員の表情がわずかに強張った。すぐに奥へ取り次がれ、待つほどもなく応接室へ通される。
「ケルティさん、でしたね。今日いらっしゃるという話は……こちらには伺っていなかったのですが」
案内してきた文官が、戸惑いを隠さずに切り出した。
「ええ、突然のことで申し訳ありません。ただ――どうしても、直接お見せしたいものがあって参りました」
ケルティはそう言うと、鞄の中から一枚の書類を取り出し、机の上に丁寧に広げた。
「これは……?」
「密輸の契約書です。日付を見ていただければ分かる通り、二年半ほど前のものになります」
文官が書面に目を走らせる間、ケルティは静かに続けた。
「この話を持ってきたのは、オルガーノです。ダリル――私の元夫は、中身をろくに確認もせずに署名しました。昔からそういう人でした。数字と利益にしか興味がなくて、細部は誰かに任せきり」
書面には、輸入品目として建設現場用の殺虫剤と記されている。だが、その実態が単なる資材の輸入でなかったことを、ケルティはよく知っていた。
「舶来のものは、国内で出回っているものより格段に強力です。自社の現場でも使ってはいましたが、大部分は横流しされ、法外な値で転売されていました。ダルガンの受注どころではない、この密輸そのものが、あの家に大きな利益をもたらしていたはずです」
ケルティの声に、感情の揺らぎはほとんどなかった。淡々と、まるで昔の授業で年号を並べるような調子だった。
「オルガーノがこの取引を主導してから、ダリルは目に見えて彼女に靡くようになりました。そして――私は、家を追われました」
一拍置いて、ケルティは続けた。
「今回の汚職事件が明るみに出たと聞いたとき、これを黙っていることの方が、私には不誠実に思えました。ですから、お伝えしに参りました」
文官が、慎重に言葉を選びながら尋ねる。
「……失礼ですが、これはいわゆる――私怨の面もおありなのでは」
ケルティは、その問いに小さく笑った。
「ええ、その通りです。私憤もないと言えば嘘になります。それで結構です。動機がどうであれ、これが事実であることに変わりはありませんから」
悔いる様子は、微塵もなかった。
文官は書類を丁寧に受け取り、内容を控えると、深く頭を下げた。
「貴重な証言、感謝いたします。この件は上に報告し、正式に――」
その言葉を遮るように、廊下の向こうから、けたたましい足音が近づいてきた。
ただ事ではない速さだった。何かにぶつかったのか、途中で物の倒れる音までする。
応接室の扉が、ほとんど蹴破るような勢いで開かれた。
「し、失礼します……!」
飛び込んできた職員は、息が上がって声にならないほどだった。顔面は蒼白を通り越し、額には玉のような汗が浮いている。手にした書類は、握りしめられて皺だらけになっていた。
「な、なんだ、騒々しい」
文官が眉をひそめる。
「魔法師団本部より、火急のご報告が……!」
職員はほとんど叫ぶようにして、言葉を続けた。
「特級術師のシェリル様が、今朝がた毒を盛られました! 現在、証拠を固めて容疑者の特定を急いでおり、法務局としても至急、状況の把握をと……!」
その一言に、応接室の空気が凍りついた。
文官の顔からも、みるみる血の気が引いていく。
ケルティも、思わず息を呑んだ。
毒。
自分が今しがた机の上に置いたばかりの書類が、脳裏をよぎる。
(――まさか)
偶然だと切り捨てるには、あまりにも符合しすぎている気がした。




