二 尋問
シェリルがポットの水に苦しめられていた、ちょうど同じ頃。
「エイン、少しいいか」
声はベルナルトのものだった。エインは寝台から身を起こし、寝癖のついた髪を軽く撫でつけながら扉を開ける。
「ベルナルト副団長。おはようございます……学会の報告なら、もう少し後だと思っていましたが」
「早いに越したことはないだろう」
ベルナルトの表情はいつも通りに見えた。少なくとも、エインの目にはそう映った。
部屋を出て廊下を歩きながら、エインは笑いを堪えるのに苦労していた。
今頃、あの女は。
朝一番、あの生意気な特級術師が、何も知らずに水を口に運ぶ姿を思い浮かべる。舐めるように水を飲み、喉を通した瞬間には、もう手遅れだ。常温では魔力の網にも引っかからない、感知しようのない毒。誰にも気づかれることなく、あの女はゆっくりと体の自由を奪われ、今頃は一人で執務室の床にでも崩れ落ちているだろう――ざまあないな。
帝国の総帥などと私的に文をやり取りして、良い気になっていたのが運の尽きだ。若さと才だけで特級に成り上がったような女に、この一月、どれほど煮え湯を飲まされてきたか。ようやくその借りを返せる。エインは口の端が緩むのを、必死に引き締めた。
もっとも、自分の企みが露見しているなどとは、夢にも思っていなかった。
案内された部屋には、扉に何の札も掲げられていなかった。だが、机を挟んで向かい合わせに置かれた椅子、壁際に控えるように立つ師団員の姿、そして一人だけ黙々と書き物を続ける、見慣れない制服の男――学会報告の場にしては、あまりに物々しい。
「まあ、座ってくれ」
ベルナルトに促され、エインは椅子に腰を下ろした。多少の違和感を覚えながらも、表には出さない。
「まずは学会、ご苦労だったな。魔法金属の会合はどうだった」
「ええ、実りのある会でしたよ。技術者たちの議論も刺激になりました」
エインは、用意しておいた感想を淀みなく並べた。人前での受け答えには慣れている。嘘をつく必要さえない――学会に出たこと自体は、事実なのだから。
「そうか。お前さんは、ソルペンシアは初めてだったか?」
「いえ……何度か。仕事の関係で、時々訪れる街ですので」
答えるまでに、ほんの一拍の間があった。ベルナルトは何も指摘せず、ただ軽く頷いて、視線を机の上に落としたままにしている。
「ほう、そうか。案外馴染みがあるんだな」
ベルナルトは軽く相槌を打ちながら、世間話を続けた。
「学会となると、参加者はどのくらいの規模なんだ。この辺じゃあんまり聞かない催しだからな」
「上級以上が対象ですので、そこまで大人数ではありませんね。三十人といったところでしょうか」
ベルナルトは感心したように顎に手を当てた。その視線が一瞬だけ、エインの膝の上に置かれた手へ落ちる。
「なるほどな。滞在は何日くらいだ」
「今回は三日ほどでしたが……」
答えながら、エインの中でわずかな違和感が芽生え始めていた。学会の規模、日数、宿泊先。それにしては、質問がやけに具体的だ。だが、それを口にする前に、ベルナルトの声の調子が変わった。
「ところで、最近羽振りがいいらしいな。師団のもんが何度か見かけてる。高そうな店に出入りしてるとか」
世間話の延長のような軽い口調だった。だが、こちらを見る目だけは、少しも笑っていない。
「……何のことだか。心当たりがありませんね」
エインは眉ひとつ動かさず、肩をすくめてみせた。
「照れることはないだろう。景気のいい話は結構なことだ」
「私生活のことですので。お答えする必要はないかと」
エインは笑みを崩さずに答えた。表向きは、それらしい男の余裕。
ベルナルトは特に食い下がらず、懐から一枚の書類を取り出し、机の上へ静かに滑らせた。
「これは何だ」
書面に目を落とした瞬間、エインの肩が微かに強張った。だが、それも一瞬のことだった。
「さあ……何でしょうか。見覚えがありませんが」
平静を装った声だった。だが、ベルナルトはその一瞬の強張りを見逃してはいなかった。
次の瞬間。
「――っ!」
ベルナルトが立ち上がりざま、片足を勢いよく机の上に叩きつけた。ドン、という重い音が室内に響き渡る。
「とぼけるのも大概にしろッ!!」
怒声が飛んだ。それまでの穏やかな空気は消え失せ、ベルナルトの目には、はっきりとした怒りが宿っていた。
だが、その後は――一息に捲し立てるような真似はしなかった。
ベルナルトは懐から銀の懐中時計を取り出し、蓋を開けて机の上に置いた。時を刻む細かな音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。
「日時。七月二十九日、夜半前」
針を一瞥し、淡々と読み上げる。
「場所。ストヤーマ組本社、裏口。扉を三度叩き、女の手で開けられた。滞在は半刻ほど」
エインの指が、膝の上でぴくりと跳ねた。見られていた。あの夜、あの裏口で。
「相手。経理部長、オルガーノ・ストヤーマ」
カチ、カチ、と針の音だけが進んでいく。
「品。外交省の内部文書。金属材の話じゃない。ダルガンの軍馬育成施設、その受注に関わる中身だ」
喉が、ひくりと動いた。写し。内容まで、知られている。
「見返り。ダイガモールの腕輪。ダルガン連合内務局のグルッグ・モーガは、それ一つで落ちた。……そこまで書いてあるな」
言い終えると、ベルナルトは時計の蓋を、静かに閉じた。カチリ、と小さな音がした。
まるで石を一つずつ積み上げていくように、ベルナルトは事実を並べていった。感情のままにまくし立てるのではなく、逃げ場を一つずつ塞いでいくような、静かな圧力を伴って。
「これでもまだ、心当たりがないと言うつもりか」
エインの喉から、掠れた息だけが漏れた。反論の言葉は、出てこなかった。
そのときだった。
廊下の向こうから、荒い足音と共に、悲鳴に近い声が響いた。
「副団長っ! シェリルさんが――!」
エルナだった。血の気の引いた顔で、尋問室の扉を叩くように開ける。
室内の空気が、一変した。
「何があった!」
ベルナルトが振り返り、鋭く問う。
「執務室で、水を……毒を、盛られたみたいで……! 今、意識が――」
言葉にならないまま、エルナは肩で息をしていた。
尋問室の中に、緊迫した空気が満ちる。
その只中で、エインだけが違う思考を巡らせていた。
――死んだか。
狙い通り、あの女は片付いた。だが。
こんなタイミングで。
自分がまさにこの部屋で問い詰められている、その最中に。都合が悪すぎる。エインの背筋に、冷たいものが走った。
ベルナルトは一瞬だけ視線をエインに戻し、書き物をしていた男へ目配せした。
襟に内務省の紋章を留めたその男が、筆を置いて立ち上がる。
「内務省法務局の者です。エイン・ドルッセ。ストヤーマ組との癒着、およびダルガン連合を巻き込んだ汚職の容疑により、あなたの身柄を拘束します」
抑揚のない、事務的な声だった。壁際に控えていた師団員たちが音もなく動き、エインは両脇から腕を取られて椅子から引き立てられる。
「毒の件は、別だ」
ベルナルトは、エインに向けてというより、自分に言い聞かせるように呟いた。
「やったのがお前だという証拠は、今のところ何もない。だが、汚職の方は十分すぎるほど揃っている。……連れていけ」
それだけを言い残し、ベルナルトはエルナを伴って部屋を飛び出していった。
残されたエインは、何も言い返せなかった。
ベルナルトとエルナが執務室に駆け込むと、シェリルは椅子に身を預けるようにして座っていた。
意識は、先ほどよりはしっかりしている。だが、机の上には払いのけられた羊皮紙が散乱したままで、あれだけ表情を崩さないシェリルが、どこか焦点の定まらない目をしていた。
傍らのコップには、まだ水が残っている。本当は喉を潤したいところだったが、今はあの透明な液体を見るだけで、身体が拒むような感覚があった。
「すみません……今日は研究、という感じでは、なくなってしまいましたね」
シェリルは掠れた声で、いつもの調子を取り戻そうとするように言った。
「あ、私は大丈夫です。少し、考えましたが……私に毒を盛ったのは、恐らく――」
「――それ以上は言わないでいい」
ベルナルトが、静かにシェリルを制した。
「聡明なお前のことだ、察しはついているんだろう。だが証拠が揃うまでは、口にしないことだ」
そう言ってから、ベルナルトはシェリルの様子を確かめるように見つめ、大きく息を吐いた。
「それにしても……大事には至らなかったか。よかった。……本当に、よかった」
安堵の言葉を漏らした、その直後だった。
「あの野郎……断じて、許せん」
低く呟かれたその一言は、結局のところ、犯人が誰であるかをベルナルト自身の口から言ってしまっているようなものだった。
シェリルは小さく息をつくと、まだ焦点の定まらない目を、それでも意志の力でエルナへと向けた。
「エルナ……毒の種類、大体の見当はつきました。もし、解毒魔法をかけてもらえるなら――お願いできますか」
「はい、すぐに!」
エルナは迷いなく頷いた。何の毒か、その正体をエルナ自身が把握しているわけではない。だが、シェリルの見立てが誤っているところを、エルナはこれまで一度も見たことがなかった。信頼するシェリルの言葉を、そのまま信じればいい。それだけで十分だった。
エルナの手のひらに、解毒の術式が編まれていく。淡い光がシェリルの身体を包み込み、しばらくすると、強張っていた肩から力が抜けていくのが分かった。血の気の失せていた顔にも、少しずつ色が戻ってくる。
「……大丈夫そうです。効いてます」
シェリルは小さく呟き、詰めていた息を吐き出した。
快方へ向かっているのが、傍から見ていても分かるほどだった。
「今日は……私、近くにいましょうか?」
エルナが、様子を窺うようにそう尋ねる。
だが、シェリルはゆっくりと首を横に振った。
「ごめんなさい……ちょっと、一人にして、もらえますか」
その声には、拒絶というよりも、疲れ切った者の静かな願いがにじんでいた。




