一 水受け
八月三日、夜。
エインがリーヴィンの南門をくぐったのは、とうに日が落ちた後のことだった。途中、思わぬ荒天に足止めを食い、予定より一日遅れての帰着だった。松明の下で立哨する門番は、旅装の中年男を一瞥しただけで名と行き先を型通りに問うと、あとは欠伸を噛み殺しながら通行証に目を落とすだけだった。
さて、と歩きながら思う。イリッサたちは、うまくやってくれているだろうか。
こちら側についた師団内の女たちには、しばらく前から仕込んである。帝国寄りの噂を絶やさぬこと、疑わしい発言をする者があれば逐一報告すること。この一月で、あの女――シェリルとかいう特級術師への風当たりは、確かに強まっているはずだった。エインの見立てでは、あとひと押しで、あの女は師団内で孤立する。孤立すれば、排除は容易くなる。
もっとも、その「ひと押し」の中身までは、エインは知らない。イリッサが訓練場でどんな啖呵を切り、どれほど無様に叩きのめされ、謹慎処分を受けたか。そんなことはソルペンシアの土を踏んでいる間に起きたことで、伝わってくるはずもなかった。エインの頭の中には、いまだ従順に自分の指示を待つ女たちの姿しかない。
だが、そんなことよりも今は。
――あの女だ。
シェリル。帝国の軍総帥と私的に文をやり取りしているという、あの目障りな特級術師。
もともとは、それだけの女だった。師団内で孤立させ、立場を失わせれば、それで十分だと思っていた。工作というのは、そういうものだ。相手を殺す必要はない。信用を削り、居場所を奪えば、あとは向こうが勝手に崩れていく。
だが、ソルペンシアでオルガーノから改めて聞かされた金の額――ダルガンとの商談がもたらす利の大きさを、数字として突きつけられたとき、エインの中で何かが動いた。あの女がヴォルテナ帝国と通じている限り、商談そのものが根から揺らぎかねない。噂だけでは足りない。失脚などでは生ぬるい。芽は、根から絶っておくべきだ。
いつからそう考えるようになったのか、エイン自身にもよく分からなかった。ただ、リーヴィンへの道中、馬に揺られながら考えていたのは、もはや師団内での評判の話ではなかった。
宿に着いても、エインはろくに眠れなかった。ソルペンシアでの成果――いや、成果と呼ぶにはまだ早い。オルガーノに渡した資料も、あの女への手も、まだ何一つ結果を見ていない。だが遠からず、金は動く。動けば、この一月の苦労も報われる。
ただその前に、片付けねばならないことがある。
夜明け前、まだ師団の敷地に人影の見えない時刻を選んで、エインは動いた。
目当ての場所は分かっている。師団の一角、魔法で常に冷やされた保冷庫。師団の者たちが飲み水を確保しておくための場所で、朝一番に誰かが汲みに来るまでは、たいてい静まり返っている。
保冷庫の扉を開けると、冷えた空気が頬を撫でた。並んだ水受けポットの中に、目当てのものはすぐに見つかった。
紫のリボンが一つ、取っ手に結ばれている。あの術師の部屋のポットだ。
誰の趣味か知らないが、目印をつけておいてくれたことに、エインは内心で薄く笑った。都合がいい。他のポットと間違えて、無関係な者に手を出す危険もない。
懐から小瓶を取り出す。ソルペンシアから、誰の目にも触れさせずに持ち帰った品だった。
中身は、常温では魔力の網に一切引っかからない代物だ。冷えたままのポットの水に混ぜてしまえば、誰にも気取られることなく、ただの水として口に運ばれる。
蓋を開け、紫のリボンのポットへ、小瓶の中身をゆっくりと注ぎ入れる。液体は水に溶けて、色も匂いも変えなかった。エインはポットを軽く揺すって中身を混ぜると、何事もなかったかのように蓋を戻し、元あった位置へと戻した。
保冷庫の扉を静かに閉める。
これで。
これで、憎きあの女も――
エインは踵を返し、まだ誰も起き出していない廊下を、来たときと同じ静けさで去っていった。
夜明け前、ソルペンシアからエインの後を追い、幾日も馬を急がせてきた一人の女もまた、リーヴィンの城門をくぐっていた。
旅装は質素で、荷物も少ない。だが背筋の伸びた立ち姿には、どこか堅気の勤め人めいた品があった。差し出した身分証に、門番は特に不審の色も見せなかった。検問はあっけないほど早く終わり、女はそのまま雑踏の中へと足を踏み入れた。
問題はなかった。
女は胸の内でただそれだけを確かめると、宿を探して歩き出した。その足取りには、迷いというものがなかった。
朝、エルナはシェリルの執務室へ向かう前に、給湯室へ寄った。冷えた保冷庫から紫のリボンの結ばれた水受けポットを取り出し、外側に浮いた露を布で払う。それが毎朝の習慣だった。
「おはようございます」
執務室の扉を開けると、シェリルは既に机に着いていた。
この二人は週に三度、共同研究の時間を持っている。テーマは微分方程式の回復魔法への応用――回復魔法とは言っても、術式が発動してから治癒まで瞬間というわけではない。数秒という時間経過と共に負傷や損傷を治していく術式の理論的な構造が微分方程式と相性が良い。
だが突き詰めればもう少し重い話にもなる。この理論を用いれば、負傷者が助かるのか、助からないのか、その判定さえも算術で記述できてしまうのだ。
「今日もよろしくお願いします」
「よろしく」
短く挨拶を交わすと、エルナはポットからコップへ水を注いだ。二人分。見た目には、何の変哲もない水だった。
今日の議題は、その「判定」の核心に近いところだった。治癒魔法を施したところで、もはや効果を発揮しない状態――これを算術上どう「死」として記述するか。エルナが持参した草稿を机に広げ、議論はそこから始まろうとしていた。
先にコップへ口をつけたのはシェリルだった。
水が舌に触れた、その瞬間。
冷たさの奥に、かすかな苦みがあった。いや――苦みというより、錆びた鉄を舐めたような、ざらついた後味。
(――違う)
思考より先に、身体が拒んだ。
「――っ、ぐ……ぅっ!」
シェリルは机の紙を全て払いのけ、口の中の水を勢いよく吐き出した。コップだけは倒さず机に置いたまま、喉を押さえて身体を折る。
「先生っ?」
エルナの声が、ひどく遠くから聞こえた。すぐ隣にいるはずなのに、分厚い硝子を一枚隔てたように、輪郭がぼやけて響く。
舌の先から、唇へ。唇から、頬へ。痺れが、じわりと滲むように広がっていく。
(口から。すぐに吐いた。量は――)
頭の中で、いつものように式が組み上がろうとする。進行の速さ。広がる範囲。越えてはならない閾値。だが、組み上がりかけた式は、次の瞬間には崩れていった。変数が定まらない。何を測ろうとしているのかさえ、指の間から零れ落ちていく。
「し、びれ……手が、動かな……」
机の縁を探る指先が、自分のものではないように思えた。触れている感覚はある。けれど、それが机なのか、紙なのか、自分の手なのかすら、判然としない。
視界の端から、色が抜けていく。
「先生、しっかり――」
「目、が……」
エルナは、目の前の光景が信じられなかった。
どんな難題を前にしても、眉ひとつ動かさずにペンを走らせる人だった。国王臨席の講義の場でも、この人が取り乱すところなど一度も見たことがない。
その人が今、焦点の合わない目で宙を見つめ、震える指で机を掻いている。
エルナはとっさに治癒魔法を展開した。だが、傷を塞ぐための術式は、この症状にほとんど反応しなかった。解毒魔法という手もある。けれど毒の正体が分からなければ、的確に打ち消すことなどできない。
治癒魔法を施したところで、もはや効果を発揮しない状態――今日、二人で議論するはずだった「判定」の言葉が、エルナの脳裏を冷たくよぎった。
「誰か……! 誰か来て、先生が――!」
エルナは扉に取りつき、廊下へ向かって叫んだ。声は震えていた。
時間が、引き伸ばされていた。
一秒が、ひどく長い。吸った息が肺の底に届くまでに、果てしない間がある。シェリルは痙攣にも似た震えに身を任せたまま、机に突っ伏し、ただ呼吸だけを数えた。
一つ。二つ。三つ。
数えられる。まだ、数えられる。
「……大丈夫」
息も絶え絶えに、それでも言葉を絞り出す。
肺の中の空気を、無理やりにでも整えるように。何度も、何度も。
痺れはまだ全身に居座っていた。だが――広がる速度は、少しずつ、鈍くなってきている。
(広がりが、止まりかけてる。……入った量が、少ない)
崩れかけていた式が、ようやく一つだけ、形を取り戻した。
「飲み込んで、ない。毒を……盛られてる。エルナ……絶対に、飲んじゃ、だめ」
エルナは駆け寄り、震える手でシェリルの背中をさすった。何か言おうとしても、言葉にならなかった。
長い、長い数十秒が過ぎた頃。
ようやく、荒かった息が、少しずつ整い始めた。遠のいていた音が、ゆっくりと耳に戻ってくる。窓の外で鳴く鳥の声。エルナの、しゃくり上げるような息遣い。
顔を上げたシェリルの額には、玉のような汗が浮いていた。
しばらくして、痺れが幾分か引いたのか、シェリルは震える手でコップに残った水を少量、机の上にあった白紙の羊皮紙に含ませた。指先に小さく熱の術式を灯し、その羊皮紙をゆっくりと炙る。
紙の色が、紫に変わっていく。
「熱を、掛けないと……感知に、引っかからない毒……」
シェリルは掠れた声で呟き、それから小さく息を吐いた。
「これに、気づけないなんて」
その声には、毒を盛られたことへの恐れよりも――むしろ、それを事前に見抜けなかったことへの、静かな苛立ちと落胆がにじんでいた。
ただ、羊皮紙を押さえる指先だけが、まだ小さく震えていた。




