九 予感
八月初頭――ラフィス、トーマはダルガン連合からの軍馬の視察を終えて帰ってきていたが、それぞれの持ち場で「派閥」とか、「金が動いている」とか奇妙な話が後を絶たなかった。これは異変だ。ラフィスはシェリルを呼びつけ、トーマと共に人目を避けるようにして、路地の奥にある古びた喫茶店へと入った。
奥の席に落ち着くなり、ラフィスは椅子に腰を下ろすことすらもどかしいという様子で開口一番、声を荒げた。
「この一ヶ月一体何があったんだ! どうなってるんだ!」
握りしめた拳が、そのままテーブルに叩きつけられそうになる。その寸前、トーマが咄嗟に手を伸ばし、ラフィスの腕を押さえた。
「――ちょ、ちょっと、落ち着いてください」
「これが、落ち着いていられるか!」
ラフィスの声には、抑えきれない苛立ちがはっきりと滲んでいた。ダルガンから戻ってきて早々、身に覚えのない疑いをかけられ、しかも師団内には得体の知れない噂が渦巻いている。事情も分からないまま振り回され続けた一日の終わりに、堪忍袋の緒が切れかけていた。
「ちょっと将軍落ち着いてください――でも……本当に、何があったんですか」
トーマもまた、ラフィスの腕を押さえた手を放して、切実な声でシェリルに問うた。
「――ええ、順を追って話すわ」
シェリルは、静かに切り出した。
エインという男の汚職。ダルガン連合の軍馬育成施設の受注を巡る工作。そして、その工作の一環として自分自身が「帝国に通じている」という濡れ衣を着せられ、師団内から排除されかけていたこと。
語り終えたところで、ラフィスが、ふと思い出したように眉をひそめた。
「そういえば出発前――あまり見たことのない中年の男に、絡まれたことがあったな。魔法師団の制服を着ていた。『ダルガンから帰ってきたら、色々聞かせてください』とか言って、妙な笑い方をしていた」
いかにも何かを企んでいそうな怪しげな空気を醸していた。ラフィスから見たら中年の気色悪い男でもあった。
「それが、エインよ」
シェリルが、静かに告げた。
「――は」
ラフィスの表情が一瞬にして険しくなった。再び拳に力が入るのを見て、トーマが慌てて肩に手を置いた。
「落ち着いて下さい。ここは店の中です」
「――分かっている」
ラフィスは、大きく息を吐き、無理やり肩の力を抜いた。それでも、目の奥にくすぶる怒りの色までは消えなかった。
シェリルは、相手がラフィスという将軍という身分でありながら、物怖じせずに感情を抑え込ませているトーマの姿を興味深そうに見ている。
「あの男が」
「事実として、あなたたちへの疑いも、根はおそらく同じところにあるわ」
シェリルは、あくまで淡々と続けた。
「私自身も、帝国に通じているという濡れ衣を着せられていた。幸い、大事には至らなかったけれど、この件が完全に片付くまで、私は決して安全な立場ではないの」
「――シェリル、そんな目に、遭っていたのか」
ラフィスの声から、先ほどまでの荒々しさが薄れ、代わりに静かな怒りが滲んでいた。
「けれど、心配しないで。事実を積み重ねていけば、いずれ決着はつくわ。今は、慎重に動くべき時期というだけ」
トーマは、黙って話を聞いていた。ダルガンから帰ってきてからというもの、自分自身にも「ダルガン派ではないか」という根拠のない疑いがかけられていることは、既に痛感していた。だがその裏に、これほど大きな企みが動いていたとは、想像もしていなかった。
「俺たちも、変な噂に巻き込まれてるんだ。内務省の連中から、妙な接触もあってな」
トーマが、重い口を開いた。
「あなたたちへの疑いもしばらくは続くかもしれない。心当たりが無いことばかりでも、慎重に行動してほしいの」
シェリルは、静かに頷いた。
ラフィスは、しばし黙考してから、静かに口を開いた。
「――分かった。だけど」
少し強い口調で続ける。
「お前自身の身の安全は、どうなんだ。狙われているというなら、なおさらだろう」
ラフィスはシェリルに身を乗り出して、戦友の無事を案じた。
「気味が悪いのは事実、慎重に対処していくわ。それに、私には頼れる人たちがいるもの」
シェリルは、いつも通りの淡々とした調子で答えた。
三人がそれぞれの宿舎に散った後、夜半過ぎにリーヴィンの南門を一人、馬を伴って入っていった。
その頃、月華亭のホールは、いつも通りの賑わいを見せていた。
「なあなあ、姉ちゃん、今日一杯どう?」
受付に立つアノリスに、屈強な体格をした男が馴れ馴れしく声をかけてきた。酒の匂いを漂わせながら肩に手を回そうとしてくる。
「あら、お客様。お戯れが過ぎますよ」
アノリスは慣れた所作でその手をひらりとかわし、笑顔のまま距離を取った。
「今日はどの子をご指名されますか? それとも、私じゃ不足でしょうか」
「――いや、お前でもいいんだけどよ」
「お上手ですこと。でも、うちにはもっと上手な女性が揃っておりますので」
いつもの調子で軽くいなし、次の対応に移る。
ホールの奥では、既にほろ酔いの客が一人、指名した女に絡んでいた。
「――なあ、個室行く前に、もうちょっとこう……」
度を超えたスキンシップを求める手が、女の腰のあたりを這おうとする。
「お客様、それは個室でのお楽しみに、取っておいてくださいね」
女が、やんわりと、それでいて確実に押し留めていた。この程度のやり取りは月華亭では日常茶飯事だった。アノリスも、周囲の女たちも、慣れたものだった。
夜の喧騒に紛れながら、アノリスはいつも通り、てきぱきと立ち回っていた。
だが、ふと。
(――なんだろう、この感じ)
理由のはっきりしない、漠然とした不安が胸の奥をよぎった。仕事の合間、ふと手が止まる。誰かに呼びかけられたような気がして振り返っても、そこには誰もいない。
姉の身に何かが起きているのではないか? そんな根拠のない予感が、拭っても拭っても、胸の奥に居座り続けていた。
アノリスは小さく息をついて、その不安を振り払おうとした。だがその夜、月華亭の灯りの下で彼女の胸騒ぎは、いつまでも静まることがなかった。
思えばこの七月は、目まぐるしい一月だった。
月華亭の帳簿に密かに動いた、金貨の異常な流れ。そこから始まった一人の男の汚職の全容。証拠を求めて泳がされ続けた、長い日々。
シェリルには、個人的な学術的好奇心から始まったガルデウスとの書簡が、いつしか「帝国に通じている」という濡れ衣が着せられていた。師団の陰で暗躍を続けたエイン。その手先となり憎悪のままに動き続けたイリッサ。突如として始まった決闘は、皮肉にも、噂を払拭する決定打となった。
そして、遠くダルガンの地でも、静かに、しかし確実に、汚職の根は張り巡らされていた。
これほど多くの出来事が、たった一月の間に折り重なっていたことを、この場にいる誰一人として、まだ全容までは把握していなかった。
そんな激動の七月は、既に過ぎ去っていた。




