八 厄介者の影
翌日、エインは魔法金属学会に出席していた。
だが、その意識は、完全に上の空だった。壇上で交わされる専門的な議論も、周囲の熱心な聴講者たちの様子も、まるで頭に入ってこない。
(――これで、またしばらく、金がたんまり入ってくる)
昨夜の密談の首尾は上々だった。ハースンの用意した内部文書はオルガーノを大いに満足させた。
献金は今後も続く。あの女の期待に応え続ける限り、自分の懐は潤い続ける。そう思うと、学会の退屈な時間も、さして苦にはならなかった。
同じ頃、ストヤーマ組の本社では、いつも通りの業務が営まれていた。
オルガーノはこの日、不在にしていた。毎週決まったこの時間、私的な会合のために席を外すのが、彼女の常だった。
そこへ、定期の清掃業者が姿を現した。
「お世話になります。清掃に伺いました」
受付の者が、怪訝な顔をした。
「あら? 清掃は三日後の予定では」
「そのはずだったんですが。いつもの担当が、急な用で数日ほど不在になりまして。急遽、日程を振り替えさせていただきました」
「ああ、そういうことね。ご苦労さま」
受付は、何の疑いもなく、その説明を受け入れた。清掃業者の身なりも、道具も、いつもと変わりない。
誰一人として、この男に不審を抱く者はいなかった。
だがこの男は、正規の清掃業者ではなく――諜報局のスパイだった。
男は、慣れた様子で各所の清掃を進めていった。そして、ある一室の鍵を受け取る。
裏の応接室――昨夜、エインとオルガーノが密談を交わした、あの部屋だった。
この部屋は、他のどの部屋とも繋がっておらず、鍵がなければ立ち入ることができない造りになっていた。定期清掃の際にのみ、業者が鍵を借りて中へ入る。次の清掃は本来、三日後の予定だった。
オルガーノが、証拠となる書簡を一時的にこの部屋へ置いたまま外出したのも、そうした油断があったからに他ならない。密室であり当面誰も入らない。ならば、安全だと踏んだのだろう。
だが、その「誰も入らないはずの一日」をスパイは正確に突いていた。オルガーノが席を外す時間も、清掃の振り替えという口実も、すべては綿密な監視の上に組み立てられていた。
男はまず何食わぬ顔で、通常の清掃に取りかかった。床にモップをかけ、調度品の埃を払っていく。傍目には、ごく普通の清掃作業でしかなかった。
だが、ひと通りの掃除を終えると、男の動きが変わった。
部屋の本棚へと歩み寄り、その一冊一冊を、素早く、しかし丁寧に検めていく。
――あった。
エインが昨夜持ち込んだ、あの書簡だった。ハースンが用意した外交省の内部文書。汚職の動かぬ証拠となる一通が、書棚の奥に、無造作に紛れ込ませてあった。
男は、原本を持ち去るような真似はしなかった。それをすれば、いずれオルガーノが異変に気づき、警戒を強めることになる。
代わりに、男は懐から筆記具と紙を取り出すと、書簡の内容を、一字一句、正確に書き写し始めた。差出人、宛先、日付、そして汚職の全容を示す本文――そのすべてを、寸分の狂いもなく紙面へと写し取っていく。
書き終えると、男は原本を、元あった場所へ、寸分違わず戻した。これで、オルガーノが証拠の抜き取りに気づくことは、まずない。
一連の作業は、静かに、そして手際よく完了した。
「――終わりましたー。お邪魔しました」
男は、何事もなかったかのように声をかけ、悠然と本社を後にした。
建物を出てしばらく歩いたところで、男は懐から手帳を取り出し、短くメモを走らせた。
「内容書写完了。原本は現状維持。異常なし」
それから、男は街外れの目立たない一角で待たせておいた早馬に飛び乗ると、一路リーヴィンを目指して駆け出した。書き写した証拠を、その懐に携えて。
その頃、ダルガン連合の内務局では、ある男が一人、執務室に籠もっていた。
グルッグ・モーガ。連合内務局の参謀を務める男だった。
その机の引き出しの奥に、あの腕輪が仕舞われていた。魔法金属ダイガモール製、最高級の一品。グルッグは、時折それを取り出しては、満足げに眺めていた。
(――悪くない話だった)
長年、内務局に勤めてきたが、こうした役得にありつく機会はそう多くない。むしろ、これまでが割に合わなさすぎた――グルッグは、そんなふうに考える質の男だった。
机の上に広げた書類に目を落とす。連合内の軍馬育成計画に関する内部資料だった。本来であれば、外部に漏らすことなど、あってはならない代物だった。
だが、この情報をエレシアの某所へ流すことが、あの腕輪への対価だった。
グルッグは、慣れた手つきでペンを走らせ、写しを作成していく。良心の呵責など、微塵も感じさせない、淀みない筆致だった。
(うまく立ち回れば、これだけでは終わらないだろう)
一度この手の話に乗ってしまえば、次の機会も、その次の機会も、自然と巡ってくる。グルッグは、むしろこの状況を好機とすら捉えていた。
書き終えた写しを封筒に収める。次に接触してくる者へこれを渡す手筈になっていた。
一方、連合内の調達委員会では、また別の動きがあった。
調達に深く関わる人物の一人、サラナクという男に、内々に接触が図られていた。金銭では靡かない清廉で知られる人物だった。
だからこそ、狙いは金ではなかった。
「――貴殿の功績を、正当に評価する場を、我々が用意できるかもしれません」
そう囁く声があった。名誉、地位、後世に残る功績――金銭とは異なる種類の欲望を、静かに、しかし着実に刺激していく。
サラナクが、その甘言にどう応じるかは、まだ分からなかった。だが、じわじわと確実に、その根は連合内部の奥深くにまで、伸び始めていた。
国境を越えた汚職の網は、こうして静かに、しかし着実に、その版図を広げつつあった。
エインがソルペンシアを発つ朝、見送りに、オルガーノが姿を見せた。
「もうひと息ね」
オルガーノは、いつもの冷たい光を宿した目で、エインを見つめた。
「あとは、頼みましたよ」
「ええ、抜かりなく」
エインは頷いた。それから、ふと思い出したように付け加えた。
「こちらでも、片付けなければならないことがありましてね」
「――片付ける?」
「ええ。帝国に肩入れしている者が、師団内にいるんですよ。おかげで、ダルガン連合への工作が少々複雑になっている。厄介な者がいましてね」
エインの口元に、昏い笑みが浮かんだ。
オルガーノは、それ以上深くは訊かなかった。師団内の些事に、興味はなかった。
「――まあ、あなたのやり方に、口を出すつもりはないわ」
彼女は静かにそう言い、馬上の人となったエインを見送った。
だが、オルガーノの知らないところで、エインの荷物には、一つ、余計なものが紛れ込んでいた。
小さな瓶だった。旅の道具に紛れさせ、一見しては何なのか分からない、ごくありふれた見た目をしている。
だがそれを鞄の奥に忍ばせたのは、昨夜、誰の目も届かない時間を見計らってのことだった。
普段は建設現場で使われるものだが、規格外に強い薬品――密輸品だった。
倉庫の片隅にまとめて仕舞われていたもの。オルガーノにも、他の誰にも気づかれぬよう、エインは静かにそれを懐へ収めていた。
蹄の音が、朝靄の中に遠ざかっていく。エインはソルペンシアを後にし、リーヴィンへの帰路についた。
それから、半日ほどが経った頃だった。
一人の女が、静かに馬の向きを、リーヴィンの方角へと定めていた。
エインの後を追うように。
その胸の内には、長年冷え固まった怒りと、譲れない一つの決意だけが、静かに息づいていた。




