六 噂、吹き飛ぶ
たまたま空いていた大訓練場に、二人は移った。
血気盛んに先を行くイリッサと、何となくその後をついていくシェリル。対照的な二人の後に、アノリスを含む野次馬の群れが、ぞろぞろと大移動していく。
シェリルが帝国と通じているという噂は局所的に深く広がっていた。よって知らない者もそれなりにいたのだが、この場で噂は更に広がっていく。野次馬の間にも俄かにシェリルに対して疑念が沸いているのが分かる。
イリッサは、確信していた。
(――ここで、あの女を決定的に蹴落とせる)
衆人環視の中で叩きのめし、噂に決定的な信憑性を与える。そうすれば、あの女は師団に居場所を失う――そう信じて疑わなかった。
だが、集まったギャラリーの反応は、イリッサの期待とは、まるで違うものだった。
「――なあ、なんでこの二人がやりあうんだ?」
「特級術師様の方は、なんか付き合わされてる感じにしか見えないんだが」
「稽古にしては、随分と横柄だな。前に立ってる方が」
口々に交わされる囁きには、明らかにイリッサへの冷ややかな視線が混じっていた。誰の目にも――シェリルへの悪評を信じている者にとっても――この構図は不自然に映っていた。片方は殺気立ち、もう片方はまるで散歩の途中のような顔をして立っている。
シェリルは、訓練場の中央で、イリッサと対峙した。
(――これは、力の差が歴然としすぎているわね)
相手の魔力量、術式の練度、展開速度――一目見ただけで、シェリルにはすべてが分かった。その気になれば、殺害することすら容易い。
問題は、どうやって終わらせるか――勝つことは、造作もない。だが、勝ち方を誤れば要らぬ禍根を残すことになる。相手を再起不能にするわけにもいかず、かといって、中途半端に手加減すれば、この騒ぎはいつまでも尾を引く。
(まずは、相手の術を全部防ぐことから)
シェリルは、そう方針を定めた。
ギャラリーの数は、時間が経つにつれてさらに膨れ上がっていった。その中には、いつの間にかカイルとエルナの姿もあった。
すでに男女の関係になっていた二人並んで、心配半分、興味半分という面持ちで訓練場を見つめている。
その姿を目ざとく見つけたアノリスが、にんまりと笑みを浮かべて近づいていった。
「――おっ、なになに」
わざとらしく肘で小突く。
「二人揃ってお出ましとは、まぁラブラブでよろしい、よろしい」
「う、うるせえよ!」
カイルが、顔を赤くして声を裏返らせた。
「たまたまだ、たまたま! 通りかかったら騒ぎになってたから来ただけで」
「へえ?、たまたまねぇ」
アノリスは、含みたっぷりに相槌を打った。隣のエルナは、耳まで真っ赤にして俯いている。
「ま、いいけどさ。仲良いのは結構なことだし」
「だから、そういうんじゃねえって!」
顔から火が出そうな二人を残して、アノリスは満足げに視線を訓練場の中央へと戻した。姉の身を案じる緊張感の中にあっても、こういう茶々を入れる余裕は失わない――それがアノリスらしさだった。
さらにその後方には、先ほどから様子を窺っていたベルナルトに加え、いつの間にか師団長アルヴァンの姿までもがあった。
二人は、静かに事の成り行きを見守っていた。
「――行くわよ!」
イリッサが、声を張り上げた。
次の瞬間、彼女の周囲に、赤い光が渦を巻いた。
やがてその光は渦巻く炎、更にはそれに加えて瞬く間に巨大な火球が膨れ上がり、容赦なくシェリルへ向けて放たれる。さらにその軌道に絡ませるようにして、雷撃が幾条も走った。炎を主軸に、雷を織り交ぜた複合攻撃だった。
シェリルは、一歩も動かなかった。
火球が眼前に迫る、その寸前――空間にわずかな歪みが生じ、炎はそこで完全に押し止められた。防御術式だった。展開のタイミングも、範囲も必要最小限。過不足のない、完璧な精度だった。
雷撃もまた、同じ壁に阻まれ、四散していく。
「――なっ」
イリッサが、目を見開いた。
だが、それで止まるはずもなかった。次から次へと術式を叩き込む。炎、雷、そしてまた炎。がむしゃらに、力任せに。
そして、そのすべてがシェリルの前で無力化されていった。
シェリルは、その場から一歩も動いていなかった。相手の術式の軌道をすべて読み切っている。だからこそ必要な場所に、必要な瞬間だけ、防御を展開すれば済んでいた。
「稽古にしては、形がなっていないな」
ギャラリーの後方で、アルヴァンが冷ややかに呟いた。
「団長、あれは稽古ではなく――」
「おぉ、そうだった。決闘にしてはお粗末だ……龍とネズミでは話にならんか」
アルヴァンの落ち着いた声に残酷な比喩。
「なかなか辛辣ですな。あの龍が、ネズミにどのように加減するか」
ベルナルトも既に勝敗の行方より、如何にして決着が付くのかを考えていた。
その頃、ギャラリーの中にミレイの姿も現れていた。
「何、なんか面白そうなのやってるじゃん」
軽い調子で人垣を掻き分けてきたミレイだったが、訓練場の中央を見た瞬間、表情が変わった。
「……ってあれ、先生と、この前先生に絡んでたやつじゃん。何これ、どういうこと?」
ミレイは眉をひそめる。
少し離れた場所では、エルナが青ざめた顔で戦況を見つめていた。
(――実力差が、ありすぎる)
エルナにも、両者の力量差は痛いほど正確に見て取れた。あれは決闘などという言葉で括れる代物ではない。一方的な蹂躙になる可能性すらあった。
シェリルだから無茶はやらないと思うが、万が一のことを考えて、エルナは頭の中で治癒魔法の準備を始めていた。誰かが倒れた時、すぐに動けるように。
「もう、やっちゃってよ姉さん!」
アノリスが、我慢の限界とばかりに声を上げた。
あれだけ姉を侮辱され、根も葉もない噂を撒き散らされて、黙っていられるはずがなかった。妹としての怒りが、抑えきれずに溢れ出していた。
どれほどの術式を放ち続けただろうか。
やがて、イリッサの攻撃が、ふっと途絶えた。
肩で息をしている。魔力切れか、あるいは単に体力の限界か。汗だくの顔には、焦りと屈辱がありありと浮かんでいた。
シェリルは、その様子を静かに見つめていた。
(終わらせましょう)
イリッサが、憎悪に燃える目でシェリルを睨みつけた。その瞳が、真正面からシェリルの瞳を捉えた――次の瞬間だった。
イリッサの身体が、宙を舞った。
何が起きたのか、本人にも、周囲の誰にも分からなかった。
ただ、イリッサの身体が凄まじい勢いで後方へ吹き飛ばされ、訓練場の壁へ向かって一直線に飛んでいく。その距離、およそ三十メートル。
「――まずい、殺す気か!」
ギャラリーの一人が、悲鳴のような声を上げた。
だが、壁に激突する寸前だった。
イリッサの背後から、逆方向の風が吹き起こった。それは激突の勢いを打ち消すように働き、彼女の身体を、無理なく、しかし確実に減速させていった。
そしてイリッサは、壁際にどさりと落ちた。気絶するほどの衝撃ではない。だが、立ち上がる気力を奪うには、十分すぎる一撃だった。
訓練場が、水を打ったように静まり返る。そして次の瞬間、悲鳴と歓声の入り混じった大音声に包まれた。
「――うおおおおお!」
「今の見たか!?」
「なんだ今の、何が起きた!?」
ここに集まっていた者の大半は、シェリルの魔法を見るのが初めてだった。特級術師という肩書きは知っていても、彼女が人前で術を振るう機会は、そう多くない。噂だけが先行し、実像を知る者はほとんどいなかったのだ。
詠唱らしき動作どころか、手の動きも殆ど無かった。棒立ちの姿から、微かに指を動かす仕草が見えただけだ。
威力だけではない。減速も含めてどこから術式が発せられたのか、見ていた者は殆ど把握できなかったのだ。
シェリルは、倒れたイリッサのことなど気にも留めず、静かに背を向けた。そのまま、訓練場を後にしようと歩き出す。
その後ろ姿に、方々から声が上がった。
「見えなかった……何をしたのか、全然」
「目が合っただけで、あんなに吹き飛ぶのか?」
感嘆というより、戸惑いに近い声が飛び交っていた。誰一人として、たった今起きたことを正確に説明できずにいた。
「――やっぱり、特級術師様の噂は嘘だったんだな」
「あんな人が、敵国と通じてるわけがないだろ」
「そもそも、あんな実力があって、なんで裏切る必要があるんだよ」
空気が、明らかに変わっていた。これまで師団内に燻っていた不穏な噂は、この一戦によって、あっけないほど簡単に色褪せていった。
だが、床に転がったイリッサの中では、まるで別のものが渦を巻いていた。
(――冗談じゃない)
怒りは、少しも消えていなかった。負けを認める気など、微塵もなかった。
それ以上に許せなかったのはシェリルの態度だった。まだ何も終わっていないというのに、こちらに背を向けて立ち去ろうとしている。
まるで、相手にする価値もないと言わんばかりに。
「……こんな屈辱が、こんな屈辱が」
やぶれかぶれだった。
「あってたまるかぁぁぁーーーっっっ!」
残った魔力を振り絞り、イリッサは背を向けたシェリルに向かって、斬撃を放った。
場内が、一瞬にして凍りついた。
「――あっ」
誰かの声が漏れた瞬間だった。
シェリルは、振り向きもしなかった。
ただ、背後に防御術式が展開され、斬撃はその壁に阻まれて、あっけなく四散した。
歩みは、一切乱れていなかった。まるで、羽虫が一匹飛んできた程度の出来事であるかのように。
その光景を見た瞬間、イリッサの中で、何かが完全に折れた。
(――ああ)
力が抜けていく。
何をしても、届かない。
あの女には、自分の攻撃だけでない。憎悪すらも、何一つ届かない。
それを、これ以上ないほど残酷な形で思い知らされた。
訓練場に集まった者たちの視線が、一斉にイリッサへ向けられた。
そこにあったのは、憐憫ですらなかった。ただ、冷ややかな軽蔑だけだった。
「――背中から撃つとか、最低だな」
「結局嫉妬に狂っただけだ」
「見苦しい」
容赦のない言葉が、四方から降り注ぐ。
イリッサは、床に手をついたまま、顔を上げることができなかった。
その一方で、シェリルの見せた芸当に、ギャラリーはただ言葉を失っていた。
「ノールック防御じゃねぇか」
「一瞬の魔力感知だけで潰したんだよな」
「そんなの、理屈じゃ分かるけど……実際にやれるなんて」
興奮というより、背筋を撫でられるような畏怖が、そこかしこに広がっていた。振り向いて対応するのが当たり前の場面で、そもそも振り向く必要すら感じさせない――その異常さを、術式を齧った者ほど、正確に理解して戦慄していた。
その中で、アノリスは腕を組みながら、静かに鼻を鳴らしていた。
(――ふん、姉さんは、エーテラリス様はこんなもんじゃないんだから)
誇らしさが、胸の内に温かく広がっていた。妹として間近で見てきた自分は知っている。あんなものは、姉の力のほんの一端に過ぎない。姉さんが本気を出したら、こんな訓練場、跡形も残らないのだ。口には出さなかったが、その表情には、隠しきれない自慢げな色が滲んでいた。
少し離れた場所では、エルナが胸を撫で下ろしていた。
(加減も、完璧だった)
補助魔法と回復魔法を専門とするエルナだからこそ、あの一撃の凄まじさが正確に理解できていた。三十メートル吹き飛ばしておきながら、壁への激突は寸前で殺している。力の強さより、むしろその繊細さに、エルナは震えるような感嘆を覚えていた。自分が治癒魔法を使う場面など、最初から必要なかったのだ。
その隣で、カイルは口を半開きにしたまま固まっていたが、その理由は少し違っていた。
実力差を見抜いて防御に徹して、風圧の一撃だけで終わらせて、おまけに一瞬のノールック防御術式。あの化け物じみた観察・構成力を目の当たりにして、別の記憶が繋がってしまったのだ。
(――あんな凄い人に、俺、見られたんか……あの日……!)
午前三時の廊下で、エルナの部屋から出てきたところを目撃された、あの夜。あの時の相手がこの人だったのだ。
アノリスからは「姉さんは色恋沙汰に鈍いから大丈夫」と言われてはいる。だが、あれほどの観察力を持つ人間が、本当に何も気づいていないなどということがあるだろうか。
カイルの顔は、青くなったり赤くなったりと、忙しなく色を変えていた。
そして、ギャラリーの後方でアルヴァンとベルナルトは目を合わせていた。
「相手の実力を知っていれば、手を出してはいけないと分かるだろうに。それすら判断できないというのは、術師としても、人としても」
言いながら、ベルナルトは頭の中で、来月のクラス編成会議の資料を書き換えていた。イリッサの名は、昇級候補ではなく、降格候補として記録されることになる。
アルヴァンもまた表情を険しくした。
「イリッサとかいう子はエインの手下か。シェリルへの工作も全てダルガン連合とエインの癒着たる所以。あとは……」
噂は払拭されていく。イリッサという駒もこれで潰れた。あとは、ソルペンシアからの報せを待つばかりだった。




