五 決闘よ!
エインが外交省の北方担当であるハースン――エインにシェリルと帝国の関係を漏らした者――に再度接触したのは、ソルペンシアへ出発の四日前だった。
ハースンは、連合との距離が縮まること自体には賛成の立場だった。そこに付け込んだエインに囲い込まれ、不正に加担することになったのだ。望んだかどうかはとにかく。
エインからハースンへ、このタイミングで、ダルガン連合からの工事受注の便宜を図った見返りの献金があった。額は、小さくなかった。受け取ってしまえば収賄罪。しかし有無を言わさず受け取らざるを得なかった。
さらに出発の二日前、エインはハースンから一通の書簡を受け取った。
ハースンが作成した文書だった。
内容は、ダルガン連合での施設建設受注に関するものだった。エレシア側からの工作の進捗。連合内の動向。受注に向けた条件の整理。外交省の内部情報を含む、相当な内容だった。
エインはそれを読み、折りたたんで上着の内側に収めた。
(――オルガーノに渡す。ソルペンシアで直接渡す)
これだけの情報があれば、連合側の工作がさらに前に進む。ストヤーマ組がライバルより一歩先に出られる。
エインは窓の外を見た。
(――エヴァとの夜を、もう一度)
帰ってきてからでいい。ソルペンシアから戻ったら、また月華亭へ行く。あの夜は、格別だった。
しかし、今は仕事だ。
出発の前夜、エインは師団の廊下を歩いた。穏やかで、丁寧で、底が見えない顔をしていた。
ソニアとすれ違った。
「――明日、出発ですね」
ソニアがそう言った。
「そうだ。しばらく、不在にする」
エインは、穏やかに答えた。
ソニアは頭を下げた。廊下で見るその背中が、やがて遠ざかっていく。
(清々した)
だが、同時に、何かが引っかかった。
(――ただ、いつもより、少し上機嫌だった)
それがどういう意味を持つのか、ソニアには分からなかった。いつもだったら義父とは言え他人の話。
ただ今日ばかりは不気味だと思い、相手の神経状態を探る魔法を密かに掛けたが……明らかに高揚している。久し振りに会う愛人でもいるんだろうか。
ソニアの疑念も気に掛けず翌朝、エインは出発した。師団の門を馬で出ていった。
だが、諜報局の密偵は、既にエインの出発より前から動いており、ソルペンシアで待ち構えていた。
そんなことも知らないハースンは外交省の自席、落ち着かない様子で書類を広げていた。
エインがソルペンシアへ発ってから、数日が経っていた。
辞令を受け取ってからの十日間、エインにとっては、すべてが順調そのものだった。師団内の工作は着々と進み、味方も着実に増えていた。
中でも、抜け目なかったのは、内務省への根回しだった。ダルガン連合へ軍馬視察に赴いた一行――ラフィスやトーマまでも、あたかも自分の仲間であるかのように、平然と嘘を吹き込んで回っていた。事実など、どうでもよかった。噂という形で広まってしまえば、それはもう既成事実として一人歩きしていく。エインは、そのことをよく心得ていた。
そうして、王都に不穏な空気だけを撒き散らしたまま、エインはソルペンシアへと旅立っていった。
その頃、シェリルは師団の廊下で、アノリスと言葉を交わしていた。
「ねえ、アノリス」
シェリルは、どこか疲れた様子で、声を落とした。
「なんだか、私の変な噂が流れていない?」
「やっぱり、姉さんも気づいてたんだ」
アノリスも、声のトーンを抑えて答えた。
「私も、なんか引っかかってて。最近、師団の空気が変っていうか」
二人は、周囲に聞こえないよう、ひそやかに言葉を交わしていた。事の本質を、まだ完全には掴みきれていなかったが、何か良からぬものが進行している気配だけは、二人とも肌で感じ取っていた。
「――あら、いたいた」
そこへ、甲高い声が割り込んできた。
振り返ると、イリッサが、一人の男性術師を引き連れて歩いてくるところだった。
男の名は、カバレス。歳は三十に届くかどうか、というところ。上級α位にある術師だった。イリッサに「上級だったら行けるでしょ」とだけ言われ、よく分からないまま連れてこられた口だった。良いところを見せられれば、という下心もあった。
だが、対峙する相手の顔を見た瞬間、カバレスは凍りついた。
「待て。特級術師の、シェリル・アリアシスト?――おい、こればかりは聞いてないぞ」
カバレスは、慌ててイリッサに耳打ちした。
「相手が悪すぎる。特級だぞ、特級。俺は帰る」
言うが早いか、カバレスはそそくさと踵を返し、その場から逃げ出していった。
「――ちょっと、どこ行くのよ!――もう、どいつもこいつも、使えないやつらばっかり」
呼び止めるが、カバレスは振り返りもしなかった。イリッサは苛立たしげに舌打ちした。だが、その怒りの矛先はすぐにシェリルへと向き直った。
「――だいたい、あんたが悪いのよ」
イリッサは、堰を切ったように、シェリルへの罵詈雑言をまくし立て始めた。
「実力もないくせに特級を名乗って、皆にちやほやされて。おまけに帝国と通じてるなんて、恥知らずもいいところ。あんたみたいなのがいるから――」
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
アノリスが、たまらず声を荒げた。
「さっきから聞いてれば、根も葉もないことばっかり!」
「うるさいわね、あんたも」
イリッサの目は、既に血走っていた。
「あんたもあんたでムカつくけど……でも本当に、このシェリルって女に、腹が立って仕方がないのよ!」
感情が、完全に理性を振り切っていた。
その頃には、廊下には人だかりができ始めていた。
「――なんだ、なんだ?」
「あれ、いつもうるさいイリッサじゃないか」
「またやってるよ、あの人」
最初は、いつもの騒ぎ程度に思っていた者たちも、次第に様子がおかしいことに気づき始めた。
「――待って、あの慌ててる子、上級試験の首席合格者じゃない?」
「アノリス・アリアシスト? 嘘だろ」
「年下の上級の子をいじめてるのか?」
ざわめきが、じわじわと広がっていく。
当のアノリスは、その視線の集まり具合に気づいて、みるみる焦り始めていた。
(――やば、これ、めっちゃ見られてる)
最初は姉を庇うつもりで声を上げただけだった。それが、いつの間にか衆目の的になっている。上級術師として、しかも首席合格者として、こんな騒ぎの中心にいるのは、あまりにも具合が悪かった。
「――ちょ、ちょっと、そんな大きな声出さないでよ」
声を落とそうと必死になるアノリスだったが、既に手遅れだった。
そして、そんな慌てふためく妹の横で、椅子に腰掛けたまま微動だにしない女がいた。
「――おい、あの人」
「え、なに、あの落ち着き方」
「まさか、あれって……」
周囲のざわめきが、一段と大きくなった。
「――特級術師の、シェリル・アリアシスト……?」
「嘘だろ、本物?」
「なんであの人が、こんなところで絡まれてるんだ」
人垣は、みるみるうちに厚みを増していった。シェリルの悪い噂が流れているとは言っても、師団全体からすれば割合は取るに足らない程度。事情も知らない野次馬が廊下の端から端まで埋め尽くされている。窓際に陣取る者、背伸びをして覗き込む者、遠巻きに囁き合う者――騒ぎは、もはや収拾のつかない規模になりつつあった。
その中心で、シェリルはただ静かに座っていた。周囲の喧騒など、まるで別世界の出来事であるかのように。
落ち着き払った態度がイリッサの怒りに、決定的な火を点けた。
「もう許さない! 決闘よ!」
その一言に、廊下全体がどよめいた。
「私が勝ったら、あんたには師団を辞めてもらうんだから!」
その声は、たまたま近くを通りかかっていたベルナルトの耳にも、はっきりと届いていた。
足を止め、人だかりの向こうへ視線を投げる。表情は、まるで変わらなかった。
(――なんだ、突然、面白いことになってるじゃねぇか)
止めるべきか。それとも――。
その判断を下すよりも先に、ベルナルトの目は、人垣の中心で静かに座る一人の姿を捉えていた。あの女がこの程度の挑発で我を失うことはない。ただ、この申し出を受けるかどうかは、また別問題。ならば、しばらく見物させてもらうのも悪くない。ベルナルトはそう考え直して、その場に留まることにした。
シェリルは、しばらく黙ってイリッサを見つめていた。
やがて、その口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
「――いいわ」
静かな声だった。だが、その一言は、この場の空気を決定づけるには十分だった。
感情の起伏に乏しいシェリルにしては珍しく、どこか悪ノリするような響きが、その声には混じっていた。
「受けて立つわ」
(おっと……受ける、のか)
ベルナルトもまた、誰にも気がつかれないよう、ニヤリと笑った。




