四 上等な餌
ミレイの新技を見届けてから、三日が経った朝だった。
シェリルの執務室に、エルナが訪れた。数日前から、回復魔法と算術の接点について、週に二回の頻度で共同研究を行っている間柄だった。
「――失礼します」
エルナは、いつも通り丁寧に一礼してから、書類の束を手に部屋へ入ってきた。その手には給水用のポットも携えていた。ここへ来る途中給水室に立ち寄って水を汲んでくる――それが、エルナの決まった手順だった。律儀な性分が滲み出ている習慣だった。
シェリルの部屋の給水ポットには、紫のリボンが結んである。他の部屋のものと取り違えないようにという、細やかな配慮だった。
「今日は、こちらをお預かりしてきました」
エルナが差し出したのは、封のされた一通の書類だった。研究資料の受け渡しでは見慣れない封蝋に、シェリルは一瞬目を留めたが、それ以上は何も言わず、封を切って開いた。
だが、目に飛び込んできたのは、研究資料ではない。
辞令だった。
「エイン・ドルッセ殿。貴殿を、魔法金属学会へ派遣する」
日程、出発日、そして開催地――ソルペンシア。末尾には、師団長アルヴァンの署名があった。
その書類には、もう一通、小さなメモが添えられていた。シェリルは、そちらにも目を通した。
「――これを、出発日の十日前である七月十五日に、エイン本人に渡してほしい。その時にどんな反応をしたか、あなたの鋭い観察眼で見たことを報告してほしい。特任研究師としての仕事だ、よろしく頼む」
文面は簡潔だったが、シェリルはすぐに、その意図を正確に読み取った。
(証拠集めのために、あえて上等な餌を与えるのね……そして、その餌を出すのは私)
辞令という体裁の裏に、罠が仕込まれている。それを気づかせないまま、獲物を泳がせる。よくできた策だった。
シェリルは、静かにメモを畳んだ。
「――悪くないわね」
小さく呟いた声には、感情の起伏こそなかったが、どこか淡々とした納得の色が滲んでいた。
「誰かと一緒に研究するのも、なかなか興味深いものね」
シェリルは、エルナの持ってきた資料に目を通しながら、ふと呟いた。
「私ごときで、お力になれているでしょうか」
エルナは、控えめにそう尋ねた。
「他の方とも、魔法の研究をされることはあるの?」
「いえ、こうして共同で研究に取り組むのは、シェリルさんが初めてです」
「――そう」
シェリルは、小さく頷いた。
それから、ふと思い出したように続けた。
「そういえば、少し日数は経っているのだけれど」
エルナが顔を上げる。
「夜遅くに宿舎へ戻ってきた時、カイルが、あなたの部屋から出てくるのを見たわ」
エルナの動きが、一瞬止まった。
(――え)
頭の中が、一気に真っ白になった。
「結構、遅い時間まで、二人で熱く議論していたのかしら」
シェリルは、あくまで淡々とした調子で続けた。
「お二人とも上級に昇格したばかりで、色々なことを学びたいという欲が出てくる頃合いでしょうし。とても素敵なことだと思うわ」
「――あ、あの」
エルナの顔が、みるみる赤く染まっていった。
(――見られたの……!?)
声にならない動揺が、全身を駆け巡っていく。
「カイルが、だいぶ頑張っていたみたいだったから一言、お疲れさまでした、と声をかけておいたのだけれど」
シェリルは、ふと思い出すように目を細めた。
「――っ」
エルナは、口をぱくぱくと動かしながら、声にならない言葉を繰り返した。
(――シェリルさん、本当に、知らないの……?)
あわわわわ、と内心で悲鳴を上げながら、エルナはあの夜のことを、否応なく思い出していた。
カイルと過ごした、あの熱く長い夜。その記憶が蘇るたび、胸の奥がじんと疼くような感覚に襲われる。だが、それを今、この場でシェリルに悟らせるわけにはいかなかった。
平静を装おうとすればするほど、顔はますます赤くなっていくばかりだった。
それから十日。
シェリルは辞令を手に、エインの部屋へと向かった。
コンコン、と扉をノックする。
「――どうぞ」
中から返事があり、シェリルは部屋へ入った。
エインは、机に向かっていた顔を上げ、こちらを見た。その瞬間、わずかに息を呑んだ。
あの日、外交省で帝国と書簡を交わしていた事実を知ってから、距離を取りながらこの女の姿を追っていた。
(なんで、いきなりなんで、こいつが。帝国と繋がっているこの女が――)
まともに言葉を交わすのは、これが初めてだった。突然、当の本人が目の前に現れたことに、一瞬、動揺が走った。
内心で、じわりとした憎悪が湧き上がってくる。実力を持ちながら、敵国とまで通じている――エインの中では、既にそう決めつけられていた。
あぁ、憎たらしいったらありゃしない。そんな内心の毒づきを押し隠しながら、エインは表向き、平静な顔を作った。
「何の用だ」
声には、わずかに刺があった。
「アルヴァン師団長より、辞令をお預かりしております」
シェリルは、感情を交えない声で告げ、手にした書類を読み上げ始めた。
「エイン・ドルッセ殿。貴殿を、魔法金属学会へ派遣する」
その一言一言を、シェリルは丁寧に、しかし機械的に読み上げていった。
「開催地は――ソルペンシア」
その地名を口にした瞬間だった。
エインの眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。
ほんの一瞬の、微細な動きだった。だが、シェリルはそれを見逃さなかった。
(――なんと、分かりやすいこと)
視線の揺れ、肩の強張り、指先の微かな緊張――それら全てが、シェリルの観察眼に、克明に刻み込まれていった。感情表現の乏しいシェリルだからこそ、逆に他人の表情の変化には、人一倍敏感だった。
「出発の日程は、こちらに」
シェリルは、辞令をエインへと差し出した。
エインは、努めて何気ない様子を装いながら、それを受け取った。
「――魔法金属学会か。まあ、悪くない話だな」
口ではそう言いながら、内心では、全く別の算段が渦を巻いていた。
(ちょうどいい。ソルペンシアには、俺から出向く用事があったところだ)
これが、罠だとは、微塵も疑っていなかった。むしろ、渡りに船とばかりに、都合の良い偶然だと受け止めていた。
エインの余裕に満ちた表情の裏で、シェリルは静かに、そのすべてを記録していた。喜び半分、警戒半分――そんな入り混じった感情の機微までもが、シェリルの目には、はっきりと映っていた。
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
シェリルは、淡々と一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まる音を背に、シェリルは静かに歩き出しながら、今しがた見た光景を、頭の中で丁寧に整理していった。
その日の午後、シェリルはベルナルトのもとを訪ね、辞令伝達時の様子を報告した。
「出発地を告げた瞬間、明確な反応がありました。眉の動き、肩の強張り、指先の緊張……一連の兆候から見立て通り、ソルペンシアという地名に強い関心と、わずかな動揺があったと判断します」
「そうか。学会派遣という正規の案件をこのようなことに使うのは不本意だが……」
ベルナルトは、静かに頷いた。
「予想通り、というところだな。よくやってくれた」
「事実を、そのままお伝えしたまでです」
シェリルは、淡々とそう答えた。
ベルナルトは、その報告書に目を落としながら、小さく息をついた。
「あとは、現地での動き次第だ」
その声には、ここまで慎重に積み上げてきた策が、ようやく実を結び始めた手応えが滲んでいた。
同じ頃、帝国の中枢でも、また別の情報が動いていた。
諜報統括コルドが、皇帝の御前に急ぎ足で参上していた。
「陛下。カリティスディアの王女が、ダルガン連合へ向かっているという情報を掴みました」
玉座に座す皇帝アルゴス・ヴォルテナが、わずかに顔を上げた。
「――ほう」
その声には、単なる政務上の関心を超えた、何かが滲んでいた。
アルゴスにとって、カリティスディアという国名は、決して他人事ではなかった。皇帝の座に就く以前、まだ将軍位にあった頃、あの国を攻め滅ぼした遠征軍の総大将こそ、他ならぬこの男だった。滅びた王家の血筋が、今もどこかで生き延びている――そう聞かされて、心が動かないはずがなかった。
「王女が、まだ生きていたか」
アルゴスは、独り言のように呟いた。その口調には、憎悪でも憐憫でもない、もっと複雑な感慨が入り混じっていた。あの遠征の記憶は、今も鮮明に残っている。
傍らに控えていた軍総帥ガルデウスが、静かに口を挟んだ。
「陛下。早まるべきではありません」
落ち着いた声だった。
「情報の裏付けは、取れているのか」
コルドへ向けられた問いだった。
「し、しかし、複数の筋から同様の情報が」
「複数の筋、というのも、時に作られたものだ」
ガルデウスは、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で言い切った。コルドは、それ以上食い下がることができず、口をつぐんだ。
アルゴスは、しばらく黙考してから、小さく頷いた。
「――ガルデウスの言う通りだ。今は、静観としよう」
その裁定に、コルドは一礼して退室していった。
だが、部屋に残ったガルデウスは、皇帝の横顔を、しばし黙って見つめていた。
何か触れてはいけないようなものを、二人で見ているような空気が流れていた。




