三 アゲ嵐
妙な違和感を胸に抱えたまま、シェリルは訓練場へと向かった。
考え込むよりも先に、体を動かしている方が、思考が整理できることもある。そんな漠然とした思いに導かれるようにして、足がそちらへ向いていた。
訓練場に着くと、既に賑やかな声が響いていた。ミレイが稽古をしているところに、数名の仲間が見物に集まっているようだった。この場にいる上級術師は、ミレイただ一人だった。
「――ミレイちゃん、すごおぉぉぉ!」
友人らしき一人が、はしゃいだ声を上げた。
視線の先では竜巻と熱線を組み合わせた術式が、今まさに形になろうとしていた。渦の外周に赤とオレンジの光の筋が絡みつき、螺旋を描きながら立ち上っている。
「ミレイ、いい調子ね」
シェリルが声をかけると、稽古中のミレイが振り返った。
「あっ、先生!」
その反応は、明るく自然なものだった。少なくともこの場に集まっている友人たちの間には、シェリルに対する悪い噂はまだ届いていない様子だった。
「あの、こちらの方は?」
友人の一人が、興味津々に尋ねた。
「じゃじゃーん」
ミレイは、勿体つけるように腕を広げた。
「この方こそ、大陸の特級術師であり魔法算術学者、エーテラリスことシェリル・アリアシスト様だよ!」
「ええっ!?」
友人たちが、一斉に驚きの声を上げた。
その中の一人は思わず息を呑んでいた。特級術師・シェリル・アリアシスト――名前だけは、何度も耳にしてきた。だが実際に目にするのは、これが初めてだった。
(――本物だ)
純粋な憧れが、胸の奥からじわりと込み上げてきた。噂には聞いていたが、実際に本物を前にすると、想像していた以上に美しかった。夏着の濃紫のローブに紫の長い髪、深藍紫の瞳、静かに佇む立ち姿。歳は自分とそう変わらないと聞いていたはずなのに、そこに漂う風格は、まるで別次元のものに思えた。
(もぉ、なんなの、この人)
言葉にならない感嘆が、胸を満たしていく。憧れの視線を隠しきれないまま、その友人はシェリルの一挙一動から目を離せずにいた。
「どうも」
シェリルは軽く会釈をした。感情表現に乏しいシェリルにしては、ごく自然な、社交辞令的な挨拶だった。
だが、内心では、わずかな戸惑いを覚えていた。
(なんだか、変な感じね)
このところ向けられる視線といえば、決まって嫉妬や敵意の色を帯びたものばかりだった。廊下ですれ違う際の刺々しい目、陰でひそひそと囁かれる悪意。そういうものに、いつの間にか慣れきってしまっていた。
それが今、目の前にいる若い術師たちからは、そうした感情の欠片も感じられない。あるのはただ、屈託のない純粋な憧れだけだった。
その眼差しを、シェリルはどう受け止めればいいのか、一瞬分からなくなった。
慣れない感情に戸惑いながらも、それが決して不快なものではないことだけは分かった。
「――それで、見ていただきたいものがあるんです」
ミレイは仕切り直すように、姿勢を正した。
次の瞬間、竜巻と熱線の合わせ技が、完成形として姿を現した。
シェリルは、目を細めてその術式を見つめた。
(思っていたより、完成度が高いわね)
竜巻に絡みついた熱線の制御は、竜巻側に委ねられている。それでいて、熱線そのものの形状は、実に美しい螺旋を描いていた。明確なイメージの中で、複雑な動きを無理なく回している証だった。単なる力任せの合成術式ではない。緻密な計算と、それを裏付ける確かな技術の両方が、そこにはあった。
シェリルの口元に、珍しく満面の笑みが浮かんだ。
「――よくできました」
その一言に、ミレイは弾かれたように顔を輝かせた。
「やった、褒められた!」
両手を突き上げ、飛び跳ねんばかりの喜びようだった。
「新技、『アゲ嵐』です!」
その名の通り、竜巻が熱線の光を纏いながら立ち上る様は、見る者の心を高揚させる美しさがあった。渦を巻く風の勢いと、螺旋を描く光の筋が絡み合い、まるで一つの生き物のように力強く、それでいて優美に舞っている。
「うわあ……」
見物していた友人たちの間から、感嘆のため息が漏れた。目の輝きが先ほどよりも一段と増していた。単なる術式の披露を超えて、一つの芸術作品でも眺めているかのような眼差しだった。
「これ、実戦でも使えそうですか?」
友人の一人が、興奮を隠しきれない様子で尋ねた。
「うん、まだ粗削りだけど」
ミレイは、頬を紅潮させながらも、どこか真剣な表情を見せた。
「上級になったからには、こういう見た目だけじゃなくて、ちゃんと武器になる技を持っておきたくてさ。もっと磨いていけば、任務でも使える一手になると思うんだ」
華やかさに満足するだけでなく、その先にある実用性まで見据えている。その姿勢にシェリルは静かに感心していた。
同時に、胸の奥に、ふとした懐かしさが込み上げてきた。
(――昔の、私みたいね)
技を磨くことそのものが、純粋に楽しくて仕方がなかった頃。誰かに認められたいという気持ちよりも先に、術式そのものへの探求心が原動力だったあの頃の感覚。今の自分は、いつの間にか、そうした純粋さから少し遠いところに立ってしまっているような気がした。
目の前で目を輝かせるミレイと、その周りではしゃぐ友人たちの姿は、シェリルにとってもう忘れてしまっていたものを、そっと思い出させてくれるようだった。
奥の訓練場から戻ってきたアノリスが、その様子に気づいたのは、ちょうどミレイの歓声が響いた時だった。
「あれ、姉さん?」
こちらへ歩み寄りながら、アノリスは少し唇を尖らせた。
「なにこれ、ミレイにばっかり構ってさ。私にも構ってよ」
「何よ、急に」
「だって、この前だってミレイに稽古つけてたじゃん。私にも、なんか新しい技とか教えてよ」
アノリスは、拗ねたような口調で言った。妹らしい、素直な要求だった。
シェリルは、しばし黙ってアノリスを見つめてから、静かに答えた。
「――それは、必要ないわね」
「はぁ? なんでよ」
「あなたはもう少しで、新しい技を習得するから」
シェリルは、淡々と続けた。
「――は? なにそれ、初耳なんだけど」
アノリスは、きょとんとした顔をした。
「まだ気づいていないかもしれないけれど、あなたの剣の運びに、最近変化が出ているわ。無意識のうちに新しい技が生まれる兆しよ」
シェリルの視線は、どこか確信めいたものを帯びていた。感情表現に乏しいシェリルにしては珍しく、そこには妹への深い観察と信頼が滲んでいた。
「全然、心当たりないんだけど」
アノリスは首を傾げながらも、どこか浮ついた表情を隠せずにいた。
「――試しに、一度振ってみなさい」
シェリルに促され、アノリスは剣を抜いた。ヴェントラーゼの刃が、陽光を受けて鈍く光る。
「ん、こう?」
軽く振り抜くと、鋭い風の刃が空を切った。いつも通りの風撃だった。
「もう少し」
シェリルは、静かに指摘を挟んだ。
「風を曲げる時、ヴェントラーゼの面と、速さを意識して」
「言ってる意味、よく分かんないんだけど」
釈然としないまま、アノリスはもう一度、剣を振り抜いた。
その瞬間だった。
風が空を切る音に混じって、微かに、バチバチという乾いた音が響いた。
「え」
アノリスは、自分の剣先を見つめて固まった。
「これ、今の、何……?」
シェリルは、その反応を見て、静かに頷いた。
「あとは、これを自分のものにするだけよ」
「は、はあ?」
ヴェントラーゼのポテンシャルは、使い手のアノリスよりもシェリルの方がよく分かっていた。
術式の威力は留数の絶対値で決まる。しかし、ただ速く振っているだけでは術式の特異点が現れない。複素関数で言うところの正則――威力の元になる留数が、そもそもゼロなのだ。風も、雷も、宿りようがない。
魔法算術において術式の威力を決めるもの――留数。炸裂する点における魔力の収束度を示すものであり、その値は実なる部分・虚なる部分で構成される。
かの剣に魔力を乗せて、弧を描くように振り抜けば風、留数は虚。
加速度を変化させて振り抜けば雷、留数は実。
円弧を描きながら加速度も動かすように振れば――留数は虚実双方を持ち、風雷の渦となる。
「力任せに振っただけでは、雷撃は起きない。加速度が雷撃を呼ぶ……振る速さを、腕の中で変える。あとは、宿題よ」
「宿題って……いや、待って、もう少し詳しく教えてよ!」
アノリスはシェリルに強く当たったが、しばらくして思い直した。
姉が自分でも気づいていなかった可能性を、こうしてちゃんと見つけ出してくれた。それだけで、十分すぎるほどの贈り物だった。
「――ま、いっか。妬いて損したー」
からりとした声だった。先ほどまでの拗ねた様子は、もうどこにもなかった。
その様子を、少し離れた場所からミレイの友人が見ていた。
「――え、エーテラリス様の、妹……!」
目を輝かせながら、両手を握りしめている。
「しかも首席合格の上級術師なんでしょ……本物だ、生で見ちゃった……!」
乙女心丸出しの、隠しきれない興奮ぶりだった。エーテラリスの傍らにいるからというだけでなく、アノリス自身の実力に向けられた眼差しだった。
アノリスは、そんな視線を軽く受け流しながら訓練場を後にした。今日はこれから月華亭へ出勤。夜の仕事に向けて、少し休んでおきたい。
その背中を見送りながら、シェリルは小さく笑った。
(――ちゃんと、頑張っているのね)
師団での仕事に加え、月華亭での勤務も、アノリスは決して手を抜くことなくこなしている。妹の頑張りを思うと、自然と口元が緩んだ。
訓練場に差し込む午後の光の中、シェリルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。




