二 泳がせる者
書簡の件はその日のうちに、通信局からベルナルトへと伝えられた。
「――ソルペンシア、か」
報告を受けたベルナルトは、静かに眉を寄せた。
これで、少なくとも一つは確定した。エインがソルペンシアと何らかの繋がりを持っているということだ。あの街で建設事業を手広く手掛ける会社といえば、真っ先に思い浮かぶのはストヤーマ組だった。アノリスから上がっていた密告の内容とも、綺麗に符合する。
ストヤーマ組といえば、リーヴィン王立大学のような大規模建築から、月華亭のような優雅な意匠を凝らした建物まで、幅広く手掛けてきた実績のある建設会社だった。その名を聞けば、王都の誰もが一目置く。それだけの信用と実績を持つ企業が、裏では汚職の温床になっているとすれば、事は決して小さくはなかった。
ベルナルトはすぐにアルヴァンのもとへ向かい、この報告を伝えた。
アルヴァンは腕を組み、しばし黙考したが、その内側ではじわりとした手応えが広がっていた。
アノリスからの密告以来、ずっと泳がせ続けてきた男だった。証拠一つ掴めぬまま、じりじりとした時間だけが過ぎていくのを、内心では歯痒く感じてもいた。それがここにきてようやく、尻尾を掴む糸口が見えてきた。
アルヴァンが顔を上げた。
「七月末に、ソルペンシアで魔法金属学会の会合がある。上級以上であれば、誰でも参加資格がある」
ベルナルトもその存在は知っていた。だが、アルヴァンよりも慎重だった。
「なるほど。こちらにとっては渡りに船ですが……向こうから見れば、少しばかり都合が良すぎませんか」
「現地での逮捕や、性急な連携は避ける。目的は、決定的な証拠を得ることだ。リーヴィンの中だけに居てもこちらからは何も掴めないだろう……泳がせ方というのもある。諜報局の人間を背後から向かわせ、現地にて監視と記録に徹してもらう」
アルヴァンは既に諜報局に手を回していたのだ。
「流石団長、こういう時は手も早い。リーヴィンに戻ってきたところを、こちらから尋問すると」
アルヴァンは、指を折りながら日程を数えた。
「出発の十日前に、本人へ伝える。つまり――今から、二週間後といったところか」
性急すぎれば警戒される。かといって、直前すぎれば、こちらの段取りが間に合わない。絶妙な間合いを見計らう必要があった。
「――問題は」
アルヴァンは、ふと表情を曇らせた。
「誰が、その役目を担うか、だな」
エインに直接、出張の辞令を伝える役目。それは、単なる事務連絡ではなかった。相手の反応を注意深く観察し、些細な動揺の色すら見逃さない――そういう視点を持った人間でなければ、務まらない役目だった。
そこにベルナルトが口を開く。
「辞令は団長の名前で発行してください。そして学会絡みの派遣となれば、通常は研究部門から伝えます。となればその役目は」
「おぉ、そういうことであれば話が早い……ようやく動けるな」
伝達役の名前は既に二人の間で一致している。敢えてどちらも名を口にしなかった。
その頃、当のエインは、そんな内偵の目が自分に向けられているとは露知らず、着々と師団内での工作を進めていた。
夕刻の空き時間、エインは師団の空き部屋にイリッサを呼び出した。
「どうだ、最近の調子は」
「まあまあです。皆、思ったより乗ってくれてますよ」
イリッサは、得意げに胸を張った。
「――ならば、いいことを教えてやろう」
エインは、もったいぶるように声を落とした。
「来月半ば、中級術師のクラス編成会議がある。そこでお前を上位クラスへ推薦してやろう」
「本当ですか!」
イリッサの目が、みるみる輝いた。長年、燻り続けてきた昇級への渇望が、その一言で一気に火を灯した。
現在イリッサは中級のクラス四だ。上級試験を受けるには中級の中位以上――つまりクラス五以上が必要だった。
「もちろんだ。ただし、それには条件がある」
エインは、口の端を歪め、イリッサの耳元に少しだけ近づいた。
「今の調子で、こちらの味方を増やしてくれ。それと――」
一度言葉を切り、口を仕切り直した。
「気に入らない、帝国寄りの人間がいたら、遠慮なく密告するといい。そういう人間は下位クラスへ落とすことだって、できるんだからな」
その言葉に、イリッサは唇の端を吊り上げた。
「――それは、いいですね」
昇級という餌と、他人を蹴落とせるという権力の匂い。その両方を与えられ、イリッサはますます調子に乗っていった。
エインは、そんなイリッサの様子を、内心で嘲笑うように眺めていた。
(――単純な女だ)
昇級の約束など、口先だけでいくらでも吊り餌にできる。この程度の女を操るのに、大した労力もいらない。むしろこちらの計画の駒として、これほど扱いやすい人材もそうはいなかった。
「それと忘れるな。動きは、あくまで静かに、な。表立って騒ぎ立てれば、こちらの首も締まる」
「分かってますって」
イリッサは、へらへらと笑いながら答えた。
その笑みの奥に潜む、他人を蹴落とすことへの快感を、エインはよく理解していた。承認欲求と嫉妬に飢えた人間ほど、こうして飼い慣らしやすいものはなかった。良心の呵責など微塵も感じさせない、この上なく都合の良い駒だった。
その数日後、イリッサは早速、行動に移した。
標的に選んだのは講義でシェリルの理論を熱心に評価していた、若い中級術師の男だった。特に反帝国的な態度を取っていたわけでもない、ただ純粋に算術に興味を持っていただけの人間だった。
イリッサは、自分の近くに居た別の術師の男に耳打ちした。
「――ねえ、聞いてください。あの子、シェリル先生の理論を気味悪いくらいに持ち上げてばかりいて。ちょっと危ういと思うんですよね。あの理論って元はと言えばヴォルテナ帝国で絶賛されてる危ない話なの、知らないのかしら」
事実を、都合よく捻じ曲げた話だった。実際には、その男が称賛していたのはあくまで純粋な算術上の美しさであり、国家がどうのという話は一切していなかった。だが、イリッサの口にかかれば、それはいとも簡単に「不穏な思想」へとすり替わった。
密告はこれで十分だった。事実かどうかなど最早どうでもよかった。噂という形で一度広まってしまえば、後は勝手に一人歩きしていく。
イリッサはその様子を思い描きながら、ひとり満足げな笑みを浮かべた。
(……もう少し、うまくやるべきなんだろうけど)
本来であればもっと巧妙に、痕跡を残さぬように立ち回るべきだった。だが、いざシェリルへの憎悪を言葉にする段になると、抑えが利かなくなる自分がいた。声のトーンは自然と高くなり、表情には隠しきれない悪意が滲む。周囲から見れば、あまりにも分かりやすい逆恨みだった。
それでも、イリッサは止まらなかった。止まれなかった、というべきかもしれない。俄かに沸き上がった劣等感と嫉妬が、理性の手綱を振り切って、勝手に暴れ出していた。
「次は、誰にしようかしら」
誰かを蹴落とすたび、束の間の高揚感が胸を満たした。だが、その高揚感はすぐに色褪せ、また新たな標的を求めずにはいられなくなる。渇きは、いつまで経っても満たされることがなかった。
この頃から、シェリルが帝国寄りだという噂は、師団内で一気に燃え広がっていった。廊下ですれ違う際の視線、陰でひそひそと交わされる会話――それらは、日を追うごとに露骨さを増していった。
その影響は、思わぬところにも現れ始めていた。シェリルが受け持つ魔法算術の講義に、出席する者の数が、目に見えて減り始めていたのだった。
空になりつつある講義室の椅子を見渡しながら、シェリルは静かに違和感を覚えていた。
以前は、席が埋まりきらないほどの盛況だった講義だ。それが、ここ最近になって、目に見えて出席者が減っている。体調不良や公務の都合、そういった個別の理由なら、まだ理解できる。だが、これほど一様に、しかも短期間で人が減っていくというのは、明らかに不自然だった。
(……変ね)
感情の機微に疎いシェリルでも、この空気の異様さだけは、はっきりと感じ取れた。
講義を終え、誰もいなくなった教室で、シェリルはしばらく空いたままの席を見つめていた。
何かが、静かに、しかし確実に動いている。その予感だけが、胸の奥に重く残った。




