十一 暗雲
ダルガンへの一行がリーヴィンに戻ってきたのは、八月の頭だった。
到着は午前の早い時間だった。長旅の疲れも癒えぬまま、ルヴァンはすぐさま外交省へ向かい、今回の視察・交渉の報告に取りかかった。ラフィスとトーマにも、それぞれ報告書をまとめる仕事が待っていた。
ラフィスは一旦、騎士団の宿舎に戻り、旅装を解いた。
騎士団の中では、今回のラフィスの役割――ダルガンへの軍馬視察に同行したこと――は、既にきちんと共有されていた。それ自体に、疑問を差し挟む者はいなかった。
だが、それ以外の区画では、違う形でこの一件が語られていた。
「ダルガンと繋がっているんじゃないか」
「馬をネタに、何か工作に一枚噛んでいるんだろう」
「あの将軍、ダルガン派だって話だぜ」
「金でも貰ってるのかしら」
そうした噂が、どこからともなく、ひっそりと広がっていた。
ただならぬ空気を敏感に感じ取ったラフィスは、宿舎に落ち着く前に、バレンツ副団長のもとを訪ねた。
「この一ヶ月ほど、何かありましたか」
単刀直入に尋ねた。バレンツは、少し困ったような顔をしてから、静かに口を開いた。
「妙な噂が流れている。派閥工作、というやつだ」
「派閥工作」
「騎士団にはそれほど浸透していないんだが、魔法師団を起点に、内務省や学生たちの間にまで広がっているらしい。ダルガン連合派という派閥が、いつの間にか形作られていてな。何かしらの工作が行われている」
バレンツは、腕を組んだ。
「意図までは分からん。ただ、ヴォルテナ帝国がアルヴェを制圧したことを巡る緊張が、ダルガン連合との間で高まっていることを受けての動きだろう、という見方が強い。魔法師団の若い連中が中心になって、帝国寄りの発言をした者には、それとなく圧力がかかっているようだ」
ラフィスは、黙ってその話に耳を傾けていたが、ふと出発前のことを思い出した。
あの時、魔法師団の中年の男に、妙な絡まれ方をされたことがあった。
「――ダルガンから帰ってきたら、色々聞かせてくださいよ」
そう言って、ヒッヒッヒ、と気味の悪い笑い方をしていた男だった。あの時は単なる社交辞令、あるいは軽い好奇心だろうと聞き流していた。だが今思い返すと、あの笑い方には、どこか粘着質な含みがあったような気がしてならない。
(あれは、一体)
あの時の違和感が、今になって形を持って迫ってくるようだった。
(となると、トーマの方は)
騎士団ではまだ、この手の話はそれほど広まっていないという。だが工作の出どころとされる魔法師団に籍を置くトーマは、もっと露骨に絡まれているのではないか。ラフィスの胸に、ふと懸念がよぎった。
「――それと、もう一つ」
バレンツは、言いにくそうに続けた。
「内務省の方でも、ダルガンと繋がりのある連中がいるらしい。外交省のルヴァン殿を引き込むのは流石に難しいが、将軍とトーマ殿なら引き入れられる――そんなことを言っている連中までいるそうだ」
「なっ――そんな迷惑なっ――」
ラフィスは、思わず眉をひそめた。
身に覚えのない疑いが、勝手に膨らんでいく。それも自分の与り知らぬところで、誰かの都合のいいように利用されようとしている。不快感を通り越して、いっそ呆れに近い感情が込み上げてきた。
トーマもまた、同じような噂に困惑していた。
ラフィスのように、冷静に受け止められる性分ではなかった。しかも、他ならぬ自分の所属する魔法師団内から、こうした話が流れてきているとなれば、なおのこと落ち着いていられなかった。
(誰に、相談すればいいんだ)
あまり人目にはつきたくない。そう思いながら、師団の廊下を足早に歩いていた時だった。
「あらあら」
声をかけられ、トーマは足を止めた。
ネイア、上級試験の実地試験で、かつて自分と組んだ相手だ。
「これは私と上級試験で一緒になって、私を差し置いて最終に進んで、アノリスとかいう首席さんに負けちゃった、トーマさんじゃないですかー」
その言い方には、隠しきれない棘があった。
トーマは、なんとも言えず気まずい思いに襲われた。
「ダルガン帰りですって? とても良い国なんでしょう」
ネイアは、にんまりと笑みを浮かべた。
「あなたもダルガン派、私たちの仲間ね」
「……知らないよ、そんなこと」
吐き捨てるように言い放つと、トーマはその場を離れた。背中に、まだネイアの視線がまとわりついているのを感じた。
(この一ヶ月の間に、一体何があったんだ)
頭の中が、混乱でいっぱいだった。誰に聞けばいいのか、誰を信じればいいのか、まるで見当がつかない。ダルガンでの充実した日々から一転して、帰ってきた王都は、妙にきな臭い空気に満ちていた。
夕刻――トーマは、いても立ってもいられず、ラフィスに声をかけた。せめてこの妙な噂について、誰かと言葉を交わしたかった。
ラフィスもまた、同じ胸のつかえを抱えていたのだろう、二つ返事で応じた。
「……シェリルを捕まえるか。何か知っているだろう」
将軍という身分であれば、王宮内どこを歩いていても違和感はない。シェリルが居そうな場所にも立ち入ることはできた。
その夜、イリッサはトーマの後を追っていた。
イリッサは師団内である事件を起こして、謹慎が明けた直後であった。
昼間は大人しくしていたが、やはりダルガンから帰ってきたということで、気になって仕方がなかった。
闇に紛れやすい色の外套を纏い、気配を殺しながら距離を詰めていく。誰かと待ち合わせをしているらしい様子だった。
やがて、トーマの前に一人の女が現れた。
(誰、彼女? いやいやトーマは妻子持ち……べ、別に私は不倫現場を押さえに来たんじゃないわよ)
イリッサはラフィスの事は知らなかったが、それでもイリッサの目から見ても、女にしてはやけに長身、歩き方も近寄りがたい風格があった。
品定めするような、嘲るような視線を向けながら、イリッサは物陰でほくそ笑んだ。少なくとも、この時点ではまだ、単なる下世話な好奇心の範疇だった。
だがそこにもう一人、人影が現れた瞬間――イリッサの中の何かが、音を立てて壊れた。
あの憎きシェリルの姿が、そこにあったのだ。
(なんで。なんで! あの女が!? ということはもう一人の女は、ダルガンから帰ってきた騎士団の将軍ってこと!?)
頭の中が、一瞬で真っ白になった。次の瞬間には、その白さを塗り潰すようにして、どす黒い感情が一気に噴き出してきた。
(トーマ、あんた)
裏切られた、という言葉が、真っ先に浮かんだ。自分たちの側に付いたはずの男が、よりにもよって憎んでも憎み足りないあの女と、こうして親しげに落ち合っている。
筋の通らない怒りだということはイリッサ自身、どこかで分かっていた。トーマは正式に自分たちの仲間になったわけではない。ただ声をかけただけで、まだ何の約束も取り付けていない。それでも勝手に「もう自分たちの側の人間だ」と決めつけていたイリッサにとってこの光景は、裏切り以外の何物でもなかった。
今すぐにでもあの女を引きずり出して、衆目の前に晒してやりたい。処刑台にでも突き出してやりたい。そんな凶暴な衝動が、頭の中を埋め尽くしていく。
トーマ、ラフィス、そしてシェリルの三人は、何も知らぬ様子で言葉を交わしながら、王宮を出て路地の奥へと進んでいった。古めかしい喫茶店の扉の向こうに、三人の姿が消えていく。
わずかに残った理性だけが、辛うじてイリッサを押しとどめていた。だが、その理性の糸は、今にも切れそうなほど、細く、頼りないものだった。




