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十 ルヴァンの夢

 出走馬は二十頭。ゲートが上がると同時に、地鳴りのような蹄の音が響いた。

 ラメーリオは好スタートを切った。前を塞ぐ馬群を巧みにかわし、早々に好位の四番手につける。ラフィスは呼吸を整えながら、周囲の騎手たちの動きに神経を研ぎ澄ませていた。


 だが、レースが中盤に差しかかった頃、異変が起きた。

 両脇から、二頭の馬が急に距離を詰めてきた。両側から挟み込むような形で、ラメーリオの進路を塞ぎにかかる。

(――舐められているわね)

 女だから、与(くみ)しやすいと踏んだのだろう。悪意の匂いが、隣を走る騎手から滲み出ていた。


 次の瞬間、隣の騎手が体を寄せ、肘でラフィスの体を突き飛ばそうとした。馬上から落とすつもりの、明らかな乱暴だった。

 だが、その動きが振り下ろされる寸前、ラフィスは殺気を感じ取り、身を沈めるようにして躱した。

(――甘いッ)

 声には出さなかったが、口元にわずかな笑みが浮かんだ。この程度の悪意など、ラフィスにとっては取るに足らないものだった。

 体勢を立て直し、ラメーリオの脇腹を軽く叩く。馬は応えるように、一段と脚を伸ばした。

 直線に入ると、前を行く二頭との差が、じりじりと詰まっていく。攻防は熾烈を極めた。左右から馬体をぶつけられながらも、ラフィスは怯むことなく手綱を握り続けた。


 ゴール直前、ラメーリオは渾身の脚を繰り出し、粘りに粘った末にゴール板を駆け抜けた。

 結果は三着。カラルドマーク競馬場が割れんばかりの歓声に包まれた。


「――三着だ! あの女、三着に入ったぞ!」


 勝者を称える声よりも、むしろラフィスへの歓声の方が大きいくらいだった。

「もっと見せろ、あの女を!」

 観客席のあちこちから、そんな声が飛んだ。

 ラフィスはゆっくりと馬を歩かせながら、その熱狂ぶりに、どこか呆れにも似た感慨を抱いていた。

 その頃、観客席ではルヴァンが立ち上がって手を叩いていた。

「――見たか、見たか! 我が国の将軍の姿を!」

 子供のようにはしゃぐルヴァンの姿に、周囲の目が集まるほどだった。

 トーマは、そんなルヴァンの様子に内心苦笑しながらも、胸の奥では素直な感嘆を隠せずにいた。あの土壇場での身のこなし、乱暴を仕掛けられてもなお崩れなかった姿勢――それは、単に「かっこいい」という言葉がしっくりくる光景だった。


 やがて、ラフィスは観客に揉みくちゃにされながら、ようやくルヴァンたちの待つ招待席へと戻ってきた。

「将軍! 見事だったぞ!」ルヴァンが手放しで讃えれば、

「いやはや、お恥ずかしいところを、お見せしました」ラフィスが謙遜しながらも、堂々とした素振りで答える。

「なんか、女芸人というか、いわゆるアイドルみたいじゃないですか」トーマはその熱狂ぶりに、少しおどけて見せ、

「はっはっは、私がアイドルとは……悪くないな……ふふっ」ラフィスも、それにまんざらでも無さげに応じる。

 そして、息を整えながら、ラフィスは静かに席に着いた。


 そうこうしているうちに、いよいよ本命のレース、ダルガンダービーの時間が近づいていた。

 競馬場全体の熱気が、これまでとは比較にならないほど高まっていく。出走馬が次々と姿を現す中、ロライ牧場の馬も三頭、ゲートへと向かっていた。

 毎年、ダービーの一着馬には「ダルガーノ」という称号が与えられ、永きに渡って栄誉を称えられる。上位入賞馬には巨額の賞金が出るが、それ以上に大きいのが軍への取引だった。さらに軍馬を無事に引退できれば種牡馬――つまり将来へ渡っての血筋を繋げていくという使命をも与えられる。


 その中の一頭に、ルヴァンの目が釘付けになった。

「――あれか」

 筆頭格の馬であることは、素人目にも一目で分かった。他の馬とは明らかに違う、静かな存在感を纏っている。ルヴァンは懐から双眼鏡を取り出し、スタート地点に構える馬を凝視した。

「――こいつは、やばいな。ロライさんところの馬なのは知っているが、迫力というか、強者の余裕というか……」

 思わず声が漏れた。牧場でラメーリオの隣に居た馬、名をイリオスといった。


 ダービーがスタートした。

 軍の関係者たちも、観客席の一角から固唾を呑んで見守っていた。

 あれほどの迫力でルヴァンを圧倒したイリオスだったが、その滑り出しは拍子抜けするほど緩慢だった。後方につけたかと思えば、やがてじりじりと順位を落とし、ついには最後方にまで下がってしまう。

「――なんだ、あれ。ただの人気馬か?」

 周囲からそんなざわめきが漏れ始めた頃だった。


 しかし最後の直線に入った瞬間、イリオスの様子が一変した。

 まるで解き放たれたように、猛然と加速する。前を走る十九頭を、まるで撫で斬りにするかのような豪脚で次々と交わしていく。その走りに、無駄な力みは一切なかった。ただひたすらに、圧倒的な速さだけがそこにあった。

 競馬場が静まり返ったのは、ほんの一瞬だった。次の瞬間、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。

 イリオスは、二着以下に大差をつけて、悠然とゴール板を駆け抜けた。

「な、なんだ、あの馬は……!」

 観客の誰もが、その圧倒的な走りに言葉を失っていた。ルヴァンもまた、双眼鏡を握ったまま、しばらく声も出せずにいた。


 これが、ダルガンの馬か。

 ラフィスは、しばし言葉を失っていた。

(――これが、攻めてきたら)

 今すぐに戦になる話ではない。それは分かっている。だが、これほどの馬を、これほどの規模で育て上げる国が、もし本気で牙を剥いたなら――エレシアは、はたしてどこまで抗えるのだろうか。背筋に、冷たいものが走った。


 かくして、本年のダルガーノの称号は、ロライ牧場のイリオス号のものとなった。

 表彰式はそこそこに切り上げられ、ロライはすぐさま商談の場へと向かった。ダービーで五着までに入った馬は上官クラスの騎馬として、十着までに入った馬は一般騎馬兵用として、それぞれ軍公認の取引が行われる。それ以外にも非公式の取引がその場で次々と成立していく。ダービーそのものが、巨大な商談の場でもあった。


 商談の輪の中に、ロライはエレシアの三人を招き入れた。

「――こちら、エレシアからいらした方々です」

 ダルガン側の顔ぶれには、先に会ったドゥモーロの他に、会計部門を統括する男の姿があった。名をベルクといった。

 そしてダルガン連合は、やはり男ばかりの社会だった。会場に集う視線の中には、ラフィスを見世物のように、あるいはいやらしい目で捉えるものも少なくなかった。だが、ラフィスはそれを意に介する様子もなく、静かに立っていた。


 商談は淡々と進み、やがてその場で、イリオス号を巡る取引が成立した。

 金貨、二千枚。

 その額が動く瞬間を目の前で見る機会など、そうそうあるものではなかった。ラフィスもトーマも思わず息を呑んだ。莫大な富が、馬一頭のために、いともあっさりと動いていく。


 取引が一段落したところで、ロライがルヴァンに目配せをした。

「――さて、本題にも入りましょうか」

 促されるまま、ルヴァンは表情を切り替えた。先ほどまでの浮かれた馬好きの顔ではなく、外交官としての顔だった。

 しばらくは国家間の事務的な話が続くが、話が馬そのものに及ぶと、ルヴァンの言葉も熱が入ってきた。

「良い馬を輸入するだけでは、片手落ちでしょう。育成のためのノウハウ――それこそ一朝一夕に浸透するものではない。馬という生き物を育てる技術は、単に馬体だけを運んで済む話ではありません」

 一同が耳を傾ける中、ルヴァンはさらに続けた。

「加えて、輸送そのものも、決して簡単な問題ではない。長い航海の間、馬の体力をいかに消耗させずに運ぶか――これは、我々にとっても大きな課題です」

 そこで、ルヴァンはトーマの方へ視線を向けた。

「幸い、我が魔法師団には、この分野で優秀な若者がおります。彼は水を制御する術を得意とします。海上輸送において、その手腕を発揮できるでしょう」

 トーマは、思いがけず名前を出され、わずかに姿勢を正した。


「――もし、この話に乗っていただけるなら、本国でも受け入れの準備を本格化させたいと考えています」

 ルヴァンは、ロライとベルクを交互に見据えた。

 ベルクが、そこで軽く手を挙げた。

「一つ、ご提案してもよろしいですか」

 商談の輪に、一段と静かな緊張が走った。

「ロライ殿、エレシアへの輸送が可能というのであれば、二頭ほど、融通しては如何だろうか」

 それを聞いたロライは二度ほど頷いて、言った。

「実のところ、牧場には、なかなか買い手のつかない馬もおります。血統は申し分ないのに、気性や体格の巡り合わせで、こちらの相場になじまない馬というのは、どうしても出てくるものでして」

 実際、ロライの牧場にも、そういう馬が何頭かいた。優秀な血を引きながら、行き場を持て余していた馬たちだった。


「――なるほど」

 ルヴァンは、思いがけない提案に、一瞬言葉を探した。

「ですが……それは、ロライさんにとって、少々失礼にあたるのではないでしょうか」

 場の空気が、わずかに変わった。

「馬というのは、美しいものであると同時に、取引によって動く、経済の起点でもある。それを、ただの『融通』という形で片付けてしまうのは……正直、少々気が引けます」

 ルヴァンの声には、馬という存在への敬意が滲んでいた。金だけの話ではない、という一線を、この男はきちんと弁えていた。

 その様子を見て、ドゥモーロが身を乗り出した。

「――やはり、あなたは分かっている。外交官としても、そして馬好きとしても、一流だな」

 感心したような声だった。


 それから、ドゥモーロはロライへ視線を移した。

「だが、ロライ。今日、あんたたちが軍馬を外交の起点として考えているのなら、この話は悪くないんじゃないか? どうだ」

 視線が、ロライへと集まった。

 一方、その傍らでは、ラフィスがまだ、興奮の余韻を隠しきれない様子で口を開いていた。

「――本当に、素晴らしい馬たちでした」

 ラフィスは、率直な称賛の言葉を惜しまなかった。

「エレシアの馬とは、比べものになりません。あの脚力、あの気性、そして手綱への従順さ。一頭たりとも、妥協のない育て方をされているのが分かります。これほどの馬に触れられたことを、心から光栄に思います」

 手放しの称賛だった。普段から多弁な方ではないラフィスにしても、これほどまっすぐに、迷いなく言葉を重ねるのは珍しかった。それだけ、この地の馬に強く心を動かされていた証だった。

 ロライは、その言葉を聞いて、満足げに目を細めた。

 商談の細部については、その場でロライから明確な返答があったわけではなかった。ただ、双方の間に、何かしらの含みを持った空気が流れたことだけは確かだった。


 翌日、一行はロライの牧場へ戻り、融通されることになった二頭と対面した。

 どちらも牝馬だった。芦毛の馬がエリオ、栗毛の馬がフィリオといった。

 ロライは、二頭の首筋を、一頭ずつ丁寧に撫でた。まるで別れを惜しむような、その手つきだった。エリオとフィリオもまた、何かを察しているかのように、どこか哀しげな目でロライを見つめ返していた。

 気性は、どちらも安定していた。荒々しさが控えめであることが、あるいは軍関係者たちの目に留まらなかった理由なのかもしれない――派手さこそないが、堅実で扱いやすい馬たちだった。


 ルヴァンは、エリオの首を大きな手で撫でながら、馬の近くである故に声を抑えながら、それでも豪快に笑った。

「――いやあ、しかし、たまらんですなあ、これは」

 いつもの調子で声を張り上げてから、ふと、その声のトーンが静かに落ちた。


「私にも、夢ができました」

 遠くを見るような目だった。


「いつかエレシアにも、これほど大きな牧場ができて。自国で馬を育てて、競馬場を開いて……国民みんなで、自分たちの国で生まれた馬たちが競う姿を見て、熱狂したい。そういう日が、来ないもんですかねえ」

 その言葉の間に、ふと寂しさが滲む。声の抑揚は変わらないのに、その奥にある何かが、確かに揺れていた。


「ただ、私ももう五十四ですよ。若い頃みたいに、無邪気に『夢を叶えるぞ』とは、なかなか言えなくなってきましてね――どこまでこの目で見届けられるか、分かりませんが……私がいなくなっても、この夢が続いていってくれたら、それで十分なんです。いつか、ダルガンの馬と渡り合える馬が、エレシアから現れる。国を越えて、馬を通じた交流が広がっていく――そんな時代が、遠く遠くに、見える気がするんですよ」

 語尾は、笑い飛ばすように締めくくられた。だが、その笑い方のどこかに、老いを噛みしめるような静けさが残っていた。


 その横顔を、トーマは黙って見つめていた。普段のルヴァンの豪快さの裏に、こんな寂寥を抱えていたことに、初めて気づかされた気がした。


 ラフィスは、なおのこと、その言葉が胸に染み入るのを感じていた。

(――夢が、続いていけばいい)

 その一言が、何度も頭の中で繰り返された。滅びた祖国、失われた人々、それでも歩みを止めなかった自分自身の日々――ルヴァンの言葉は、どこかそうした自分自身の在り方とも、重なって聞こえた。


 夢を叶えられるかどうかは、誰にも分からない。それでも、その夢を次に託せるのなら。自分がいなくなった後も、託した何かが続いていくのなら。

 目頭が、微かに熱くなるのを感じた。ラフィスは、それを悟られぬよう、そっと視線を馬たちの方へ逸らした。


 翌日の昼、エレシアの三人は、ロライの牧場を後にした。

 見送りに出てきたロライは、エリオとフィリオに、最後にもう一度声をかけた。

「――元気でな」

 短い言葉だった。だが、その声には万感が込められていた。

 馬車が牧場の門を抜け、やがて小さくなっていく間も、ロライはいつまでも、その場に立ち尽くしたまま、手を振り続けていた。


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