九 ラフィスと競馬
半月ほどの行程を経て、一行はようやく目的地へ辿り着いた。ロライ・ヴァルクという男の経営する、ダルガン有数の名門牧場だった。
牧場が見えてきた瞬間、ルヴァンは思わず声を上げた。
「この国には何度か来ているが――こいつは、すごいな」
地平線まで続くかと思うほどの広大な放牧地。エレシアでは到底考えられない規模だった。柵の向こうには、幾重にも連なる馬房と育成施設が整然と並び、その一つひとつが手入れの行き届いた様子を見せている。
「エレシアの牧場とは、規模が桁違いですね」
トーマも目を見張った。
ラフィスもまた、目の前に広がる光景に、静かな感嘆を覚えていた。馬という生き物への敬意と手間が、この土地全体に染み込んでいるようだった。
牧場の入り口で一行を出迎えたのは、聞いていた年齢の割に貫禄のある青年だった。
「――ようこそ、エレシアの方々。ロライ・ヴァルクです」
「お会いできて光栄だ。ルヴァン・タルカースだ、外交省の次官を務めている」
「ラフィス・ミラセシルです。リーヴィン騎士団、将軍を務めております」
「トーマ・ライです。魔法師団から参りました」
簡単な挨拶を交わした後、ロライは三人を見回した。
「長旅でお疲れでしょうが……せっかくですから見ていかれますか」
案内は、半日近くに及んだ。
最初に通されたのは、飼料庫だった。天井まで積み上げられた干し草と穀物の袋。そのどれもが産地ごとに分けられ、木札が下げられている。
「馬の脚は、飼料で決まります」
ロライはそう言って、袋の一つから燕麦を掬い上げた。
「北の平野で採れたものと、南の傾斜地で採れたものとでは、同じ燕麦でも中身が違う。育成期の馬には北のものを、仕上げの時期には南のものを。混ぜる割合も、その馬の状態で変えます」
「――そこまで」
ルヴァンが唸った。
「エレシアでは、燕麦は燕麦です。産地で分けるなど、聞いたこともない」
「うちがおかしいのかもしれません」ロライは笑った。「ただ、この国では珍しくもない話です」
その後、馬房、簡易運動施設と回っていった。
馬房は五十を超える房が整然と並び、そのどれもが清潔に保たれていた。敷き藁は真新しく、糞の匂いがほとんどしない。牧場スタッフが一日に三度の藁替えを欠かさず行っている。そして簡易運動施設は回転式の曳き運動器具、これで左右の回りの癖を矯正したりする。
ここまでは馬好きのルヴァンも想定していた施設だったが、次に案内されたのは馬専用の温泉だった。
「おおぉぉーっ! これはもしや、馬のための温泉、ですかい?」
これはルヴァンだけでなくラフィス、トーマからも声が上がる。
「えぇ、やはり疲労回復は馬も温泉です。これは言っちゃナンですが……我が牧場自慢の設備ですよ。なにやら我が国では軍の方で大規模な調教施設の建設が計画されているらしいのですが、先日も軍関係者がこの温泉を視察にきましてね」
ロライの顔が一層、自信に満ち溢れた表情になった。牧場の従業員共々、誇らしげに動いている。
放牧地では、若い馬たちが思い思いに草を食んでいた。
柵は低く、追い立てる者もいない。
「若いうちは、走らせません」
「走らせない?」
ルヴァンが意外そうな顔をした。
「二歳までは、好きにさせておきます。脚も、心臓も、まだ出来上がっていませんから。この時期に無理をさせた馬は、四歳で潰れます」
ロライは、遠くで寝転がっている一頭を指した。
「あれなど、一日の半分は寝ています。それでいいんです。急いで作った馬は、急いで壊れる」
ラフィスは、その言葉を聞きながら、静かに納得していた。
この牧場のすべてが、待つことを前提に組み立てられている。三年かけて脚を作り、二歳まで走らせず、飼料を産地で分ける。どれ一つとして、明日の結果のためではない。
(――これが、差か)
エレシアの軍馬が劣るのは、血統の問題ではないのかもしれない。かける時間と手間が、最初から違う。
夕刻近く、一通りの案内を終えたところで、ロライはふと思い出したように言った。
「そういえば、二日後にちょうどダルガンダービーがあるんですが……ご存じでしたか?」
「――ええ、もちろん」
ルヴァンは、待っていましたとばかりに笑みを浮かべた。
「実を言うと、ちょうどこの日を狙って日程を組んだんですよ」
ロライは軽く目を見張ってから、愉快そうに笑った。
「なるほど、抜け目ない。会場はここから馬で半刻ほどの、カラルドマーク競馬場です」
それから、ふと思い出したように付け加える。
「――ところで、どなたか馬に乗れる方はいらっしゃいますか」
その声に思わずラフィスが顔を上げる。
「乗ってもよろしいですか」
この牧場の馬に乗れる、と勝手に思い込んで声が出てしまった。
「もちろんです」
それに対して、ロライも歓迎するように答えた。
ロライが厩の方へ向かうと、しばらくして一頭の馬を引いて戻ってきた。艶やかな黒毛の馬体は、見るからに力強かった。
「今度のダービー出走からは惜しくも漏れてしまった一頭なんですが……よろしければ、どうですか」
ラフィスは馬に歩み寄り、その首筋にそっと触れた。馬は落ち着いた様子で、ラフィスの手を受け入れた。
次の瞬間、ラフィスは軽やかに鞍へまたがっていた。
馬の名は、ラメーリオといった。
ラフィスは手綱を握り、軽く踵で合図を送った。馬は静かに歩き出し、やがて坂路コースへと差しかかる。
なんとも威圧感のある坂路である。エレシアの馬だったら登らずに帰ってしまうかも知れない。
しかしここはダルガンの名門・ロライ牧場、ラフィスはラメーリオに加速を促した。
(なんだこれは……いい……いいぞ……)
坂道に差しかかった途端、ラメーリオの脚力は一段と力強さを増した。坂の勾配などまるで意に介さず、力強い蹄音を響かせながら、まっすぐに駆け上がっていく。
それに、何より驚かされたのは、手綱への従順さだった。エレシアの馬が皆そうだというわけではない。だが、これほど綺麗に寸分の狂いもなく意のままに走ってくれる馬には、そう出会えるものではなかった。
(――本国の馬とは、格が違う)
坂を登りきり、ラフィスは静かに馬を止めた。呼吸を整えながら、手綱越しに伝わってくる馬の力強さを、まだ全身で感じていた。
「いやぁ、これは」
ロライが、駆け寄ってきながら感嘆の声を上げた。
「女性だから、正直どうかと思っていたんですが……これは美しい。かなりの騎乗技術をお持ちですね」
「ありがとうございます」
ラフィスは静かに礼を返した。
「――どうです」
ロライは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ダービー前に、何レースか予選というか前座のようなものがあるんですが、まだ枠が空いているレースもあったはずです。よければ、この馬で出てみませんか?」
その様子を、少し離れた場所から見つめる者がいた。
ダルガン連合、騎馬部門を束ねる男――ドゥモーロ・アルティだった。ダービーを目前に控え、ロライ牧場の様子を見に来ていたところだった。
(――あの姿は……女、か?)
坂路を駆け上がるラフィスの姿に、ドゥモーロは目を細めた。手綱捌き、姿勢、馬との呼吸――競走馬に乗った経験があるかまでは分からない。だが、馬と呼吸を合わせるあの感覚は、明らかに素人のものではなかった。
その後、ロライとドゥモーロの取り計らいにより、ラフィスはダービー当日の第三レースへの出走が、あっさりと決まった。
「――前例がないわけじゃないが」
ドゥモーロは、値踏みするような目でラフィスを見た。
「競馬場に女が来るってだけで、観客の入りは変わるだろうな」
「私は、見世物というわけですか」
ラフィスは片眉を上げた。だが、その声に不快の色は薄かった。
「まあ、それでも悪い気はしませんね」
ドゥモーロは、それを聞いてふっと笑みを漏らした。
その夜、ラフィスは宿舎を抜け出して、厩へ足を向けた。
ダルガンの夜は、リーヴィンより幾分乾いていた。星がやけに近い。
ラメーリオの房の前に立つと、馬は既に目を覚ましていた。こちらを認め、鼻を鳴らす。
「――起こしたか」
ラフィスは柵越しに手を伸ばし、首筋に触れた。昼間と同じように、馬は静かにそれを受け入れた。
明後日、この馬に乗って走る。
勝ちたいという気持ちが、自分でも意外なほど強かった。剣を振るう時の高揚とは、また別の種類のものだった。あれは自分の身体一つで決まる。だがこれは違う。この馬の三年分の時間に、自分が乗せてもらうのだ。
(――足を引っ張るわけには、いかないな)
ふと、視線を感じて振り返った。
厩の入り口に、ロライが立っていた。手に提灯を下げている。
「――気になりますか」
「申し訳ない。勝手に入りました」
「構いませんよ。乗る前の晩に来る人は、大抵いい騎手です」
ロライは歩み寄り、隣の房を覗き込んだ。
「この子は、ダービーに出る方です。ラメーリオとは、同じ年に生まれました」
そこにいたのは、栗毛の大柄な馬だった。ラメーリオより一回り大きい。
「どちらが速いのですか」
「この子です。間違いなく」ロライは即答した。「ですが、ラメーリオの方が、賢い」
ラフィスは黙って続きを待った。
「速い馬は、たくさんいます。この国には、掃いて捨てるほど。ですが、乗り手の言うことを正確に聞ける馬は、そう多くない」
ロライは提灯を持ち上げ、ラメーリオの方を照らした。
「ダービーには出られませんでした。脚の速さが、ほんの少し足りなかった。……ですが、あれをあなたに預けたのは、気まぐれではありません」
その言葉の意味を、ラフィスは静かに受け止めた。
「――責任重大ですね」
「ええ」
ロライは笑った。
「ですから、楽しんでください。あの子は、走るのが好きですから」
ロライが去った後も、ラフィスはしばらく厩に残っていた。
ラメーリオが、また鼻を鳴らす。
明後日の朝、この国の人々の前で、自分はエレシアの将軍として馬に乗る。血筋でも、称号でもなく、ただ手綱を握る一人の騎手として。
悪くない、と思った。
そして、ダービー当日を迎えた。
カラルドマーク競馬場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「――いよいよだな!」
ルヴァンは、朝から興奮を隠しきれない様子だった。観客席に着くなり、周囲を見渡しては目を輝かせている。
「見ろよ、この人の入り! ダルガンダービーがこれほどの規模だとは、思っていた以上だ」
「――なんだか、こっちまで楽しくなってきますね」
トーマもまた、その熱気に当てられたのか、口元が自然と緩んでいた。試験以来、ずっと張り詰めていた気持ちが、この場の空気に少しずつほどけていくのを感じていた。
競馬場の中央には、これから走る馬たちが集められ、蹄の音と嘶きが絶え間なく響いていた。その中に、ラメーリオの手綱を握るラフィスの姿もあった。
係員に呼ばれ、ラフィスはラメーリオに跨ったまま、出走ゲートへと進んでいった。
名前が場内に告げられることはなかった。だが、その姿が観客の目に留まった瞬間、地鳴りのような歓声が競馬場全体を包み込んだ。
「――女だ!」
「異国の女が出るぞ!」
どよめきは、レースそのものへの期待というより、ほとんど見世物への熱狂に近かった。まるでどこかの舞台に立つ人気役者のような扱いに、ラフィスは思わず面食らった。
(――私如きに、これほどまでに)
だが、悪い気はしなかった。むしろ、少しばかり心地よさすら覚えている自分に、内心で軽く驚いてもいた。
ラメーリオに跨るその姿は、誰の目にも異国の者だと分かった。だが、同時に、素人でないこともまた一目瞭然だった。背筋の伸び方、手綱の握り方、鞍上での重心の置き方――それら全てが、場慣れした本物の騎手のものだった。
観客席で、ルヴァンは目を細めていた。
異国から来た者が、こうもあっさりとダービーという祭典当日のレースに参加できてしまう。国家としての体制の緩さを思うと、いっそ苦笑したくなるほどだった。
無論、それがこの旅にとっては好都合でもあったのだが。




