八 馬好きの外交官
リーヴィン騎士団には、長らく懸案となっている問題があった。軍馬の質だった。
訓練された馬体の強さ、持久力、気性の御しやすさ――どれを取っても、他国と比べて頭一つ抜けている……とは言い難い。この問題は騎士団内で幾度となく話題に上りながら、具体的な打開策のないまま先送りにされてきた。
そこに一石を投じたのが、外交省次官のルヴァン・タルカースだった。
「ダルガン連合の馬を視察してみてはどうか」
会議の席で、ルヴァンはそう提案した。ダルガン連合の馬の質の高さは以前から噂には聞こえていた。視察のついでに、うまくいけば輸入交渉まで持ち込めるかもしれない――表向きは、そういう話だった。
だが実のところ、この提案の裏にはルヴァン個人の思惑もあった。
無類の馬好きであるこの男は、以前からダルガンの馬に触れるために、数年に一度長期休暇を取っては観光と称して海を渡っていた。今回は仕事という大義名分に、自分の趣味をうまく滑り込ませた形だった。
とはいえ、これは騎士団にとって軽視できない話でもあった。国家間の交渉に発展する可能性がある以上、外交省だけでなく騎士団からもそれなりの格を持つ者を随行させる必要がある。だが、長期にわたって王都を離れることになるため、あまり要職にある者を割くわけにもいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが、将軍という格を持ちながら、まだ着任して間もないラフィスだった。
「――行かせていただきます」
ラフィスは、二つ返事で快諾した。もとより馬術には強い自負がある。他国の馬を、しかも屈強で知られるダルガンの馬を、直接この目で見られる機会など滅多にない。むしろ望むところだった。
魔法師団からは、トーマが同行することになった。先の上級術師試験、最終選考で惜しくも敗れ、準上級止まりとなっていた男だった。だが、彼の持つ雷水魔法――中でも水の扱いには、確かなものがあった。長距離の海上輸送において、船体の揺れを鎮め、軍馬を守るための技術に彼の力が活かせるのではないか。そう見込まれての抜擢だった。
「こういう形で評価してもらえるのは、正直、嬉しいですね」
トーマは辞令を受け取りながら、静かにそう漏らした。試験は、どうしても攻撃魔法の打ち合いに偏る。そこでは測れない自分の価値を、こうして見出してもらえたことが、素直に誇らしかった。
三人は準備を整え、六月二十五日、リーヴィンを発った。
道中は、決して楽な旅ではなかった。
エレシアの東方・デルヴァ共和国を北へ抜け、港町から船で海峡を渡りウルメシア大陸へ上陸してからさらに東へ進む。馬を乗り継ぎ、時に野営を重ねながらの、長い道のりだった。
それでも、ルヴァンの上機嫌ぶりは道中ずっと変わらなかった。
「いやあ、楽しみだなあ! ダルガンの馬は、蹄の骨格からして違う。脚力が桁違いだ。今回はその中でも名門牧場の主に会うことになっている。馬の育成の現場を見られるんだ! 報告書に書くことが沢山あるなぁ!」
馬の話になると、次官という肩書きも忘れたように、少年のような顔をする。ラフィスもトーマも、その熱量に苦笑しながら付き合った。
旅程の七日目、一行はデルヴァ共和国北端の港町から船に乗った。
海峡越えには丸一日を要する。出港した時は穏やかだった海が、昼過ぎには様子を変えた。雲の色が鉛のように重くなり、船体が大きく傾ぎ始める。
「この時期にしちゃ、荒れてるな……」
船長が舌打ちした。乗客の何人かは既に甲板の手すりにしがみついている。
ラフィスも、思わず柱に手をついた。剣を振るうのとはまったく違う種類の不安定さだった。足元そのものが信用できない。
「――少し、失礼します」
そう言って前に出たのは、トーマだった。
甲板の中央に立ち、両手を海面へ向ける。詠唱は短かった。
次の瞬間、船体の周囲の海面が、わずかに平らになった。
波が消えたわけではない。沖の方では相変わらず白い波頭が立っている。だが船のすぐ周り、幅にして十数歩ほどの範囲だけが、まるで別の海であるかのように穏やかだった。船体の揺れが、目に見えて収まっていく。
「――おお」
船員の一人が声を上げた。
「兄ちゃん、あんた術師か。こりゃ助かる」
「長くは保ちませんが」トーマは額に汗を浮かべながら答えた。「一刻ほどなら」
ラフィスは、その背中を見ていた。
波を打ち消しているのではない。船に届く前に波の高さを削いでいる。海全体を相手にすれば魔力がいくらあっても足りないが、必要な範囲だけを、必要な時間だけ抑える。無駄がなかった。
(なるほど。この男が選ばれた理由が、よく分かる)
最終試験でアノリスと戦い、敗れた男だった。だがあの試験で測られなかったものが、ここには確かにある。
術式が切れた頃には、幸い海も落ち着きを取り戻していた。
ルヴァンが、感心したように何度も頷いていた。
「いや大したものだ。馬を運ぶとなればこの揺れが命取りになる。船倉で暴れて脚を折る馬が、毎年どれだけ出ると思う」
「それは、聞いています」トーマは肩で息をしながら答えた。「だから、呼んでいただいたんでしょう」
「そういうことだ」
ルヴァンは満足そうに笑った。
ウルメシア大陸に上陸した時点で、既にそこはダルガン連合の領内だった。だが目指す牧場は、そこからさらに東へ数日の道のりにある。
街道の質はエレシアとは比べるべくもなく、雨が降れば泥濘に変わった。宿場町の間隔も広く、野営を強いられる夜が幾度もあった。
道中のある夜、野営の焚き火を前にして、ルヴァンはふと真顔になった。
「――ラフィス将軍。一つ、頭に入れておいてほしいことがある」
声の調子が、それまでとは明らかに違っていた。トーマもその空気の変化に気づいて口をつぐんだ。
「ダルガン連合は、帝国と表立って事を構えてはいない。だが、内側には穏やかでない機運を持つ者も少なくない。もし――」
ルヴァンは、言葉を選ぶように一度間を置いた。
「カリティスディア王家の血筋が今も存命だと、かの地で知られてしまえばどうなるか。あなた自身の意思とは関係なく、反帝国の旗印として担ぎ上げられかねない。ダルガンにとっても、エレシアにとっても、これは厄介な火種になる」
さらにルヴァンは、ラフィスの目を鋭く見つめ、言葉を続ける。
「向こうは王女が誰なのか知らない。名乗らないわけにはいかないが、偽名を使えば使ったで、後々厄介なことになる。それ故あなたには、あくまで『リーヴィン騎士団の将軍、ラフィス・ミラセシル』として、かの地に立ってもらいたい。幸いにしてダルガンは好戦的である一方、国家としては未熟、情報網も乏しい。カリティスディアという国は知っていても、そこにいる者の名前は存じ上げていないだろう」
焚き火の炎が、静かに爆ぜた。
旗印。
担ぎ上げられる。
どちらの言葉も、自分の意思とは無関係に働く力を指している。血筋というものはいつもそうだ。名乗らずとも勝手に意味を持ち、望まぬ形で使われようとする。
だがカルナヴィアの日に、自分はその血筋から降りた。拾ってもらった場所で、一本の剣として立つと決めた。ならば、答えは一つしかない。
ラフィスは顔を上げた。
「お心遣い、感謝いたします」
一度言葉を切り、まっすぐにルヴァンを見返す。
「ですが、案ずる必要はありません。私は、エレシアの将軍としてこの地に立ちます。それ以外の何者でもない――その意志を持って、臨むつもりです」
その声には、迷いも揺らぎもなかった。過去を捨てたわけではない。だが、今この瞬間、自分が背負うべきものは何かを、ラフィスは既に見定めていた。
ルヴァンは、しばらくラフィスの顔を見つめてから、小さく頷いた。
「――ああ、それなら安心だ。いずれ身分は露見するかも知れない。その時はまた私が力になろう」
そう言って、また元の朗らかな調子に戻った。
「よし、じゃあ明日も気持ちよく進もうか!」
焚き火を囲む三人の間に、束の間張り詰めていた空気が、静かに解けていった。
火の粉が、夜空へ舞い上がっていく。
ラフィスは、それを目で追いながら、腰のノクティセカに手を添えた。
この刀もまた、どこから来たのか分からない。異国の刃で、この国でただ一人だけが扱いを知る職人がいる。それだけの素性しか持たない一振りだ。
それでいい、と思った。
素性ではなく、どう使うかで決まる。刀も、人も。




