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七 午前三時の誘惑

 夕食を終えた頃合い、師団の小会議室には三人の姿があった。

 師団長アルヴァン、副団長ベルナルト、そしてシェリル。それぞれ別々の経緯でこの場に呼ばれていた。

 口火を切ったのは、ベルナルトだった。

「――近頃、師団に妙な空気が流れているな」

 言葉を選びながら、シェリルに視線を向けた。

「シェリルへの嫉妬があるのは、今の活躍を見れば無理もないことだ。何しろ、以前にも出版社への放火騒ぎから、暗殺未遂にまで発展した前例がある」

「ええ、承知しております」

 声こそ落ち着いていたが、その内側では、思っていた以上に感情が波立っていた。シェリルは続けた。

「仕方のないことだと、頭では理解しているつもりでした。出版というものを伴えば、ここまでのことが起こり得ると……ですが、実際に自分の身に起きてみると――気味が悪いものですね。理屈で分かっていることと、実際に自分に向けられる悪意の質量とは、まるで違う」

 シェリルの手のひらに、じわりと汗が滲んでいるのが分かった。そして珍しく声が微かに震えていた。感情の起伏に乏しいシェリルにしては、これほど正直に本音を晒すことは滅多にない。それだけ、この十日ほどの空気の変化が、シェリル自身の内側に静かに堆積していた証だった。


 アルヴァンは、そんなシェリルの様子を見ながら、静かに口を開いた。

「――実は、もう一つ、報告しておかねばならないことがある」

 場の空気が、一段と張り詰めた。

「十日ほど前、お前さんの妹・アノリスから密告があった。師団内に、汚職に関わっている者がいる、と」

 シェリルが目を見開いた。妹が、そのような場に単身で赴いていたことを今初めて知った。しかも十日もの間、誰にも打ち明けず、一人でその重さを抱えていたのだと思うと、胸が締めつけられた。

「――アノリスが……」

 声がわずかに掠れた。驚きと、それ以上に強い誇らしさが込み上げてくる。あの妹が自分の預かり知らぬところで、これほどの覚悟を持って動いていた。

「黒幕は、エインだ。確か……神経魔法をやっているソニアの義父」

 アルヴァンは続けた。

「ダルガン派を国内に組み込むため、あの男は動いている。その一環として、私的とはいえ帝国と文書のやり取りをしているお前を槍玉に挙げ、対立を煽り、失脚させようとしているようだ」

 シェリルは黙って耳を傾けていた。

「建設会社と繋がりがある、という話だった。規模を考えれば、金を回している建設会社はここから南西の街・ソルペンシアのストヤーマ組と見て、まず間違いないだろう。アノリスの密告が全て事実かどうかは、まだ確定したわけではない。だが、これだけあからさまな動きが表に出ている以上、ストヤーマ組の周辺を当たってみる価値はある」


 ベルナルトが小さく頷いた。

「――こちらでも、内々に調べを進めよう」

 アルヴァンはそれから、シェリルの方へ向き直った。

「――本意ではないだろうが」

 言葉を選ぶように、間を置いた。

「帝国とのやり取りは、しばらく控えた方がよさそうだ」

 シェリルは一瞬目を伏せた。ガルデウスとの書簡はシェリルにとって数少ない、純粋な知的交流の場だった。惜しくないと言えば嘘になる。込み上げていた感情の余韻の中で、それでも冷静な部分が静かに頷いていた。

「承知いたしました」

 短く答えた。声には、まだ微かな震えが残っていた。


 三者会談は、それで静かに終わり、小会議室を出てシェリルは一人、執務室へと足を向けた。

 既に夜、廊下は静かだった。灯りの落ちた窓の外に、月がぼんやりと滲んでいる。歩きながらシェリルは今夜聞かされたことを、一つずつ頭の中で整理していこうとした。だが、どれだけ事実を並べようとしても、胸の奥に居座ったままの熱がなかなか鎮まらなかった。


(――アノリス)

 妹の名前を、心の中で呼んだ。

 なぜ相談してくれなかったのか、とは思わなかった。自分に言えば必ず巻き込むことになる。それを避けたのなら、判断として正しい。

 ただ、たった一人であのアルヴァンの部屋の重い扉を叩いた妹の姿を思うと、胸のあたりが妙に落ち着かなかった。


 執務室の扉を開け、シェリルは静かに灯りを灯した。

 しばらくの間、机の前に座ったまま、シェリルは動けずにいた。

 明日は休みだが、明後日に控えた講義の資料が、まだ整っていなかった。三者会談で交わされた話は、色々と雑音のように耳の奥にまとわりついていた。だが、机に向かい術式の展開図を書き始めると、不思議とそうした雑念は静かに遠のいていった。

 没頭するというのは、こういうことだった。数字と術式の羅列に意識を沈めていくと、余計な感情の波は自然と凪いでいく。それがシェリルにとって、最も得意とする逃避の形だった。


 気がつけば、随分と遅い時間になっていた。

 窓の外はとうに真っ暗で、廊下も静まり返っている。さすがに目が霞み始めていた。

(今日はここまでね)

 資料を片付け、シェリルは入浴を済ませてから、女子棟の宿舎へと戻る廊下を歩いていた。既に時刻は午前三時に近かった。

 湯上がりのシェリルは、すっかり油断していた。薄手の寝間着に、羽織り一枚を軽く引っかけただけの姿。裾も襟元も緩く、歩くたびに下着が覗き、そこから際どいところまで見えそうな、あまりにも無防備な格好だった。就任式であの黒いドレスを纏い、国王臨席の場で堂々と講義をしていた特級術師と同一人物とは、とても思えない有様だった。


 自室に向かう途中、少し先の扉が音を立てて開いた。

 エルナの部屋だった。

 そこから出てきたのは……男だった。


 シェリルは足を止めた。

(――カイル?)

 試験場や就任式で顔を見た記憶がある。特任研究師の就任と、上級術師の就任が同日に重なったあの式典で、確かこの男もいたはずだった。

 一方のカイルは、廊下の向こうから歩いてくる人影に気づき、反射的に身構えた。だが目に映った姿に、頭が一瞬真っ白になった。

「んぉっ」

 思わず間抜けな声が漏れてしまった。ここは女子棟、当然女しか居ない。騒がれたらどうする。自身もやばいし、この部屋がエルナのものだと知られたら彼女もまたやばい。

 ……しかし、そんな差し迫った様子は、その女からは感じ取れない。

(こんな時間に、あんな恰好で歩いてる女……)

 湯上がりの、隙だらけの女が、こちらへ向かって歩いてくる。誰だか見当もつかなかった。師団の宿舎に住んでいる術師のはずだが、顔にも装いにも見覚えがない。

(夜遊びの帰り、とか?)

 場違いな想像が一瞬よぎった。だがそれ以上に、今この状況そのものがまずかった。

 こんな時間に、女子棟の廊下に男がいる。しかも、明らかにエルナの部屋から出てきた。

 カイルの顔から、みるみる血の気が引いていった。

(――ま、まずい)

 声にならない動揺が全身に表れていた。逃げるべきか、それとも何か言い訳をひねり出すべきか、頭の中がぐるぐると回っていた。


 シェリルは、そんなカイルの様子には一切気づかぬ様子で、すれ違いざまに軽く会釈をした。

「お疲れさまでした」

 それだけ言って、シェリルは通り過ぎていった。

 カイルは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

(――見られた……)

 足が、がくがくと震えていた。エルナと二人でこの時間まで何をしていたのか、あの見知らぬ女は目撃した上で、あえて何も言わずに去っていったのだ――そうとしか思えなかった。冷や汗が背中を伝う。

 と、そこでカイルは、女が向かう先を目で追ってしまった。

 女は、迷う様子もなく歩いていき、廊下を挟んで斜め向かい、二つほど先の扉の前で立ち止まった。鍵を取り出し、静かに開ける。物音を立てまいとする所作だった。中に誰か寝ているらしい。

 その部屋に、女は吸い込まれるように消えていった。

(――あんな近くかよ)

 顔も知らない女が、こんな時間に、こんな恰好で、あの部屋に入っていった。その事実だけが、やけに生々しく頭に残った。

 そして、もう一つ。

(エルナと、同じ棟の、目と鼻の先……)

 顔見知りでないはずがない。明日にでも世間話のついでに「そういえば昨日の夜ね」などと切り出されたら。エルナが後から探りを入れられたら。俺は――俺はどうすりゃいいんだ……と、カイルは思案を巡らせた。

 そして喉から、ひゅっという妙な音が漏れた。口がわなわなと震え、言葉にならない。足は完全にすくみ、その場から一歩も動けなくなっていた。



 翌日の午後、稽古を終えたカイルが訓練場から戻ってくると、師団ロビーにアノリスの姿を見つけた。速足で近づき、向かいの椅子にどかりと腰を下ろす。

「――おい、アノリス」

「なに、そんな怖い顔して。エルナにこんなところ見られたら疑われるぞっ」

 アノリスは意地悪っぽく笑って肩をすくめた。

「そういう話じゃねえんだよ……」

 カイルは月華亭での礼をそこそこに切り上げ、すぐに本題に入った。

「昨日の夜、エルナの部屋から出てきたところを、廊下で見られたんだ」

「――は? あんた夜に女子棟で何やってんのよ、というか誰に見られた?」

「それが分かんねえから困ってんだよ! 午前三時前だぞ? こんな時間に誰も歩いてるわけねえだろって油断してたのに」


 アノリスは思わず噴き出した。

「ぶっ……愛し合っていい気分になった矢先にそれ? 最悪じゃん」

「笑い事じゃねえって!」

 カイルは頭を抱えた。

「その女、湯上がりみたいな恰好で、服装もなんかちょっと乱れてて……下着なんかもチラっと見えてて……こっちが誘惑されてんじゃねえかって一瞬本気で思ったくらいだ。それですれ違いざまに、『お疲れさまでした』とか言われて……ヤッてるの見られてたんじゃね……」


 アノリスはひとしきり笑ってから、ふと真顔になった。

「午前三時。あれ、そういえば」

「なんだよ、心当たりあるのか」

「いや、その日、姉さんが結構遅くまで執務室に籠もってたはずで……」

「――は?」

 カイルの口が、間の抜けた形でぽかんと開いた。

「お前の、姉さんに? 見られた?」

「多分ね」

「いや、待て待て待て。あの就任式で、艶やかな黒いドレス着て、王様の前で堂々と講義してたあの人が……宿舎の女子棟の廊下で、午前三時に、あんな恰好で歩いてたっていうのか?」

 カイルの口が、アワアワと意味のない音を立て続けた。頭の中で、就任式の厳かな姿と、昨夜の湯上がりの女とが、どうしても一致しない。

「姉さんさ、研究に没頭すると時間感覚なくなるタイプでね、時々こんな時間になることあるの」

 アノリスはけらけらと笑いながら続けた。

「それに、安心しなよ。姉さん、男女の色恋関係にはとことん疎いから。あんたとエルナが、こんな時間まで魔法の話で盛り上がってただけだって、本気でそう思ってるはずだよ」

「――マジで?」

「マジマジ。むしろ心配すべきは、あの油断してる時の服装の方だと思う」

 アノリスは、心底困ったという顔で溜息をついた。

「夏場なんて、一日部屋から出ない日は下着で論文書いてるからね。『どうせ誰も来ないもの』って。私が居るんだけどって話なんだけど」

「――は?」

「この間なんて、扉の外から声かけられて普通に開けようとしてたから、慌てて止めた。本人、何が問題なのか最後まで分かってなかったし」

「……それ、大丈夫なのか」

「大丈夫じゃないから困ってるの。やっぱり姉さんって、男ができないとあの緩みっぱなしの寝間着姿は直らないのかなー。今度、それとなく言っておくわ」

 アノリスは笑いを堪えきれない様子で、椅子の背にもたれかかった。

 カイルは、まだ半信半疑の顔のまま、何度も「マジか……」と繰り返していた。安堵と気まずさが入り混じった、なんとも言えない表情だった。

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